あいまいな表現。 イエス、ノーをハッキリ言える人がすばらしい、という風潮もあるが、日本語独特の遠まわしな表現だって時には優れていることだってあると思う。 状況にもよると思うが例を挙げてみる。 誰かの意見に反対するとき、面と向かって「それは違う、こうだ!」と言うよりも、「自分はこう思うけどどうかな?」みたいな言い方のほうが、角が立たないんじゃないかと思う。 あまりにハッキリ言い過ぎると、よくない場面はあるんだと思う。 たとえ友人から借りた本をどこかへなくしたとしても「なくした」と言うより、「いや、ほら、あるけどさ、ちょっとどこに置いたか忘れたような気が、ね」とか言ったほうがいいのだ。そして同じ本を買ってさりげなく返す。 世の中、知らなくて良いこと、知らないほうが良いことだってあると思う。 言いたいことが変わってしまった。 小学生の大きい方のトイレは命がけだ。 これは男だけの問題なのかもしれない。なぜなら女子トイレに小専用、大専用の区別は無いからだ。 我慢の限界になり、学校のトイレに駆け込んで、誰かに見つかる。 そこに漂う、バレたという敗北感と、うんこの臭い。 なぜ小学生はあんなにもアグレッシブにうんこに反応するのだろうか。アイドルだって本当はしているのに、ましてや自分がしないわけがない。 そして中学生になるころには誰もがその魅力には飽きてしまい、どうでもよくなる。 自分ももうとっくにうんこには魅力を感じなくなってしまっている。 子供の心を忘れないように常日頃心がけてはいるが、こればっかりは忘れたままでもいいかなと思ってしまった。 百円ショップで見つけたマシュマロを、おいしそうだったから二袋買ってきた。 イチゴやグレープのものもあったが一番シンプルなただ白いだけのマシュマロを二袋。 一つ口に入れる。 柔らかで、甘くておいしい。もう一つ。うん、おいしい。 コーヒーが飲みたくなってきたが、切らしている。甘いものにジュースもどうかと思うので、水でも飲んでおくことにした。 また一つ、口に運ぶ。甘い。水。さらに一つ。甘い。水。もう一つ。甘い。水。うまい。水。水。水。水。 もはや限界。甘すぎる。 原材料を見てみると、砂糖、水飴、ゼラチン、コーンスターチ、大豆たんぱく、香料、とある。 大豆たんぱくなんてどこに使っているんだろう、なんて考える。 よく考えるとマシュマロ、というのは意味が分からない名前だ。 調べてみると、マーシュ・マロウという植物の根から作ったからなんだそうだ。 それにホワイトデーはマシュマロデーとも言われるらしい。 どんどん増えていくマシュマロの雑学に反比例するように減少するマシュマロ摂取量。 たとえこの袋を全部食べ終わっても、あと一袋。 なにを考えていたのか、味も一緒。 スーパーマリオ2の毒キノコ。 ファミコンのディスクシステムで発売されたそれ。 スーパーマリオブラザーズの続編であり、難易度が高くて有名だ。 その中にある、スーパーキノコと毒キノコ。 スーパーキノコは食べると、大きくなり、強くなる。 逆に毒キノコは食べると毒で小さくなり、小さいまま取ると死んでしまうものだ。 そういう位置付けでゲームは進むが、少し待って欲しい。食べると体の大きさが二倍近くに膨れるキノコはたしかにスーパーだろうが、確実に毒だ。体にいいはずがない。 しかもその理屈でいけばもう一つスーパーキノコを取ればさらに倍に膨らんでしまう。実質四倍。 手も足も、心臓も、骨も四倍。体で必要とする酸素量も四倍。体中にめぐらさなければならない血液の量も四倍。 もはやそれを補う事は不可能。きっと死ぬだろう。 生き残るには、体を小さくする。これしかない。 そこで登場する毒キノコ。四倍だった体を小さくしてくれ、もとの体に戻れる。救世主により、一命を取り留めたのだ。 スーパーキノコという名の「毒」であり、毒キノコという名の「救世主」。 「悪魔はみな優しいのだ」 これと同じようなことがいえる現代社会。 自分は外見や名前にとらわれることなく、物の本質を見抜けるような人間になりたい。 人名用漢字が増える。 それを少し前に発表して「屍」や「糞」などの漢字が含まれており議論を呼んでいたが、それらはカットされることになったらしい。 どう考えてもそんな漢字を名前には使わないとは思うし、使ってはいけないと思うが「とにかく数が増えた方がいいんじゃない?」という発想はあながち間違えてもいないんじゃないか。 たとえば子供の個性を育てる、発想を豊かにする、という教育論があたりまえになってきている。そんなときに大人が勝手に決めた「個性を育てる方法」「発想を豊かにする方法」を押し付けてみたところで、そんなものが役に立つわけが無い。 それは所詮塀の中の自由なんだと思う。 今回の漢字問題は自分の意見として「屍」とかを加えたっていいと思う。結局問題の根本は名づける人間、親にあるからだ。 そもそも子供の名前に「糞」とか使っている親が市役所に届け出てきたら、その段階で親失格にしてしまったりしたらどうか。人権とか自由とかそんなのに触れる気がするが、子供にそんな名前をつけるやつが正しいわけがない。 自分はそう思う。 そしてちょっとかっこいいからといって読めないような名前を付けられている子供も多い。 不適切な漢字をカットしたとしても、まだまだ根本的な問題解決は遠いんじゃないかと思う。 幽霊は実在する。 そう考えている人がどの程度の数いるのかはわからないが、自分はそれには否定的だ。 いないと思う。 おそらく小さいころに触れる「怪談」というものの影響で心に恐怖ができて起きる見間違い、が原因なんじゃないかと思う。 それでも小さい子が「大人には見えていないなにか」に反応した、という話も聞いた事がある。そしてその見た子供は別に恐いとは感じていない。ウソをついているわけではないし、恐怖心からの見間違いでもなさそうだ。 それはきっと、大人の方が勘違いしているんじゃないかと思う。 好奇心のカタマリである子供。どんなに小さなものにも、大人が気にも止めないような、ゴミのようなものにも好奇心から反応してしまうんじゃないか。 子供の反応した小さな存在に、大人は気づかない。そこに何も無いと思ってしまう。 イコール幽霊、と勘違いしているんじゃないか。 自分の意見として持っている、幽霊はいない、というものはこういう理由からだ。 そうとでも思わなかったら、怖くてやってられない。 ファンタオレンジ。 自分が小学生のころにはもうあったそのジュース。たまに飲んでは小さな幸せに浸っていた。 自分の前に男が現れた。とか言ってみてもいつも一緒に遊んでいた同級生の男だ。確か当時小学二年生くらいだったと思う。 彼は革命を起こした。 ファンタオレンジを一気飲みしたのだ。350ml缶。まるで水でも飲んでいるように、彼は缶を開けてからものの数秒で、空にした。 数人いた周りの人間は、当然のようにまねをした。そして敗北し崩れ去っていく。炭酸を一気飲み、というのはそれほどの苦行なのだ。 そして自分もやってみた。 簡単にできた。すこし炭酸がきついなとは思ったが、別に吐き出す事も無く飲みきった。 コーラもできた。彼もできた。 僕等はまぎれもないヒーローだったのだ。 毎週日曜日はインスタントラーメンの日。 ものすごい自身だと思う。 たしかに日本はインスタントラーメンの消費が多く、年間60億食くらいだと聞いたことがある。日本人が一気に全員食べても全然足りない。 それにしても、記念日なのに毎週やるという発想。 自分の誕生日は一年に一回しかない。それを毎週やろうと言っているようなものではないのか。 毎週日曜日が誕生日。 書いてみたらちょっと、よさそうだ。毎週誰かからプレゼントをもらい、毎週ちやほやされる。 でもきっと、周りの人達が飽きてしまう。そして冷たくなってくる。 土曜日に友人の顔を見ると、嫌な顔。 「ちっ、また明日もアイツの誕生日かよ」 全員そんな顔。 日曜日の友人の顔は 「くそ、何で毎週プレゼントなんだよ。来週のプレゼントはつまようじで十分だな」 そんな顔。 想像しただけで、この惨事。実現させたらさらなる大惨事になることうけあい。 アテネオリンピックが近づいてきた。 約110年前に始まった近代オリンピック。その場所もアテネ。 ただあまり興味の無いスポーツ。金メダルを何個とるのかと予想する番組も多くなると思うが、別に多ければ多いほどいいじゃん、くらいにしか自分は思わない。 100mとかだってほとんどタイムは変わらないんだから、いっそのことみんなで走って、ゴールしたら握手して、終わったっていいと思う。 そこにはない勝利へのプレッシャー。あるのは走れる事の喜びと、同じことに打ちこんでいる人との交流。 平和の祭典としての正しい姿はこれじゃないかと思う。 いい年の大人がだらだらと走りながら、その喜びに酔い、ゴールした瞬間隣の人と握手したり、抱き合ったりする。100mだけじゃなく、マラソンも、水泳なんかも全部そうする。 それをテレビごしに見て面白いかどうかは考えてはいけない。 なんたってそれこそが「平和の祭典」なのだ。 食後すぐ寝ると牛になる。 もしこれが事実なら、生物学、物理学やらすべての学問が崩壊するほどの衝撃。もちろん自分は食後にすぐ寝ることが多いが人間のまま。 少し残念。 ところで何で牛なのか?調べてみても牛は食後すぐ寝るなんてどこにもない。食べてすぐに寝ると太る、という意味で使うなら豚なんじゃないか。 食後すぐ寝ると豚になる。 書いてみて違和感はないが、ちょっと響きが冷たい気がする。牛にはあったある種のファンタジーさがかけらもなくってしまっている。 もしかしたら昔は豚だったのかもしれない。しかし「それはちょっと、厳しすぎない?」という提言の下、改正された豚。白羽の矢が立ったのは牛。 行儀の悪い人を注意するのは大切だけれど、どんな言葉でも注意すれば良い、というものでもないのかもしれない。 相手を思いやる心から生まれた言葉。それが牛。 ゲゲゲの鬼太郎のゲゲゲ。 意味がありそうだが、実は無いんじゃないか?と思ってしまう。ただ勢いだけのゲゲゲ。そもそも勢いだけにしても、ゲゲゲはないんじゃないか。なにかしっくり来るものを考えてみた。 「正義の鬼太郎」 わかりやすく自分のスタンスが現れていていいと思うが、すこしチープだ。 「オバケの鬼太郎」 ありのままの自己紹介だ。しかしQ太郎と間違えられる恐れがある。 「目玉の息子」 事実を述べただけなのに、これじゃあ全然親しみがもてない。ダメだ。 それにしても改めてゲゲゲという言葉を考えてみると、誰がつけたかは知らないが、その語彙の豊富さに驚かされる。自分では逆立ちしたって出てくる事の無い「ゲゲゲ」。 始めは否定的だった自分だが、少しずつゲゲゲの魅力に惹かれてしまっている。 今日、自転車で散歩していたら「村長コーポ」というアパートがあった。 自分の中のネーミングセンスという概念をことごとく打ち砕く名前。村長コーポ。 住んでいるのは村長だけなんだろうか。いやしかしそのアパートがあったのは市内だ。近くに村なんてないし、そもそも村長だけしか住めないなんてありえない。 よくその名前を検証してみる。もしかしてアナグラムなんじゃあないか。 「村長コーポ」→「村長候補」 これだ。 あのアパートに住んでいるのは皆、全国のどこかの村の村長候補たちなのかもしれない。 村長候補生たちにとって憧れの的、それが村長コーポ。 しかしなぜそんなのが自分の住む場所にあるのかは謎のまま。 そもそも結論がアナグラムじゃなくてただのダジャレ。 たとえば自分がなにか新しい映画を見たとして、それを面白かったと友人に言うとする。すると返ってくる返事は 「それって、○○(なにか映画のタイトル)よりおもしろい?」 ということがある。 なぜそこで比べたがるのかがわからない。 「その映画、どのくらいおもしろいの?」 と言われることもある。どんなところが、だったら理解できるが、おもしろさに単位(1オモシロとか)なんてないので、どのくらい、なんて答えようがない。 結局この質問も「他のなにかの映画と比べての感想」を待っているものだと思う。 おもしろいものはおもしろい。もちろん、つまらないものはつまらない。それでいいんだと思う。 順位なんて必要ないし、つけられるものでもない。 普段はどうでもいいことばかり書いている自分も、たまには世間をズバッと切るするどい意見も書く。 と言ってみたものの、自分は「するどい切り口の文章」というものがいまいちよくわかっていない。 信じられない。 昨日書いたコーヒー牛乳について。 カフェオレを英語訳でCoffee With Milkは間違えてはいないが、コーヒー牛乳を英語に訳すとCoffee Flavored Milkとある。まさか。 Coffee Flavored Milkを直訳で「ミルクの味わいを添えたコーヒー」となる。 調べてみるとコーヒー50%ミルク50%が正しいカフェオレの作り方、となっている。 しかしどう考えてもコーヒーに「ミルクの味わいを添えた」程度のものにミルクが50%も入っているとは思えない。せいぜい30%くらいなんじゃないかと思う。 日本語と英語とフランス語を駆使してたどり着いた末のカフェオレとコーヒー牛乳の相違。 大人になったなどと調子に乗って、昨日は見ることができなかった真実。 自分の目の曇りは、コーヒー牛乳によって洗い落とされた。 コーヒー牛乳とカフェオレ。 昔は違う飲み物だと思っていた。 今は生乳以外のものを入れると牛乳と名乗れないので、コーヒー牛乳はなくなってしまったが、小さい頃は別のものだと思っていた。 売っているコーヒー牛乳とカフェオレは違う味だ、と感じていたのは自分だけなんだろうか。 カフェオレというフランス語を英語に訳すとCoffee With Milk。要はコーヒー牛乳。言葉の上では一緒だ。 違う味だと感じていたのはただ単純に、メーカーごとの製造法の違いだったのかもしれない。 あの二つは同じものだ、ということを自分は容易に受け入れられるようになってしまった。大人になったと言ってしまえば聞こえはいいが、なにか物悲しさを感じてしまう。 コーヒー牛乳から測る、自分の器、その容量。 バーミヤンが好きだ。 ファミレスの名前だが現実に行ったことはない。ただ名前の響き、バーミヤン、が好きだ。 ブタのプーヤンとか、緑色のパーヤンとかそんな部類の中の自分にとってのバーミヤン。 ホームページを見てみたら、海鮮中華ご飯がものすごくおいしそう。 上のほうに「体にいい」と書いてある。健康は食べることが基本なのだ。 そして「専門店としての魅力を備えたものをポピュラープライス」らしい。もう言うことがない。やはりバーミヤンはすごい。 書いているうちに着地点がわからなくなってきた。そしてすかいらーくの回し者みたいな印象すら受ける。 もう一度書いておくと、自分はバーミヤンに入ったことはなく、ただ名前の響きが好きなだけ。 チューヤンもいいセンにいってはいるが、あとちょっとかな。 やっぱりバーミヤンとパーヤンだ。 一体自分はなにを書いているのだろうか。 料理のさしすせそ。 コレさえあればまあ食える味になる、という調味料の覚え方であるさしすせそ。 「さ」は砂糖 「し」は塩 「す」は酢 「せ」は醤油 「そ」は味噌 を表している。 数日前、ナスを買ってきた。もともとカレーに入れるつもりが入れ忘れたためどうしようもなくなったので、焼いて食うことにした。 料理なんてできないが、自分にはさしすせそがある。なすを薄く切ってフライパンで焼き始めた。そのままだと味がないので醤油をかけた。 むしろかけ過ぎた。 ここで焦ってはいけない。さしすせそだ。砂糖を少し入れた。たいしてかわらない。塩を入れたいが塩がないので塩コショウを入れた。 結果はもちろん辛くて食えない。 食おうと思えば食えるかもしれないが、塩分過多は回避不可能。 たとえ「さしすせそ」だとしても、入れすぎたらどうしようもないということがわかった。 自分にはさしすせそを駆使するスキルすらないらしい。 香りつきトイレットペーパーの意味がわからない。 いいにおいがするのはいい。ちょっと幸せになれる。 でも香りが弱いと思う。 香りつきのトイレットペーパーを使っていれば、消臭剤がいらないくらい良いにおいが充満してくれればいいのに、そこまではいかない。 香りが弱いと、トイレットペーパーを取って、においをかいで、拭いて捨てる。 また取って、かいで、拭いて捨てる。ひたすらコレの繰り返しになってしまう。 そこに漂うのは良い香りではなく、微妙な空気。お尻を拭く紙の匂いをかぐ不思議な光景。 トイレットペーパー会社はこうなることを知った上で、あえて香りをあまり強くしないのかもしれない。 雨が降らないで欲しい時に生まれる彼。 てるてるぼうずのことを言っているわけだが、すごい能力の持ち主なんだと思う。 どうやっているかは、わからない。しかし雨が降らなくなるということは、結論として雨雲を蹴散らすしかないと思う。 「明日、遠足があるからてるてるぼうずを作ろうっと」 そんな無邪気な子供がてるてるぼうずを生み出した。そして彼は窓際につるされる。子供は明日の晴れを信じて、眠りに落ちた。 てるてるぼうずは雨雲に向かい、飛び立つ。雨雲は、またきたか、と言わんばかりの態度だ。彼らの因縁は一体どれほどの年月、続いているのか。 雨雲の必死の抵抗も、てるてるぼうずにかかれば無駄だ。雨雲は蹴散らされてしまう。 「ちくしょう。ちょっと日照りがつづけば皆雨雲の俺を必要とするくせに、明日が遠足だから俺に消えろだと。ふざけるな!」 「・・・すまない。私は私を生み出してくれたものの願いを、かなえなくてはならないのだ。それが私を生んでくれた事への恩返しなのだから」 「ちっ、面倒な関係の中にいるんだな、お前さんは。今日のところは消えてやるよ」 「すまない」 そんなやり取りのあと、彼はまた、彼にとってのゆりかごである窓際に帰る。朝になり目が覚めた子供はそんなことがあったことを知るよしもない。そして楽しい遠足を満喫して帰ってきた笑顔を見て、てるてるぼうずの顔はおもわずほころんでしまう。 「雨雲」という犠牲の上に成り立っている、てるてるぼうずのよろこびと遠足のよろこび。 誰かのよろこびは別の誰かにとっては正反対の感情なんじゃないかと、てるてるぼうずから感じてしまう。きっとこれは忘れてはいけないことなんじゃないかとも思う。 いったい自分は大真面目に何を書いているんだ。 でも逆さまにつるした瞬間、雨が降るように雨雲と手を組んでしまうてるてるぼうずもいかがなものか。 センター試験を受けた。 受験生だった頃、国立大学を目指していたので、当然のようにセンター試験に臨んだ。 試験会場で、ある人物に目を奪われた。その人はスキーウェアを着ていた。 一月の中旬に行われるセンター試験。スキーシーズン真っ只中なので、その点では間違えてはいないとは思うが、決定的に何かを間違えている。 しかも試験は次の日もある。 自分のテストの成績よりもその人が明日またいるかどうかがものすごく気になった。 そしてその人はいたのかもしれないが、スキーウェアを着ている人はいなかった。 試験一日目には、たしかに存在していた彼。彼の中のなにかは、決してテストなんかでは計れない。 7月12日の花である「まるばのほろし」という花の花言葉は「だまされない」 自分は花にはうとく、それを知ったサイトにも写真が無かったので、まるばのほろし、というものがそもそもどんな花かわからない。しかも「だまされない」という叫び付き。もうなにがなんだか。 少し考えて、「だまされない」というのに受け取り方が二つあることに気づく。 一度だまされていて、もう「だまされない」ぞ、という受け取り方と、今まで一回もだまされたことがなくて、俺は絶対に「だまされない」よ、という意味。 どっちなんだろうか。一体まるばのほろしに何があったのか。いや、やはりまるばのほろしってそもそもどんな花なのか。 後者の意味が正しいとするなら、なんだかまるばのほろしはえらそうな花だ。絶対にだまされないぜ、フフフという態度。一回くらい痛い目に会えばその性格も治るのに、とか考えてしまう。 その点、前者の受け取り方が正しいのならばそれは強い花なんだと思う。一度だまされてはしまったが、それを教訓にこれからは自分を引き締めていく、という決意の花。 現代社会に潜んでいる悪に対して、自分の身は自分で守らなくてはならない今。そんな時代にまるばのほろしは必要な花なのかもしれない。 外見でなく内面で勝負する花。それがまるばのほろし。 7月10日は納豆の日。 なぜ?と頭を悩ませる事も無く理由は語呂合わせというのはすぐにわかる。 しかし納豆の日だからといってなにをしていいのかはよくわからない。 それでも納豆好きの人なら感謝の意を表せばよさそうだが、納豆が嫌いな人はなにをすればいいのかまったくわからない。 もういっそのこと納豆に憎しみをぶつけてみるのはどうか。 まず納豆を買ってくる。すかさず納豆に向かって 「なんでお前、そんなににおいがきついんだよ!」 とか普段思っている納豆の嫌いなところを叫んでみる。 もう一個買ってきて 「いくら栄養が多くてダイエット効果があったって、あんた所詮腐ってる豆でしょ!」 とか不満をぶちまける。 そうしたら意外とすっきりして、納豆嫌いの人も嫌いじゃなくなるかもしれない。 文句を言うためには納豆を買わなければならないので、ひそかに納豆の消費量がアップしていたりする、そんな記念日。 自民党は自由民主党。 今は民主党として合併してしまったが、自由党と民主党だったそれ。 もうちょっと、名前を考えた方がいいんじゃないかと思う。 元自民党だった人がいたりどうだったりが関係しているのかどうかはわからないが、名前がこんがらがってしまう。公明党とか保守党とかは覚えやすいかどうかは別として違いはわかりやすい。 覚えやすく、他の政党と差別化を図った名前がいいと思う。 「サンドイッチ党」 「伊豆半党」 「納党」 途中からただのダジャレになっている。ぜんぜんまじめに考えていない。 でもサンドイッチ党は結構いいんじゃないかと本気で思ってしまった。 蜘蛛の足は八本。 もし目が覚めていきなり自分に足が八本あったらどうなるか。 立ち読みが楽になるんじゃないかと思う。 単純計算、足の疲労度は四分の一だ。 しかしジーパンとかをどうしていいかわからなくなる。 すそ上げとかのノリで「あの、足八本なんですけど」とか言えばやってくれるだろうか。 スパイダーマン仕様とか言えば、なんとかなるかもしれない。 いや、彼の足は二本しかない。そういえば糸もお尻からは出さないし、巣も作らない。 自分がスパイダーであるという自覚が彼にはちゃんとあるのだろうか。 もしも、な話をしていたのが意外なところに着陸してしまった。 織姫と彦星はちゃんと会えたんだろうか。 そんな心配をしてしまう自分。昨日は天気は良かったと思うがそれでも無事に会えたとは限らない。しかも二人の距離は信じられないくらい遠いからだ。約16光年。 「早く行かないと、7日が終わる。織姫に会えないし、遅刻したら怒るし」 とか考えながら、彦星はそれはもう必死に走っているのかもしれない。織姫は織姫で 「遅いなぁ、今年も。何年連続遅刻すれば気が済むの、アイツ」 とか考えているに違いない。 そこに漂うことの無い、一年に一回しか会えない悲しさとロマンチックさ。 いったい何千年前から、今の「年一回の面会」になったのかは知らないが、結果としてもう何千回も会っている二人。人間で考えれば何十年間毎日、会った計算になる。 「ああ、今年もまた晴れか。たまには雨が降ってくれないかな」 とか、どちらともなく考えていたのかもしれない。 よく、ぼーっとしてしまう。 ぼーっと考え事をしてしまう、ということも聞くが、そうじゃない。 自分の場合は純粋な、ぼーっだ。何も考えない。なにもしない。なにも生まない。不毛な行為。 それこそが真実の姿だと信じている。 非生産的であることで保たれるアイデンティティー。 非生産的なものを保ったところでなにも生み出されるものはないけれども、それをなくしたくはない。 でも結局なんの意味もない。そんな真実を自分は持っている。 雪国の出身だ。 そして自分は小さい頃、雪を食べていた。 新しく積もったところをサクッと取ってパクッと口へ。正直おいしいものではないが、冷たい、という感覚が心地よくて良く食べた。 あまりに一気に食べ過ぎてお腹を壊したこともある。 さっきまで読んでいて「かわいい」とか思っていた人もここで一気に現実へ帰ってきたと思う。現実は残酷なものだ。 つまり自分はアホだった。 そんな時代も過ぎ去って、自分ももう大学生。学生といえど社会の一員である。子供ではない。 しかし子供の心を忘れたくない、ということも心に留めている。 いや、もう回りくどく言うのはやめだ。 安売りしていたアイスを5個も一気に食って、今腹を壊している。 つまり自分は今でもアホだ。 靴下の捨て時はいつなのか。 穴が開いたらそれは捨てるが、穴が開かなかったらどうすれば良いのかわからない。 ゴムとかそんなのがヨレヨレになったら捨てるんだろうか? しかし別に使えないわけじゃない。そんなに外から見えるものでもないし。 飽きたら捨てるのだろうか。 でも自分は靴下に飽きるもなにも、むしろ時間が経てば経つほど思い入れが増す。 こんなことを書いているのは、部屋に大量にある靴下群をどうにかしたほうが良い、ということを感じているからだが、その捨てる基準がわからない。 しかもほとんどに思い入れがあって、基準があっても捨てられない予感。 もういっそのこと、この靴下達と一緒に人生を歩んでいこうかとまで思ってしまう。靴下だけに。 たいして上手くない掛け合いでこのテキストは終わる。 捨てもしないのに新しい靴下を買う方の問題には目を向けない。 小野妹子は女みたいな名前。 遣隋使という外交官である事実はまるっきり無視され、ただ名前について語られる彼女、いや彼。 「子」という字がその理由だと思うが、よく見てほしい。その一文字前は「妹」だ。男であるのに妹。ここでも女らしさがアピールされている。男だが。 少し考えみると、この名前を考えたのは妹子の叔父か叔母なのではないか、という仮説にたどり着く。 妹子の母「名前どうしようか?」 妹子の母の兄「うーん。俺の妹の子供だから妹子にしよう」 そんなやり取りが行われたに違いない。考える気のない叔父に、どうでもいい母。この二つがあったからこそ、彼の名は妹子。 そんな名前で周りからからかわれる妹子。いつか見返してやろうと猛勉強して、遣隋使という立派な役職に就いたのかもしれない。 彼から見習うべきところは多数あるだろうが、彼の叔父や母から学ぶことはなさそうだ。 そしてこんなテキストを本気で書いている人間からもなにも学ぶことはない、と自分ですら感じている。 お湯を入れて三分間。 カップヌードルを作る時の行程を書き記してみたが、この「三分」は別に調理に必要な時間ではないらしい。もっと早くできるのをわざと三分掛かるようにしているというのだ。 その三分間はただひたすら、食べたい食べたいと思わせる。それ専用の時間。 試されている。 二分三十秒くらいで食べてしまったら完全に負けだ。たとえ「自分は麺が硬いのが好き」とかもっともらしいことを言おうが、それはいいわけだ。素直に負けを認めるべき。 つまり三分三十秒くらいしてから食べるのが勝ちなんだと思う。 ラーメンの方は二分経過したくらいに、「オラオラ、食べたいだろ、食べたいだろ」などと思っているのだろう。がんばってこの誘惑に負けないようにする。 三分ぴったりで「ほぉ、よく三分耐えたな。この勝負引き分けだぜ」とか思うに違いない。ここまできたら勝ち星は目前だ。 あとは「おい、もう引き分けだって言っているだろ。早く食えよ。のびちまうよ。おい、おい、食ってくれよ、頼むから一番おいしいときに食ってくれよ」と、懇願してくるだけ。 ここで初めてシールをはがして、ふたを開けてやるのだ。ここまで約三分三十秒とみた。 なんてテキストを書いているうちに、とっくに三分三十秒は過ぎている。 目の前にあるカップヌードルはもはやのびきっていて、先の理論でいけば圧勝のはずなのに、食べてみると負けた気分。 アンパンマンは愛と勇気しか友達がいないさびしいヤツ。 もはやありふれたつっこみ。友達がそれだけでかわいそう、みたいな解釈。それは間違えている。 では一つ質問をしたい。 「アナタは愛と勇気とは友達ですか?」 自分はさびしいが、NOである。 真実の愛というものに触れた事はないし、なにか面倒事に巻き込まれそうになったら、勇気も出さず、関わり合いになりたくない、と思うばかりだ。 上っ面だけの友人。惰性での恋人。そんなものならいくらでも触れ合うことはできる。しかし愛や勇気は一番、友達になりにくい存在だ。 それらと友達であるアンパンマン。彼は人間である自分達よりももっとずっと「人間」を知っているのかもしれない。 それはいいとして、アンパンマンはカレーとか食パンを友達だとは思ってはいないのだろうか。 髪の長い女の人を見た。 それを「人」というのかどうかはわからない。なぜなら彼女には胴体部分がなかったのだから。 実はこれ一年位前の話。 時間軸に沿って説明すると、一人で友達の家に遊びに行くところだった。時間は午後1時くらい。 自転車に乗っていた自分は「ああ、雨が降りそうだな」とか思いながら必死に漕いでいた。そのとき傘を持っていなかった。 そして案の定雨が降り始める。 雨足もそれほど強くはなく、友人の家も近かったので急いで行くことにした。空はどんどん暗くなってきていた。 その友人の家の近くの交差点。赤信号で止まっていた自分に目に入ったのは反対車線のひしゃげたガードレールと花束。そしてその花束を見つめる女性。自分には背を向けている。傘はさしていなかった。 その女性は髪が長く、白いTシャツと黒いロングスカート。始めは事故に合った人の友人か何かだと思った。 しかしよく見てみる。すると体が透けて、向こう側がうっすら見えている。白いTシャツじゃない。 黒いロングスカートも下のほうは黒ではなく、青い。まるで黒いペンキでもぶちまけてしまったように、そのロングスカートは染まっているのだ。 おそらくそれは、血だった。固まって、黒くなっている。 それ以上その場にいる事はできなかった。信号が変わると思い切り自転車を漕いで、友人宅へ向かった。後ろを振り向くことなんてできなかった。 そこで起きた事故のことも、近くに住んでいる友人ならなにか知っているかもしれないが、何も聞くことすらしなかった。 彼女は自分の死んだ場所を、捧げられた花束を見て、死を実感していたのかもしれない。 というような話を一年位前に考えた。 全然体験したわけじゃあないし、モチーフになったような恐怖体験もしていない。 以上、突然の短編小説おしまい。 豆腐。 豆が腐るという名前の豆腐。しかしそれはナットウじゃないのか。 納める豆と書いて納豆。容器に納める、と意味をとればそれはトウフじゃないのか。 豆腐とナットウ。納豆とトウフ。なにがなんだか。 パニックのまま調べてみると、ある説明に出会う。 「納豆は納所(なっしょ)で作っていたから」 「腐という漢字は中国語で柔かい固体という意味がある」 中国語まで絡んできた今日の疑問。自分の能力の限界を遥かに超えていた。 豆腐は本当なら自分なんかでは到底手の届かない存在なのかもしれない。しかし豆腐の方が自分に方に近寄って来てくれているのだ。 だから大抵1個50円。 すこし近くにより過ぎだとも思う。 暑いのが好きな自分にとっては待ちに待った季節。 夏といって思い浮かべるものは多いが自分は冷やし中華がトップ。 「でもあれって本当に中華料理なの?」という疑問には目をつぶることにしている。おいしいからいい。 いや待て。夏といえばアイスがおいしい季節。アイスといえば雪見大福があるじゃないか。 カキ氷もある。 雪見大福とカキ氷と冷やし中華。自分の中での葛藤という名の戦争。どれがシンボルオブ夏なのか。 一番になるのがどれかというのは別として、食べ物しか出てこない自分の中のサマー。 葛藤の末、三つとも同率一位ということにした。争いはなにも生まない、ということを自分は理解しているからだ。 私は毎晩、屋台を引き、猫を連れ、ラッパを吹く。 天気がいい日はいいが、雨が降ったり、気温が極端に低い日などは正直、家を出たくはない。 しかしそういうわけにはいかない。自分はコレしかない。コレしかできない。 不器用な人だと、周りは言う。会社に入って、安定した生活をすればいいのにとも言われた。 自分はそういうものはできないのだ。私には、ラーメンの屋台しかない。 屋台のお客さんの言うことは、近所の人たちとは逆だ。 「俺今日、上司に嫌味言われて、こき使われてさ。ホント、あんたがうらやましいよ」 「俺も独立しようかな。あんた見てたらなんとかなるかもな、とか思ってさ」 もちろんそれが本心でないことは私にはわかっている。表情でハハハそうですか、と笑うことにしている。 今では屋台とはいえラーメンの種類も増えた。しょうゆ、みそ、とんこつに塩。焼きノリのトッピングなんてシャレたことをしてみたり。 それでも昔からの馴染みのお客さんは、やっぱりしょうゆが一番だと言ってくれる。うれしいね。 もうこの仕事は長い。40年が経とうとしているのか。時間が経つのがどんどん、早くなっていく。 私もあと、何年もつのか。いや、待っているお客さんのためにやめるわけにはいかない。 そんなことをチャルメラのパッケージを見ながら思った。 本当にそう考えているのかどうかは知らないが、自分はチャルメラが好きだし、おっさんも大好きだ。 ビール。 焼き鳥と合わさったときにはこの世のものとは思えないほどの破壊力を持つ、それ。 あまりにも危険なため、ある一定の年齢に達するまではその被害に遭遇しないよう、政府が未成年に「ビール」に触れさせないようにしているのだ。 そしてサラミ。 焼き鳥とまではいかないまでも、彼も一度ビールと手を組めば常識を超えた力を持つ。 「ビール」はあまりにも危険なものである。 先に挙げた二つは桁違いの破壊力だが、それ以外にもスルメや唐揚げ、もはやすべての物と化学反応を起こし、そして破壊をもたらす液体。 そんな風な教育をすれば未成年の飲酒は減るかもしれない。 いや、なにかを間違えている。 話題のペプシブルー。 あの青はすごい。どう考えても食欲とかそういうものを刺激する色じゃない。もっと言ってしまえばあんまり爽やかさも感じない。 そこが気に入って買ってしまった。 できれば味は昔のペプシコーラのままだしてほしかった。CMでもそこを押すのだ。 「新発売のペプシブルー。見た目が青いだけで味はまったく一緒です。同じ味です」 実際は味も違うが、味が全てだと思われていたジュース業界にまちがいなく一石を投じたと思われるペプシブルー。 ブルーレット置くだけ、を思い出すのは自分だけなんだろうか。 イカ焼きは姿焼きだと思っていた。 自分の中では「イカ焼き=まるまるイカの形をしたまま焼いたやつ」だったのに、関西の友人に違うとつっこまれ、ネットで調べてみるとお好み焼きみたいなものが出てきた。 自分の中で崩れるイカ焼きビジョン。 姿焼きをイメージしていた自分が、「たこ焼きってまんまたこを焼いてるわけじゃないけど、イカ焼きってまんま、焼いているよね」と友人に言ったことが全ての始まり。 しかしだからといってイカが嫌いになるわけでもないし、話を聞いたり写真を見たりしたらものすごくおいしそうだ。 自分の中のイカ焼きビジョンは崩れ去ったが、新しい楽しみが生まれた。 これが「大人になる」ということなのかもしれない。 |