自分はカールルイスに絶対に追いつかれない。 そんなわけない、と思うだろう。たしかに同じスタートラインからなら負けてしまう。 しかし5メートルだけハンデをもらい自分が前に出させてもらえば、絶対に追いつかれない。 スタートの合図で二人が走り出す。 ここで考えてもらいたい。自分は5メートル、カールよりも前にいる。 それでもカールはあっというまに5メートル地点まで来るだろう。 しかし自分も止まっているわけじゃあない。カールよりも足は遅いので3メートルくらいかもしれないが、確実に前に進んでいる。 カールがまた自分のいる、スタートから8メートルの地点に来たときには、自分はまた少し、前にいる。 カールがその地点に来たときも、自分はまた前にいるし、その地点にきても自分はまた少し、前にいる。 カールは永遠に自分に追いつかないように思えるんじゃないかと思う。 これは「アキレスのパラドックス」という理論だ。この中のアキレスと亀を、自分とカールに変えてみた。 もちろん、現実に競争すれば即、追いつかれる。 「俺の理論でいけば絶対負けねぇぜ」といきがっている男を背に、どんどん小さくなっていくカール。 日本人選手が金メダルを取ってもうれしくない。 それはオリンピックだけじゃなく、世界陸上でもなんでも、うれしくない。 うれしさよりもなによりも嫉妬をしてしまっているんだと思う。 自分はなにもない毎日をただ過ごしているような状況なのに、自分と同じ年齢の人が世界一になったりしているのだ。 そこまでの努力、苦労、そんな道のりは到底想像できるものではない。 そしてその全てが報われて、金メダルを獲得したという夢を叶えた瞬間の喜びも、今の自分には想像できない。 しかし彼らはその喜びを知っている。そこに嫉妬してしまっているんじゃないかと思う。 いつか自分も彼らのように「夢を叶えた」のなら、金メダル獲得のニュースなんかを見てうれしく感じることができるようになるのかもしれない。 人の顔を覚えるのが苦手だ。 「日本人の顔はみんな同じに見えるぜ」 と言うわけではないのだが、なんでか覚えられない。 あるきっかけで知り合った人がいて、一時間くらい話をした。その人とは翌日にもその場所で会った。 相手は自分に横を見せて座っていて、自分には気付いていない。 話しかけない自分。正直に言ってしまうと自信がない。 「あの昨日の人、たしかあんな顔だったような・・・」 本気でそう考え込んでいる。 数分後に相手が気付いて話しかけられた。少し焦りながらも返事をしつつ、「やっぱり昨日の人だった」と安堵してしまう自分。 これは治さねば、と思うのだがどう治していいのかわからない。 相手の顔を忘れないように、じろじろ見て、特徴を探し覚える、ということもできなくはないが、初対面でそれはまずい気もする。 もういっそのこと携帯で相手の顔の写真を撮ってしまおうか。 これをやれば顔は覚えられるだろうが、「次に会う機会」というものがなくなってしまうと思う。 どんどんたまっていく、二度と会わない人の顔写真。 1%の才能と99%の努力。 エジソンの有名な言葉。 でも「努力できる能力」というのはほとんど「才能」なんじゃないかと思う。 「努力」というのは誰でもできてあたりまえ、というのは間違っているんじゃないか。 「努力できる能力」を生まれつき持たない、努力の才能のない人はその能力を得るために「努力」しなくてはならない。 それは「努力できる能力」を持つ人には理解されない苦しみだと思う。 「努力をすれば夢はかなう」という言葉。 この言葉の意味するところは「がんばれば夢はかなう」ということではなく「努力する能力を手に入れれば夢はかなう」ということなんじゃないだろうか。 つまり「夢を叶える」ことより「努力する能力を手に入れること」の方が難しいと主張しているのだ。 努力もせずだらだらしている人が、いつまでもしっかりしないのは仕方のないことなのだ。 ・・・すみません。なまけもののたわごとです。 もしタイムマシンがあったらなにをするだろうか。 ここで「過去も未来も絶対に変えられない」という昨日のテキストは忘れてもらう。それがあると何もできなくなってしまうから、という都合のいい理由で。 そしてあんまり無制限に使えても面白くないので、過去でも未来でも、一回行って帰ってくるだけのタイムマシン。それが現実に使えるとしたら。 「競馬で大儲け」 コレが一番人気なんじゃないかと思う。別にテクニックもいらないし。 「未来のことを見てきて占い師になる」 100%当たるだろうが、一回しか当たらないので、失業だ。 「未来のヒット曲をパクってきて自分で歌う」 きっと曲だけじゃなくて、その歌手の魅力とか、そういうのが影響してヒットするんだろうから、自分が歌っても売れなそうだ。 結局「タイムマシンがあったら」という話でも「競馬で大儲け」しか思いつかない自分。 「ああ、世の中結局金なんだな」と自分の発想力の貧困さを棚に上げて、落胆してみる。 タイムマシンパラドックスというのを知っているだろうか。 たとえばタイムマシンで過去に戻り、自分を産む前の母親を殺す。そうすると自分が存在しないことになり、消えてしまう。 パラドックスが生じる。これのことだ。 パラドックスは「矛盾」ととらえてくれればいいと思う。 映画とかでは結構あるけれど、こんなことは起こらないんじゃないかと思う。 過去や未来は絶対に変えられない。 タイムマシンとは「時間を移動できる」ものであり、母親を殺すためには「過去」に行かなくてはならない。 そしてそのタイムマシンを使う自分がいる。 自分はここでもうタイムマシンパラドックスは否定されていると思う。 もう「自分」というものが存在している地点で「母親が自分を産むという過去」は決定されており、「母親を殺す」という行為そのものが不可能、なんじゃないか。 たぶん殺そうとしても、邪魔かなんかをされてできないんだと思う。 殺そうとして、邪魔されて、ナイフかなんかを持ち出しても、邪魔されて、車でひこうと思っても、運転をミスったりして。 そんなコントみたいなことが起こるんじゃないか。 これならちょっと見てみたい。 「空気を読む」について その場の空気を読む、読めないじゃなく「空気を作る人」というのもあるんじゃないかと思う。 最近、久しぶりに会った友人Aとその他数人と飲んだとき、ずっと場が盛り上がっていた。 こんなことを言うのはなんだが、その他数人の中に「あまり空気を読めない人」がいたのにも関わらず。 その時は思わなかったが、友人Aが空気を作っていたのではないかと思う。 もし誰かが空気を壊してもその瞬間、友人Aはそれを察知してすぐ「新しい空気を作る」のだ。 それは「壊れないように取り繕う」とは違うものだと思う。 そしてこの「空気を作る人」というのが本当に話のうまい人なのかもしれない。 「空気を読める人」というのは、作られた空気の中で話せる人。 「空気を取り繕える人」は、壊れそうな空気を治せる人。 「空気の読めない人」は、場の空気を壊しがちな人。 「空気を作る人」は、どんな状態になろうと自分の空気にすることができる人。 なんて偉そうにまとめてみても、自分は結構場の空気を壊しがちな気もする。 8月24日の今日はラグビーの日。 1823年のこの日に、イングランドの学校で開かれたフットボールの試合中、興奮した生徒ウィリアム・エリスがルールを無視しボールを抱え、相手チームのゴールへ突っ込んだ。 これがラグビーの発祥とされ、今日がラグビーの日。 一体彼になにがあったのだろうか。 自分もサッカーを友達同士などでやり、熱くなったこともあるが、興奮してボールを抱えだしたやつは見たことがない。 ボールを抱え相手チームに突っ込むウィリアム。 チームメンバーもただ、見守るしかない。 そんな出来事から時間も経ち、ウィリアムも当時ほどの勢いはなくなる。彼の唯一の楽しみは他人にする自慢だけ。 ウィリアム「私がラグビーを生み出しましてね」 話し相手 『へぇ、すごいですね』 ウィリアム「フットボールの試合中に私がボールをこう抱えましてね・・・」 ジェスチャーを交え熱く語るウィリアムに対して、冷めてくる相手。「お前なんで試合中にボール抱えるんだよ」という顔をしているが、ウィリアムは気付かない。 話し相手は終始半笑い。 自慢すればするほど泥沼に埋まっていくことに、彼が気付く様子はない。 時間はお金で買えると思う。 「お金で買えないものは?」という質問に対して「時間」と答える人は多いんじゃないか。 自分は時間は買えると思う。 正確に言えば「過去の時間は買えないが、未来の時間は買える」 例を挙げる。 時給900円の仕事をしている人がいるとすると、その人は「一時間900円で自分の未来の時間を売っている」ことになる。 ここで、もしその仕事を辞めれば「一時間900円で自分の未来の時間を買った」ことになるんじゃないか。 もう一つ例を挙げる。 北海道から九州まで移動しなければいけなくなったとする。移動手段の選択肢としてはいろいろあるが、ここでは飛行機と電車を考えてみる。 飛行機の移動時間を5時間、料金を3万円と仮定する。 電車の移動時間を20時間、料金を1万円と仮定する。 ここで飛行機を選べば、電車よりも料金は2万円高いが、15時間だけ移動時間が少ない。 これは「15時間を2万円で買った」ということにならないだろうか。 そんなことを考えてみても、働かなくてはお金が稼げず、生きていけない。 いつもいつも飛行機や新幹線、タクシーを使うわけにも行かない。 つまり「一時間や二時間なら数千、数万円あれば買えるが、それ以上になると高すぎて買えない」という結論になる。 夢のありそうなスタートを切ったこのテキストも、世の中結局お金、というさびしい結論になってしまった。 百聞は一見にしかず。 ある事柄について百回聞くよりも、一度見たり行動した方がその事柄についてよくわかる、という意味のことわざ。 しかしだからといって「百聞するくらいなら一見したほうが良い」ということにはならないと思う。 たとえば「飛行機」というものをまったく知らない人がいるとする。 その人が一回飛行機を見てしまったら、それがどういうものなのかを理解するのは容易い。 しかしそこに「想像力」を働かせる余地はない。せいぜいどうやって飛ぶのか?を考えるだけだ。 逆に飛行機というものについて人から話を聞いているだけの段階なら、どういう外見かを想像し、翼はどうついているのか、それを使ってどう空を飛ぶのか。 そんなことをいろいろ考えるだろう。 想像することが無駄になるとは思わない。むしろ想像した後の一見に意味があるんだと思う。 なのでいきなりエロビデオなんて見なくても、自分勝手にあれこれ想像したほうがいいんじゃないか。 レンタルビデオショップのエロコーナーで明らかに小学生と思われる男の子を見て、こんなことを書いてみた。 なぜ自分がそんなところにいたのかは伏せておく。そもそも小学生はレンタルさせてくれないと思う。 アルミ缶の上にあるみかん。 今までの人生で一度もアルミ缶の上にみかんが乗っている状態を見たことがない。 おそらくこれからもないんじゃないかと思う。 そんなありえない状況をあらわしているシュールなダジャレ。 「アルミ缶の横にあるみかん」や「アルミ缶の隣にあるみかん」でもダジャレは成立する。そして状況としてあり得る可能性が高い。 しかしなにか語呂が悪く、インパクトがない。 このダジャレがここまで普及したのは、そのありえない状況に皆、神秘を感じ取っているんだと思う。 ロマンをなくしてしまっては、人は生きていけないのかもしれない。 ナポリタンというのは日本独自のものらしい。 パスタ発祥の地、イタリア南部のナポリという地名を冠しているにも関わらず、メイドインジャパン。 ナポリ人はこの事実を知っているんだろうか? ナポリ人A「なぁ、ナポリタンってパスタが日本にあるらしいよ」 ナポリ人B『うそ!ここナポリじゃあ売ってないのに?』 ナポリ人A「それもケチャップみたいのをからめただけの結構さみしいやつらしいよ」 ナポリ人B『ええー!』 そんなやりとりがあるのかどうかはわからない。 しかしそれでも勝手にナポリという名前をつけるのはどうなんだろう。 いや、勝手につけたと決めるのははやい。もしかしたらナポリの偉い人かなんかが、日本に来て、ケチャップを絡めただけのような結構さみしいパスタを食べて 「おお、これはおいしい。ぜひナポリって名前を使ってよ」 となったのかもしれない。 ここまで書いて「たとえ名前の由来がどうだとしても、今、ナポリタンはおいしいからそれでいいか」とか思ってしまった。 自分で自分のテキストを完全否定して、終わりにしてみる。 ピザーラというデリバリーピザ屋の広告を見ていて見つけたメニュー。 「ツナと完熟トマトのイタリア風冷製パスタ」 このメニューがおかしいと思うのは自分だけだろうか。 もちろん、味がおいしいとかまずいとか、そういうことを言いたいわけではない。 「イタリア風パスタ」というのがおかしいと思う。 調べてみてもやはりパスタ発祥の地はイタリアだ。イタリア南部のナポリとある。 つまりパスタはどうあがいてもイタリア風なのであり、わざわざ断る必要性はない。 馬から落馬する、とか、右に右折する、というようなのと同系の間違いなのか? 友人に聞いてみた。 友人「メニューをわかりやすくしてるんじゃないの?」 わかりやすくしてくれている、という好意に気付かず、些細な文法のアゲアシばかりとる奴。 それが自分です。 アントニオ猪木のものまねをしろといわれたら間違いなく、あごをしゃくれされ「なんだコノヤロー」と言ってしまうだろう。 正直に言う。それはアントニオ猪木のものまねではなく、猪木のものまねをしている芸能人のものまねなのだ。 自分は猪木が「なんだコノヤロー」と言っているのを見たことがない。 同様にジャイアント馬場なら「アポッ」と言うだろうが、これも聞いたことがない。 一番初めに猪木のものまねをした人をオリジナルと呼ぶことにする。 そして自分が猪木の真似をするとき、オリジナルは「アントニオ猪木のイメージ」を演じているので、そのオリジナルを自分がまねれば、それは猪木のものまねとして通用するだろう。 しかし誰もものまねをしていない芸能人の真似をしろといわれたら、できない。 自分の中で、そして他人の意識の中でイメージが固まっていないからだ。 「ものまね」というのは「模倣」ではなく、人の持つイメージを具現化させる「創造」の作業なのだ。 漫画ドラえもんのなかに出てくるドラミ。 彼女を見たことがある人なら、リボンをしていることに気付くだろう。 しかし彼女に耳はない。耳みたいに見えるようにしたリボンだ。 ドラえもんというのはネコ型ロボットだ。もちろんネコなんだから耳がある。ドラミはその妹。つまり、耳があって当然なのだ。 しかし、漫画に出てくるドラミに耳はない。 兄貴はねずみに食べられたとか、錆びたとかでなくなったのだが、ドラミになぜ耳がないのかは謎のまま。リボンでひたすら、その事実を隠し続ける。 人には誰でも他人にはふれられたくない出来事、というものがあるだろう。 「なぜ耳がないのか?」ということにドラえもんがふれないのは、兄貴なりの優しさなのかもしれない。 そんな兄弟愛をテーマにした漫画、それが「ドラえもん」 のび太の肩身は狭くなるばかり。 腹に入ればなんでも一緒。 実際は腹に入れば全く一緒、ということはないんだろうが、このセリフの精神は見習うべきだと思う。 たとえばビールと焼き鳥。これを別々に食べたらとてもうまい。しかしビールの中に焼き鳥をぶち込んで飲んでみても、うまくないどころかまずい。これは実証済みだ。 しかし腹に入れば一緒。そこにまずいという過程はいらない。消化されれば成分なんて一緒。食べた、という結果が残るだけだ。 たしかに過程が重要なことは認めるし、どうでもいいというわけではないが、やはり世の中結果がものをいうのは明白だ。 たとえばテストでものすごく勉強する。 たしかにその過程は重要だがそれで結果が10点くらいだったらそれはやはり、まわりの評価は低い。たいして勉強しなかったやつの90点の方がまちがいなく評価が高いだろう。 理想論を唱えるのは簡単だ。 しかし理想だけではこの現実を乗り切っていくことはできない。 そんな現代の厳しさを表している格言 「腹に入ればなんでも一緒」 英語は世界共通語。 話す人口の数だけでいうなら中国語の方が多いのかもしれないが、その使用できる国の数、世界的にみた比率なら間違いなく、英語が地球語に一番近い、もしくはそれだろう。 宇宙人が存在するとする。仮に火星人。彼の名はマーズ君。 たとえば自分がニューヨークに憧れるように、マーズ君は地球に憧れている。そして必死に地球語を勉強した。「1週間で話せる地球語」とかいう本を買ったりしているかもしれない。 ついに地球語をマスターするマーズ君。アルバイトをしてお金もため、地球旅行へ出発する事にした。前日はどきどきして眠れなかった。 そして地球に到達。マーズ君は外に出て、街に行き、マスターしたばかりの地球語で話し掛ける。 マーズ君「ペラペラペラ(地球語(英語)で話している)」 自分「あー、えーと、すみません。なに言っているのかわかりません」 こんなふうに「最近英語で話し掛けられたけど、まったくなにを喋っているのかわからず謝ってしまった」出来事を書けば、少しは自分の英語力の無さをごまかせるかもしれない。 そう思い立って書いてはみたが、自分の情けなさが浮き彫り。 生まれ故郷ではナインチェ、英語圏ではミッフィー、そして日本ではうさこちゃんと呼ばれる、彼。もしかしたら彼女かもしれない。 常にカメラ目線を怠らない、アイドルとしての自覚、格の違いを見せ付けてくれるが、たまには後頭部も見てみたい。 「俺の後ろに立つんじゃない!」とか言われるかもしれないが見てみたい。 見る方法は簡単だ。ぬいぐるみなんかで見ればいい。 そして見てみたがなにもない。ただのうさぎをイメージとし、その延長戦上としてとらえられた後頭部がそこにはあるだけだ。 いや、ちょっと待って欲しい。 このグッズを作った人ははたしてミッフィーの後頭部を見たことがあるのだろうか?誰も知らないのをいいことに、適当に作って売っているのではないか。 決して描かれることのないミッフィーの後頭部。 そこまで考えてふと、止まる。 「もしかしたら、いつもこちらに向けている側が、彼の後頭部なのかもしれない・・・」 よくわからない結論で終わることにする。 だれもがお金持ちになりたいと願う。 なぜそう思うか? それは「幸せになりたいから」と答えるんじゃないか。自分ならそう答えてしまうだろう。 もちろんお金がすべてだなんて思っていない。なにかのCMじゃないが、プライスレスな人生だ。 しかしお金が多くて困ることなんて、ほとんどないと思う。 だから皆お金持ちにあこがれる。 それが一番実現可能で、一番可能性の高い「幸せになる方法」だから。 そんなことを考えている自分。 テレビなどで「自分のやりたいことを仕事にしている人」を見るととてもうらやましく思ってしまう。 彼らは「お金持ちになる」以外の方法で「幸せ」になった人達なのだ。 今日、8月9日は野球の日。 8(や)9(きゅう)でそうらしいが、しかし待て。6月19日はベースボールの日なのだ。 ベースボールの日はしっかりした生い立ちがある。 1846年のこの日のニューヨークで近代野球が始まったというものだ。これを記念してベースボールの日というのは大きく納得がいく。 しかし今日の野球の日はただの語呂合わせ。 この日を決めたのはスポーツメーカーのミズノらしい。 ミズノ社員同士の会話を想像してみる。 「たしかにベースボールの日はいいんだけどさ、あれってアメリカの記念日じゃんか。日本の野球の日も作ろうよ。販売促進も兼ねて」 『そうするか。じゃあ日本に野球が入ってきた日にでもする?』 「いいよそんなの、調べるのめんどくさいし。89でやきゅう。8月9日でいいよ」 『そうだな。それでいいな』 少しでも販売数を伸ばそうと四苦八苦するミズノ。 その中で生み出された野球の日がどれだけミズノに貢献しているのかは誰にもわからない。 八月の誕生石はペリドット。 希望、愛、夫婦の和を表すその石はてんびん座の守護石でもあるらしい。 金との相性が良くて、とてもきれいな装飾になるらしい。 しかし自分はてんびん座だがとてもペリドットが見守ってくれているとは思えない。 まず愛がない。なのでもちろん夫婦の和なんてのもない。 希望というのもあるのかどうか疑問だ。就職もいまだ厳しい状況に変わりはない。 金との相性がいいのかと聞かれても、答えはノーだ。金がありすぎて困ったことなんて一度もない。 どんどん気分が落ち込んでくる自分を横目にぬくぬくと守護し続けるペリドット。 くそ、なにもしないくせに。 そこでふと自分の体を見ると、健康体であることに気付く。 八月になってからは、睡眠も良く取れるようになってきたし、風邪もしばらく引いていない。 そうだ。これがペリドットのもたらす「希望」なのかもしれない。 ペリドットも驚くほどのポジティブシンキングな自分。 「かもしれない運転」をしようというポスターが貼ってあった。 「あの横の道から誰かが飛び出してくる、かもしれない」運転や、「前の車が急ブレーキする、かもしれない」運転という例が書いてある、そのポスター。 危険察知をしながら運転しろというメッセージ。 それなら自分もひとつ、考えてみよう。 「映画でも借りようとレンタル屋に行くと目的のその映画だけない、かもしれない」運転。 「近所のおいしいラーメン屋に久しぶりに食べに行くとよりによって定休日、かもしれない」運転。 運転マナーをどうしろとかいうメッセージ性は皆無。 最近会ったショックなことをこんな形で告白してみても、傷は癒えない。 いや、悪化したかもしれない。 犬がダメだ。 告白してしまうと犬が怖い。 心を布で覆ってしまうと書いて「怖い」。適当に言ってみた。 なぜ怖いのかと言われても困る。たしかに昔、野良犬に追いかけられたことはあるのだが、その時すでに犬は怖かった。 きっと本能なんだと思う。犬がダメな遺伝子。DNAにそう刻まれているのだ。 問題をもう投げ出してしまっている自分。解決する気がない。 しかし問題に目を向けることが嫌なくらい、犬がダメということは理解してもらいたい。 小学生のとき、好きだった女の子が犬の散歩をしているのに遭遇して、思いっきり逃げたことがある。 淡い恋心を抹殺する、犬への恐怖心。 「生きてます」 自分の好きなサイトがあり、かなりの期間が開いて、最近久しぶりに更新した際に書いてあったこのコメント。 特に珍しくもない、冗談のコメントにドキッとした。 「もし本当に管理人が死んでしまって更新が止まってしまっても、自分がそれを知る術はないのだ」 星の数ほどあるサイトやブログ。自分もそのうちの一つをもっているが、もし自分が死んでしまったら更新は止まる。 こんなブログでも少しの人に読んでもらってはいるが、もし死んだとして、自分が死んだことを教える術を自分は持たない。 きっとさぼって更新が止まったと思われるだろう。そして死んだことを伝えられることなく、いつか忘れられる。 これはとても不思議なことな気がする。 永遠に続けることはできないブログ。 いつか終わるとしてもその終わりを見てくれている人に伝えられる終わり方をしたい。 そう思った、そんなコメントだった。 夏目漱石の笑わし方。 お札に折り目をつけ、目と口を湾曲させ、笑っているように見せるあのテクニックだ。 一人になって、ふと、暇な時間ができる。財布を確認すると千円札。 あ、となにかを思う。 机や床に千円を置き、一生懸命折り目をつける。目の部分を山折、口を谷折、そしてまた目。 これで完成だ。 千円札をかざし、少し下から見上げるように見ると、漱石の笑顔。 ふふ、と一瞬だけうれしさがこみ上げ、そして訪れる空虚感。 それに耐え切れず、千円札をしまいこむ。漱石の顔には折り目。 あの笑った顔は、そのお札を前にした僕たちの顔を映し出したものなのかもしれない。 そして折り目のついた漱石のなんともいえない顔も、空虚感を感じた僕らの顔を、忠実に映している鏡なのかもしれない。 個性、自発性が大切だと言われて久しい。 与えられた仕事ができるだけではダメで、自分で考えて行動することが重要視されるようになった。 その流れで、画一化された特徴のない性格よりも、個性が大切と言われている。 つまり皆「ルー大柴」を目指していることになる。この結論は飛躍でもなんでもなく、ごく自然な流れから生まれたものだ。 しかしルー大柴はテレビでは普段、正直嫌われている。 なぜだ? いや、嫌われているのではなく愛情の裏返しなんじゃないだろうか。うらやましいから、本当は好きだから、恥ずかしくてごまかすためにわざとケンカしてみたりするあれだ。 もう一つの可能性として、本当に嫌われているということもありえる。 あまりにあふれ出す個性、独特の空気に皆、理解できていないのだ。天才はいつの時代も理解されるものではない。 個性が重要、個性が大切、と言うのは簡単だ。 しかし目指している先に存在しているのは間違いなく「ルー大柴」ということを、もっと自覚すべきなんじゃないかと思う。 友人が数ヶ月前に車を買った。 最近その友人が夜、車を走らせていた。一人で、目的地もなく、ただ行ったことのないようなところをうろうろするだけのドライブのようだ。 住宅街のようなところに入ってしまったらしい。そして住宅街も端まで来て、細い路地になり、辺りに街頭もなく、自分のライトだけが唯一の明かりだった。 少し先で道が二手に分かれている。 そしてその分岐点でうっすらと赤い光が上下しているに気付いたらしい。近づいてみると50前後の中年女性が立っている。手には交通整備に使うようなあの、細長いライト。 「こっちの右の道は通れないから、あっちに行ってね」というような仕草をライトを振ってやっている。口に出して言ったわけではない。そして運転していた友人は支持された左の道にいったらしい。 すると数秒で行き止まり。そこにはなにもあるわけではなく、ただ林が目の前に広がるだけの場所。 脇に細い道もないので、誰も来ないことを確認して、友人はバックで戻る。 分岐点のあの中年女性はいなくなっていた。 友人はここがどこなのかはわからない。来た道をずっともどるのも時間が掛かる。 彼女が行かせてくれなかった右の道に、友人は行くことにした。 道なりに進むと、大きな国道に出た。途中には何もなかった。 夜、行き止まりの道に誘導して、消えた中年女性。 そんな話を自分にしてくれた。 「あんないたずらするおばちゃんもいるんだな」 とまじめな顔で言う友人。 いや、たしかにその可能性はあるけど、おばちゃんとしてもまずは怖がったりしてもらいたいと思う。 年越しそば。 なぜ大晦日にそばを食べるのかは 細く長く説「細く長く行き、長寿をまっとうする」 切れやすい説「さっぱりと一年の苦労、災いとの縁を切ろう」 などさまざまあり、定説はないらしい。 しかしうどんでもいいと思う。 そばと比べたらちょっと太い気もするが、細く長くより、太く長くのほうがうれしいに決まってる。 うどんだって噛めばすぐに切れるし、むしろうどんはコシの強いそばより切れやすい。 しかしここで問題が。 「細工師の説」というのがある。細工師は金粉を使うが、その金粉を集めるのに練ったそば粉を使っていたらしい。そこから「そばは金を集める」という言担ぎで年越しそば。 まずい。そんな理由ではうどんは決して年越しうどんには成り得ない。 でもそば粉で金粉が集められるんならうどん粉でもできるんじゃないか、と思ってしまう。 もしかしたらうどんはわざと、そばに年越しのポジションを譲っているのでは。 などと妄想を膨らませてみたが、ただ単純に皆、適当に理由をつけてそばを食べたいだけなんじゃないかとも思う。 自分の中の新説「ただ食べたい説」。 他のどの説よりも説得力があるような気がしてきた。 |