眠れない時に数える羊。 もともとは羊を英語で言うとシープで、それと眠るのスリープとがかけてある、と聞いたことがある。 日本語に翻訳した瞬間に現れる、やってしまった感と意味不明臭。 シープとスリープ。 羊と睡眠。 夜に羊を数えようとするたびに頭をよぎるやってしまった感。 そもそもそんな無理のある翻訳で、なぜここまで浸透しているのかが謎だ。 「もう翻訳はまんま、羊と睡眠でいいや」と思ったいさぎよさには一目置いている。 毎月30日はみその日。 30をみそか、というらしくそれとかけてみその日。今日、6月30日もそうだ。 いろいろな記念日がある日本。たいていはそれの普及や覚えてもらうための記念日だったりするがみその日は違う。 「食生活の洋風化とみその消費減少をストップさせる」記念日。 微妙にネガティブ。消費拡大ではなく、減少をストップ。目指せ現状維持だ。 たしかに自分はほとんどみそは取らない。そんな人はたくさんいるんだろう。だからまず減少を止めて、それから拡大を狙っているのかもしれないが、それでも消費拡大と言っておけばいいんじゃないかと思う。 1982年に制定したらしいが、ということはまだ減少を止められていないのだろう。 いつか目標が「消費減少率を減らす」とかになりそうな予感が、頭をよぎる。 四次元ポケットというものが現実にあるとする。 漫画「ドラえもん」の中に出てくるそれは、ポケットの中が四次元になっていてなんでも、いくらでも入る、という代物だ。 それがあれば学校に教科書を持っていく手間が格段に小さくなる。バッグがいらない。 車を持っていても、駐車場料金が掛からない。100円パーキングなんて用済みだ。 いや、もうアパートを借りることもしなくて良いかもしれない。中で寝る。 そんな使い方をしてみたところで技術の無駄遣い感は否めない。せっかくの四次元なのにやることといったら小金の節約。 節約術という言葉を良く耳にするが、その最高峰に位置している自分にとっての四次元ポケット。 どこでもドアがほしい。 誰でも一度は考える、その願望。自分ももちろんその一人。 ここで言うどこでもドアとは、ドアを開けたら行きたいところにすぐ行ける、アレ。 もしどこでもドアを手に入れたら、駅までそれを持っていく。いや、駅までですらどこでもドアで行けるのだ。便利。 そして切符を買おうとしている人に 「どこでもドア持ってるんで、これで行きませんか?」 と誘う。全国一律百円。 きっとお客は殺到するだろうがそこは駅側が黙っていない。間違いなく係員が来る。 でもどこでもドアがあれば用意に逃げられるのだ。 そしてまた別の駅で繰り返す。 なんてせこいことを考えてみたが、もしどこでもドアが一般発売されたとしたら値段はいくら位になるのだろうか。おそらく天文学的額になるんだろう。 一般人の自分に買えるはずはない。 夢があるようでない。そんな話。 冬の寒いときくらい、家でじっとしていてもいいんじゃないか。 そう、思い続けて今に至る自分。ウインタースポーツというものにほとんど関わったことはない。一度だけスノーボードに行ったことがあるが、当日の朝までぐだぐだしていた。 「なにもわざわざ寒いところに行かなくても」 もちろんただ寒さに凍えるためにスキー場に行くのではない、ということはわかる。 友達や恋人と楽しむ、という目的もわかる。 「でも別にスキー場じゃなくてもいいんじゃないの」 カラオケにしても映画にしても、暖房の効いた楽しいことはたくさんある。 体を動かしたい、というのがメインだったらボーリングとかなんかいろいろあるし。 そんな自分。 「しかし今は夏だ。寒くはない。スポーツだ。」という発想にもならない。 「夏の暑いときくらい、涼しいところで休んでいようよ」 「毎朝味噌汁を作ってくれないか?」「毎日パンツ洗ってくれ」 そんな、使われているのかどうかは別として、プロポーズの言葉がある。 自分ならなんて言うだろうか? 「毎朝コーヒー、入れてくれないか?」 味噌汁をコーヒーに変えてみただけだが、なんかプロポーズとして受け取ってもらえなさそうだ。 「二日に一回くらいでいいからパンツ洗ってください」 毎日毎日洗濯は大変だろうな、という思いやりを込めたつもりが、ただ不潔な男だと思われる結果になった。しかも敬語にしたら少しあぶない感じがでてしまった。 「いや、もうホント、結婚してください」 切羽詰まった状況、ということは相手に伝わるだろう。もしかしたら同情でしてくれるかもしれない。それでもいい。 でもまずはそれを言う相手を探そうと思う。 そもそも今日のテキストは「プロポーズをプロポーズ(提案)する」というどうでもいいことを言いたいがために書いた、ということを告白しておく。 ムーンウォークというのがある。 ダンスの一種だと認識しているそれは、前に歩いているように、後ろに移動するあれだ。 それをマスターしたい。 大学内で自分が歩いていると、向こうから友達が。相手も自分に気付いたようだ。 ここでムーンウォークを使う。 相手は自分に向かって歩いてきている。相手は自分が近づいてくると感じている。しかしお互いの距離は縮まらない。 きっと相手は不思議そうな顔をするだろう。それこそムーンウォークマジック。 いい年してムーンウォークマジックとか言っている自分に少し疑問を抱くが、本気でこれをやってみたい。 そんなことを思う自分は好きだったりするが、周囲からは冷たい視線。 降水確率50%はないだろう。 今日雨が降るのかどうか、傘は持っていったほうがいいのかどうかを知りたいときに、降水確率50%。結局「わかりません」と言われたに等しい。 自分は昔、降水確率というのは勝手に「雨雲が何%、その地域に覆っているか」ということだと思っていた。たとえば東京都全体の天気予報なら、東京の面積の半分を雨雲が覆っていれば降水確率50%、というように決めているのだと思っていた。 しかし現実は違うらしい。 詳しくは分からないが、湿度や風、過去のデータなんかを照らし合わせた上での50%。 適当に言っているわけじゃないというのは理解しているけれども、なにか納得がいかない。 彼はもはや手の届かないところに行ってしまっている。 携帯電話はその名が表すように、携帯できる電話という意味だった。しかしそれはもはや過去の話。 ここで言う電話とは家にある固定電話のことだが、家の固定電話でメールはできない。写真も取れない。では何ができるのかと聞かれれば、会話ができる。それしかできない。 もはや携帯電話は固定電話とは違う世界に行ってしまったのだ。まさに下克上。 同じ地位で安心しきっていた固定電話。常に進歩を求めた携帯電話。 でも進歩しすぎて自分には全てを使いこなせない。会話とメールで精一杯だ。 携帯電話は、固定電話からもユーザーからも手の届かないところへ向かっているのかもしれない。 テキストのカウンターが1000ヒットを超えました。 日本のインターネット人口は6500万人と言われているので、あんまりたいした数じゃあないですが、それでも自分にとっては区切りの数なのでうれしいです。 いつもいつもくだらないテキストを書いていますが、そんなものでも誰かの何かの役に立てているなら、それがテキストを書く原動力になっています。 とか言ってみましたが、実際はコメントが書いてあるだけで、 「やったー、こんなものでも読んでる人いるんだ」 とか本気でよろこんだりしています。 いつにもまして取りとめのない文章でしたが、本当にありがとうございます。 これからもよろしくお願いします。 管理人:pop-spa メロンは英語でメロン。 そこまではいいのだが、スイカは英語でウォーターメロン。ひたすら納得がいかない。 スイカはスイカでオリジナルの英語を用意するべきだ。日本語ではスイカ、メロンとちゃんと区別している。見た目が似ているからって、スイカをメロン呼ばわりしないでほしい。日本では決してスイカを「水っぽいメロン」だとか「中が赤いメロン」とは言わない。 と、ここまで威勢良く書いてきたが、もしかしてスイカはメロンの仲間なのかもとふと思う。 もともと「メロン」があって品種改良したやつが「スイカ」とか。 うーん。いきなりしょぼくれてくる自分の勢い。ちょっと調べてみたけれど答えは出ない。 なんかもう「メロンもスイカもおいしいからいいか」とか思いはじめる始末。 四角いスイカが好きだ。 と言ってみても食べたことがあるわけではない。実物も見たことがない。テレビや写真で見たことがあるだけ。どうやらあんまりおいしくないらしい。きゅうりに近いとかも聞いた事がある。 だけど好きだ。 普通のスイカは甘いのにさっぱりしていておいしい。 そんな誰もが認めるようなスイカの味、長所を捨て去って、目指した末たどり着いた地点。それが四角。 そこにあるのは一瞬の笑いと、食べたときに訪れるであろうガッカリ感。 しかしそれこそが四角いスイカの長所だ。存在意義だ。 どんなに丸いスイカがおいしいとしても、安いとしても、見た目でプッとなることはない。 しかし四角いスイカにはそれがある。 「重要なのは自分は他人にはない誇れるものがあるのかどうかだ。少しくらい負けている部分があったって気にすることはない。他人の長所と自分の短所を比べたって、負けているのは当たり前なんだから」 四角いスイカはそう、自分たちに訴えかけているに違いない。 妙にまじめだった昨日のテキスト。 今日のこのスイカテキストを書くための布石だということは、告白しない方が良いのかもしれない。 考え方を変える。これしかないと思う。 自分は身長が170ないのがコンプレックスだった時期がある。今は気にしてないけれど。 他人と自分を比べてしまう、というくせがあった自分。そんなことをしてもなんにもならないと分かっていても、やってしまっていた。身長だけではなく、他にもいろいろなことを比べていた。 そのくせを直すきっかけになったのは友人の一言。 「他人の長所と自分の短所を比べたら、劣っているのはあたりまえ」 かなづちで頭を殴られたような衝撃、は殴られたことがないので分からないが、まったく彼の言うとおり。 それを聞いた時、「コンプレックス」という自分の中にあったものは消えてなくなった。 結局、自分が他人より劣っているのではなく、その比べた他人が自分よりその点では優れている、というだけなのだ。 どんなに苦手なことだらけでも、何か一つ、他人にはないものをもっているならそれは、自分にとっても他人にとっても最高の長所になってくれるんだと思う。 6月23日の今日は踏切の日。 ふ(2)み(3)きり、でそうらしい。今月だけではなく毎月23日は踏みきりの日。踏切ファンが待ち遠しい日だ。 23日になったら近所の踏切に出かけ、眺める。踏切バックに家族写真なんかを撮ったりしたほうがより、踏切の日らしくなる。 それにしても毎月毎月、年に12回も訪れるその日にすることは正直そんなにない。 いっそのこと年一回、2月3日にしてしまえば、どこかの企業とかが踏切デーやフェアなんかをやってくれるかもしれない。 しかしその日は節分。 ネームバリューでは到底太刀打ちできない。 いっそのこと節分を「踏切に豆をまいて邪気を払う日」とかにしてしまうのもいいんじゃないだろうか。 大学の授業中、横になって寝ている人がいた。 自分もそんなに集中して講義を聴いていたわけではないが、ふと斜め前を見ると、椅子に横になって寝ている人がいる。机には教科書もなにも出していない。 「かっこいい」と思ってしまう自分。 講義中に話しているやつはうるさい、と思うし、ポータブルプレイヤーで音楽を聴いている人もたまに見かける。 一体何をしに大学に来ているのか、という感じだ。 しかしその寝ている人は純粋に、寝に来ているのだ。もはやあきれるを遥か通り越してかっこいい。 それなら家で寝ていればいいじゃん、と思うかもしれないがそうではない。 講義の中で寝る、という行為からのみ感じるある意味のスリル。家で寝たのでは味わえない充実感。そして達成感。しかも机に伏した形で寝るのではなく、横になって。 自分も少し横になってみようかな、などと考えたが、周りの目が気になってとてもじゃないが横にはなれない。 結局、あこがれと横になれない悶々とした気分を抱いたまま講義は終わった。 寝ていたその男の人は、起きて、何事もなく帰っていった。 彼は自分の知らない世界に足を踏み入れているのかもしれない。 ひとし君の恨みはただただ、募るばかり。 自分とは直接関係のない回答者。その人間が間違えたという理由で奈落の底に落とされるひとし君。彼の耳に聞こえた最後の言葉が脳裏に焼きつく。 「ボッシュート」 笑みを浮かべる司会者がその、暗黒の言葉、とも言えるワードを口にする。 そして開く、奈落への落とし穴。避ける術をひとし君は持たない。 落ちていく。 ただ、落ちていく。 終着駅である奈落の底には自分と同じ境遇の、兄弟とも呼べるその犠牲者が山のように重なり合っているのかもしれない。 毎週のように訪れる、世界ふしぎ発見の一コマ。 もし自分が「ひとし君」だったなら、ノノムラよりもクロヤナギ側に付きたいと思う。 ジュースなんかの缶にあるタブの部分。 あそこは左右対称にはなっていないらしい。 完全に左右対称になっていると力が分散して開けるのにものすごい力が必要になる、ということをどこかのサイトで読んだ。 そんな細かいところにまで気を配る人がいるのか。 自分もそんな気の利く男になりたい。 だれかが缶ジュースを開けようとしていたら「あ、それって左右対称じゃないんだよ」と言ってあげたりする。 まただれかが缶ジュースを飲んでいたら「それって昔のタブは取って外していたから衛生的だけど、今のタブだと缶の外側にあった部分がジュース部分に当たるから汚い、って苦情が結構あったらしいよ」ということまで教えてあげるのだ。 ついには「そのタブをむりやり取って上から見ると、ウド鈴木に見えるよ」などと、どうでもいいことまでアドバイスする男になってしまうかもしれない。 どんなに気が利くといっても、印象が好転する兆しはない。 なっとうパンを食べた。 朝とも昼ともいえない時間に食べたので、三時くらいに小腹がすいた。 そのときに、冷蔵庫の中を見たら、なっとう。 ここでご飯があればいいが、そう世の中都合よくはいかない。そんな思いにふける自分の前には食パン。 やってしまった。 どうせ同じ炭水化物。食べてみたら意外といける、そう思い込んで食べた。 結果はその通り。 内心どうせだめだと思っていても、やってみればどうにかなる、という話。 隣にいた友人は「まずい」と連呼していたが、聞こえないフリ。 男の友達が「もし次生まれ変わっても男がいい」と言っていた。 自分は女になりたい。今「男」なんだから、次は体験したことがない「女」がいい。新しいことへのチャレンジだ。 女になったら、なんか調子乗った男をだましてみたり、あんなこともやったりこんなことも。 とか考えてみたけれど、その考えは「今男の心を持ったままで女になった場合」にやることであって、もし本当に女に生まれ変わったとしたら結局いわゆる「普通の生活」を送ってしまうんだろうと思う。 新しいことへのチャレンジならやっぱり男でもない、女でもないものに生まれ変わりたい。 なにか道を間違ってしまいそうだが、自分はそれを望んでいるのかもしれない。 プリントクラブの略称であるそれは、ただひたすら、プリントする集まりだ。 なにかお知らせがあればプリントクラブに頼んでプリントしてもらう。彼らのプリント技術は相当なものだ。 プリントする媒体も、紙からボールの球面からなんでも可能。 プリンターの討論も活動の主な内容だ。 新しいプリンターが発売されれば、ショップに行き討論する。 このボタンが押しやすいだとか、給紙が容易だとか、もちろんプリントクオリティーもおろそかにはできない。 そこに、男女関係は発生しない。 ただひたすら、男も女もプリントについて語り合う。べたべたな馴れ合いも皆無だ。 そんなプリントクラブ。 いくら自分が「プリクラ」に縁がないからってそんなことを考えてみてもなんの解決にもならないことは、自分が一番分かっている。 働き者のアリと、遊んでばかりのキリギリス。 もし自分がそこにいたならどうしているだろうか? たぶんアリほど熱心に働きはしないだろう。時々は遊びたい。 ではキリギリスほど遊ぶかと聞かれたら、それは無理だ。キリギリスはずっと歌を歌っていたらしいが、自分にはそんなに一つのことに打ち込めるほどの趣味はない。 結局、適度に遊んで、働いてだと思う。そこにあるのは今の現実となんら変わらない生活。 「なまけものは結局最後につらい目に会う」という教訓の話のはずが、ただ現実を見つめなおすという結果になってしまう。 「普通の生活が一番幸せ、ということをイソップは言いたかったのかもしれない」とでも思わなければ、やってられない。 初心忘れるべからず 一人暮らしを始めて一番めんどうくさかったのは洗濯だ。 かといって毎日同じパンツをはくわけにはいかないので、安いやつをたくさん買った。 パンツを洗濯するのが面倒だから、沢山買うという発想。あるならノーベル生活賞がもらえるかもしれない。 しかしそんな大量のパンツもついに残りわずか。洗濯しなければならない状況に追い込まれる。 そして洗濯機を回し、洗濯が終わり、それを干すわけだが、パンツだらけ。 洗濯の回数は確実に減るがしかし、パンツの量は反比例して増大する。 そんなパンツだらけの状況を見て以来は洗濯をこまめにするようになった。 しかし今また、パンツが大量発生する兆しがある。 自分にとっての初心忘れるべからず。それは「ノーベル生活賞は狙うな」という言葉に尽きる。 もうパンツまみれの部屋は嫌だ。 食パン。食べられるパン。それは当然じゃないのか。 なぞなぞで、食べられないパンはなにか、というものがあるが、それはフライパン。納得できる答だ。 では食べられるパンはなにか? 基本的にはパンは食べられる。メロンパンも焼きそばパンも食べられる。 もしかしたら食パンは自分自身、食べてもらえるか不安なのかもしれない。 そんな理由で、食パン。「僕は食べられるパンですよ」という食パン自身のメッセージのこもった名前。 もしかしたら「わざわざ食パンとか言わなくても、もうみんなわかってますよ」と食パンに言ってあげるべき時期が、来ているのかもしれない。 あずきバーというものがある。 信じられない。自分は絶対に必要としない自身がある。 バーというからには、アルコールも飲めるんだろうが、そんなところでおちおち酒なんて飲んでいられない。まわりはみんな、同じような空気の人だろうから、つねに心は構えておいた方が賢明だろう。 なにかをした瞬間に文句を言われそうだし、見たこともない映画のうんちくを聞かされるのかもしれない。 それは勘弁してもらいたい。 たとえどんなに断りにくい人から誘われようと、自分はそんなところには行かない。 まったく読んでいて意味が分からないだろうが、「あずきバー」と「おすぎバー」が似ているなぁ、というのを発見して勢いで書いてみた。 ようはダジャレ。 コブクロ、というアーティストがいる。 新曲らしい曲を少し前によくレンタルビデオショップなどで聞いたが、その歌詞が印象的だ。 数回聞いただけでうろ覚えなので細かい部分は違うかもしれない。 「夢は見ることではなく、叶えようとする行為に意味がある。行くしかないだろう」というようなことを言っている。 そうだったのか。夢を現実にすることに意味がある。見るだけではダメだ。 今日「友達同士で酒を飲んで、カラオケで騒いでいる」という夢を見た。しかし見ることに意味は無い。現実にするんだ。 そういうことで友達に電話をかけ、今日呑む事を約束した。カラオケも相手が行きたくないと言っても、無理やり連れて行く。 行くしかないだろう。 もちろん、コブクロの言いたいことがそういうことではないことは理解している。 さらに告白してしまえば今日「友達同士で酒を飲んでカラオケで騒いでいる」夢なんて、見ていない。 「ビルから落ちる」夢を見て、驚いて起きただけだ。 うめおにぎりを食べない。 コンビ二で売っているおにぎりの種類はどんどん、増えている。 定番では、うめ、たらこ、さけ、コンブ、シーチキンあたりだと思うが、この五つの中でうめだけがあんまり好きじゃない。 いや、その表現は違う。うめ以外の四つが大好きすぎる。 少食なほうなので、おにぎりを四つ一気に食べることはあまりない。大抵三つ買うことになる。 そうなるとさっき挙げた、たらこ、さけ、コンブ、シーチキンの中から二つ選んで、あとは五目とかやきとりとか、あまり定番ではないめずらしい路線のものを一つ買ってしまう。 そこにうめは入ってこない。 さほど定番ではない、めずらしい路線のおにぎりはいつなくなるかわからない。 あまり頻繁にコンビ二のおにぎりは食べないので、もしかしたら次の機会にはないかもしれない、と思い買ってしまうわけだが、うめが消えてしまうことはない。 いつでも食べられる、という安心感が自分をうめから遠ざけている。 うめには悪いと思いつつも、結局食べない自分。 でも、たらことかがおいしすぎるのにも問題があると思う。 翻訳機がほしい。 誰でもほしいと思うが、日本語でそれにしゃべると英語になって発音してくれる。逆もできる。 そんな完全な翻訳機がほしい。 もしそれを手に入れたら、英語音声の映画を見たり、微妙にへたくそな日本人の話す英語発音なんかを翻訳してみたい。 調子に乗って海外旅行なんかをしてみるかもしれない。 でも行ったら、ずっと電池がなくなるとかを心配しているだろう。なくしでもしたらそれこそ一巻の終わりだ。その場で泣き崩れてしまう。 そんな泣き崩れる様を見て、優しい外国の人が話しかけてきてくれる。 それすらなにを言っているのか分からない自分。 「優しいフリをして実は悪いやつだったり・・・」などと疑ってしまうかもしれない。そしてその場から走って逃げてしまい、結局頼るものがなくなる。 「完全な翻訳機ができたら」という夢物語のような空想の中でも、いまいちパッとしない自分。 もう翻訳機なんていらない。 一次会ではビールを飲んで、二次会ではチューハイを飲んでいた。 成人式は式が目的ではなく、そのあとの飲み会が重要だったし、もしそれがなかったら式に出ることもなかった。 そういう人は多いと思うし、自分もその一人だ。 それでいいんだと思う。 成人式の意義を問題視したニュースや記事を目にしたことはあるが、自分の意見として持っているのは「連絡先を知らない昔の友達に会うためだけに、成人式に出てもいいじゃん」というものだ。式自体に興味はなくても、かまわないのではないか。 中学時代の友達。 卒業してから初めてあったが、その人は結婚していて、子供がいた。 そのほかにも、モデルという自分の夢をかなえている人もいたし、これから夢がかなうように今、努力している人もいた。 もちろんフリーターという人もいたが、決して定職に就くのが嫌だからというわけではなく、これからどうしようか、真剣に考えていた。 自分の初恋の人にも会えた。 その人は今恋人がいると言っていたし、自分がまだその人を好きだということはないが、会えた、それ自体がうれしかった。 ちなみに勇気がなくて、告白はしていない。相手は自分が好意を寄せていたことを知らないし、これからも知ることはないが、好きだったことは事実として変わらない。 告白しなかったことを後悔はしているが、その後悔があるからこそ、二度とそんなことにならないように好きなら好きと言う、今の自分がいる。 そんな友人たちと話していて、自分はもう子供ではないことを実感した。少なくとも、小学生、中学生の時よりは、成長していた。 成人式の式自体からは自分は何も学ばなかったが、飲み会からはいろいろなことを学んだと感じている。 自分が一番問題だと思うのは、たいして考えもせずに「めんどくさいから成人式なんてでない」「どうせ式に意味ないから出ない」という人だ。 確固とした理由があって出ないならかまわないが、「20歳の成人式」というものは人生に一度しかないものなので 「一回しかないチャンスなら、でてみようかな」という理由で出ても損はしないんじゃないか。 そんなことを、考えてみた。 三個セット百円くらいで売っているヨーグルトとプリンがある。 スーパーなどでは大抵、隣同士になっておいてある。ヨーグルトの横にプリン。プリンの横にヨーグルト。 プリンが一つ売れれば、ヨーグルトはプリンよりも数が一つ多くなる。また一つ売れればヨーグルトは二つ、多くなってしまう。 彼らにとって、数が少ないことはステータスなのだ。 しかしヨーグルトが三つ一気に売れた。正確に言えば三セット、九個。 人間の手に持ち上げられ、ヨーグルトはプリンを見下すようにして、買い物籠の中に入れられる。 そんな熱い火花が散る、デザート売り場。 しかし、そんな争いもついに終わるときがきた。 牛乳プリンの登場である。 「ヨーグルト=牛乳」という関係が成り立つなら、牛乳プリンはイコール、ヨーグルトプリンである。 これはもう、プリンが売れたとか、ヨーグルトがどうとか言う必要は、ない。なにせ牛乳プリンだ。 長い間続いた争いは、どちらかの滅亡ではなく、どちらも生き残り、しかもお互い一歩前進した形で終結した。 などと書いてはみたが、そもそもそんな争いがあったのかどうかは疑わしい。 小学校低学年の頃「将来の夢」というテーマで作文を書いた。 周りの友達は「野球選手」とか「医者」とか書いていたが、自分は「郵便局員」だった。 では本気で郵便局員になりたいか?と聞かれたら、答えはNO。 そのときの社会の授業でやっていたのが「郵便局」についてだったから、そう書いただけの話だ。 あまりそういうことをまじめに考えて書くほうではなかった。 そして家に帰り、その話を兄にすると、一言。 「俺も昔、将来郵便局員になりたいって書いた。」 まったく似ていないとよく言われる兄弟だが、まさに、人は外見じゃない。 パンが一層おいしくなりました。 コンビ二などにある広告。 正確に数えたことはないが、一年に一度くらいはこれを言っている気がする。 一年に一度、進化するパン。 形が似ているというだけで味は全然だったメロンパンも、もしかして次の進化で形と香りがメロンになってしまったりするかもしれない。 そしてその次の進化で中にメロンの種が。 ついにはメロンパンも、メロンパン専門の職人ができ、どこから見てもメロンにしか見えないメロンパンになってしまったりするのだろうか。 そして調べてみると今現実に、果肉入りのメロンパンがあるそうだが、まさか。 打ち砕かれる自分の中のメロンパン感。 見た目はどんなにメロンに近づいてくれてもかまわないが、味は全然メロンじゃないままで、いてほしい。 お好み焼きはまさにそれである。 お好み、とうたってはいるが全てが自分の自由に焼けるわけではない。 小麦粉にキャベツなどが入って、たこやいか。大体そういう形のなかの「お好み」焼き。 本当に好きに焼いていいなら、自分なら肉を焼く。 スーパーで売っている、焼肉のたれを持ち、手ごろな値段の肉を買ってきて焼くのだ。肉はブタでも牛でもかまわない。 それが自分にとっての本当の「お好み焼き」なのだから。 それだけではない。 水泳の自由形でも、ひとり背泳ぎや、犬掻きで頑張ってみたい。 型や常識にとらわれない真の自由が、自分の中にはある。 「体に良いと言われても、どうしても食べられない」 昼に、納豆が好きだと言うことを書き、そこにいただいたコメントだ。 納豆好きの自分からしたら、納豆を食べられないなんてもったいない、となってしまうが、納豆嫌いの人にしてみれば、まったくその通り、というコメントであると思う。 レバーや、牛乳などのように「体に良い」といわれている食品は大抵、好き嫌いが真っ二つに割れてしまうが、その中でも納豆は差が激しい。 ここで少し、考え方をワールドワイドにしてみる。 牛乳が飲めない、と言う人は世界にたくさんいるだろうが、好きだと言う人もたくさんいる。 レバーも、統計を取ったわけではなく、あくまで想像だが、牛乳と同じだと思う。 では納豆はどうか? 日本では大体、半々で好き嫌いが別れるだろう。 もちろんこれもキチンとしたデータがあるわけではないが、もし世界でみたらおそらく、ほとんどの人が納豆を食べられない。 納豆が「体に良い」という事実は変わらないのに、世界中で食べているのはほぼ、日本人だけだ。 60億分の7000万人。世界人口60億人、日本人の半分が食べられるとしても、この程度でしかない。 つまり「健康のために納豆を食べる必要なんてない。納豆を食べてはいないが健康な人は世界中に数限りなくいる」というのが自分の結論だ。 なんだか妙に偉そうなテキストになってしまった。 これからも自分は「体に良いとか悪いじゃなく、納豆がおいしいから」と感じながら、納豆を食べ続けていこうと思う。 結局はそんな60億分の59億3000万人にとってはどうでもいい宣言がしたいがため、こんなテキストを書いてみた。 世の中の人を大きく二つに分けるとすれば、納豆が食べられる人と、そうで無い人に分けられる。 すこし大げさに言ってみた。 臭いが嫌い。味が嫌い。だってあれ腐ってるじゃん。 それが納豆嫌いの人の言い分ベスト3だと思う。あくまで想像だが。 では納豆が好きな人は、納豆のどこが好きなのか? 臭いが好き。たとえ腐っててもおいしい。ネバネバ感。 これが納豆の好きなところベスト3であろう。というより、自分の納豆に対する思いを羅列しただけだ。 結局何が言いたいのかと聞かれたら 「自分は納豆が好き」という一言で片付いてしまう、この駄文。 携帯電話を目覚まし時計として利用している。 いつもはベッドから手が届かない机の上に置いているのだが、昨日はベッドで寝転がりながらメールを打ち、机に置きに行くのがめんどうでそのまま枕元に置き、寝てしまった。 寝相の悪い自分。どうやら携帯電話が枕の下に入ってしまったようだ。もちろん、寝ているので自分は気付いていない。 そして恐怖は訪れた。 朝、セットした時間になるとピピピピピという電子音と、ブーブーという脳みそを直接揺さぶるバイブレーションが襲う。 「飛び起きる」ということを初めて今日、体験した。 犯罪が増え、テロの恐怖も他人事ではなくなってしまった今の日本。 携帯電話というどこにでもあるものですら「恐怖」という牙を向けてくる。 我々はそんな殺伐とした世界を、生きていかなくてはならない。それを痛いほど実感した、朝だった。 「ただ単純に自分がマヌケなだけ」という事実には最後まで目をそらしていこうと思う。 よく自転車に乗っていると書いたが、それと同じくらいよく、駐輪場のどこに自転車を置いたのかを忘れる。 いつもいつも探すときになって「ああ、どこに止めておいたのかちゃんと覚えておけばよかった」と思う。 そして毎日そう思う。結局覚えないのだ。 それはなぜか? 理由は、自転車が見つかるから、ということに他ならない。 これがもし、止めた場所を覚えなかったら絶対に自転車が見つからない、ということになったら大変だ。それなら必死に覚えるだろう。しかし現実はそんなことはない。数分探すことになるがしかし、ちゃんと見つかる。 世の中、不景気とか言っているけど意外となんとかなるんじゃないの?と自転車駐輪場から人生観を教わる大学生。それが自分。 そんな考えで将来自分が泣くことになっても、教師が駐輪場なんだからしょうがない。 自転車にばかり乗っている。 車の免許は去年の夏取ったが、それ以降数回しか運転というものをしていない。それもAT車。免許はマニュアル。 「自動車の出す排気ガスの問題」 「防ぎようのない交通事故」 そういうことをなにかで読んだり、聞いたりするたびに「自分は運転はしないから地球に優しい」などと思ったりする。 交通事故も自分は自転車なので起こす側ではなく、ひかれる方なので自分が気をつけていればよっぽどのことがない限り、大丈夫だ。 などと書いてはみたがただ単純に車を買うお金がないだけだ。 「自分は運転はしないから地球に優しい」などと思ったことも、実は無い。 「いいなぁ、車」とうらやましがるだけで、地球のことなんてこれっぽっちも考えていない大学生がいるだけ。 世の中には「いちご大福」というものが存在する。 それは名前の通り、大福の中にいちごが入っている食べ物。 甘いものの中に、適度な酸味を持った物を入れる。 まさに革命。 誰が考案したものなのかは知らないが、これだけメジャーな食べ物になっているんなら、さぞかしマネーが入ってきたのではないか? それを目指して自分も何か、新しいものを考えてみる。 甘いもの、適度な酸味。 「いちごタイヤキ」 これでは二番煎じだ。しかもまったくおいしそうじゃない。 「ぶどうまんじゅう」 食べてみれば意外とおいしいかもしれないが、だれも食べてみてはくれなそうだ。 「トマトケーキ」 なんだかもう、よくわからない。初めの意図とは大分ずれている。 一攫千金を目指してはじめた今回の試行錯誤。 結局「いちご大福」の偉大さを痛感する、という結果になった。 調べたけれど、結局よくわからない。 ブログというのがどういうものなのかは、よくわからないがはじめてみたりする。 しかしはじめてみたものの、何を書くか? 「日記」 「コラムもどき」 「絵」 などといろいろ考えてみても答えは出ない。 最後の「絵」にいたっては描けもしないのに言ってみただけで・・・。 しかし結局は自分に、高度な政治的なことが書ける訳も無く、ましてや競馬必勝法なんかも書ける訳が無いので、肩の力を抜いて気楽に更新していきたい。 ・・・誰か競馬必勝法があったら教えてください。 |