スイカというのは自分をどう思っているんだろうか。 もちろんスイカが植物学的には野菜ということはわかっている。しかしどう考えても周りの扱いは果物のそれだ。 野菜が下、果物が上、とかそんなランクはないが果物の方が人気があるのは間違いない。 スイカ「ああ、俺って野菜なのに人気者だよなぁ。それに引き替えピーマンとかは、へへへ」 とか調子に乗っているかもしれない。 メロンやイチゴも天狗になっている可能性だってある。彼らも野菜なのに大人気だ。 スイカ「俺ホント、ナスとかに生まれなくてよかったよ。人気ねぇし栄養ねぇし」 メロン「そうそう。僕たちみたいに彼らも甘くておいしくなっちゃえばいいのにね」 イチゴ「まったく、くだらないこと言わないの。彼らは彼らで私たちにはないものをちゃんと持っているんだから。まぁ具体的には知らないけどさ」 そんな会話。もちろんこれは想像だ。 しかし果物で、しかも王様と呼ばれる「ドリアン」とかは、よっぽど好きな人以外には「ええー!」という顔をされている。 彼はもはや野菜と果物の間で揺れ動いているわけではなく、自分の存在意義を求め四苦八苦しているのかもしれない。 『自転車等放置禁止区域』 そんなことが書いてある看板というか標識があったが、ちょっとおかしいだろう。 自転車なんかを放置していい場所ってどこだろう。 そんな疑問にぶつからないだろうか。放置禁止区域。じゃあそれがないところは放置してもいいということになる。 そんなわけがない。 『自転車等放置許可区域』 これなら、ここは捨ててもいいけど他のところはダメ、ということになって問題がなくなる。 うん、これでいい。 国土交通省の人か、地方自治体の人がこれを読んでいたらぜひ、こうしていただきたい。 あ、一つ言い忘れました。 注意事項「このテキストは冗談です。まじめに読む必要はありません」 パトカーの色は白と黒。 これは日本独自の配色だが、なぜこの二色になったのか。 調べてみると、昭和の二十年代後半、自動車はほとんど白だけだったらしい。パトカーもそれを買ってパトカーにしているので色はもちろん白。 でもそれだと一般車両と区別がつきにくいということで、下半分を黒く塗った。そんな経緯。 「白が平和な世界、黒が犯罪のある世界を表現し、それらを取り締まり、黒を減らしていく」とかそんな思惑は一切なく、ただ単純に目印としての黒と、それしか色がないからという白。 ・・・白・・・黒・・・。 そう言われて思いつくのはパンダだ。1970年代のパンダブーム。 あのパンダブームの頃ならもしかしたら目や口、笹の絵なんかを書いたパトカーが一台くらい走っていたかもしれない。 かわいさをアピールして犯罪を減らそう、とか本気で言っていたかもしれない。 そんなパトカーなら一度くらい乗ってみたい。 いや、乗ったらダメだ。いくらかわいくてもそれはダメだ。 このテキストを読んでいただいている人の中で、サンタクロースを本当に信じている人がいるかもしれないので、タイトルには夢のあることを書いてみた。 ここでサンタクロースを想像してもらいたい。 ・・・していただいただろうか。 きっと赤い帽子に赤い服の姿を想像したと思う。この服装はどうやらコカコーラが決めた衣装らしい。だから赤と白。コカコーラも赤と白。 ただ企業の販売促進だけが目的のサンタの衣装。そこにあるのはたしかに夢や希望だが内容は「売り上げが上がりますように」というコカコーラの夢。 しかしこの言い方だとあまりに夢がない。表現を変えればいいのだ。日本語って便利。 子供A「ばーか。サンタなんていねぇよ。だいたいあのプレゼント代は誰が払ってるんだよ」 子供B『コカコーラ。あれ、君しらないの?サンタのスポンサーがコカコーラだってこと』 子供A「ス、スポンサーって・・・そんなわけねぇだろ。あれだよ、ほらフィンランドとかの・・・」 子供B『フィンランド人があの格好をしてるの見たことある?サンタクロース村は観光客相手に商売で着ているだけだよ』 そんなひねくれた子供がいるかどうかは知らないが、サンタクロースのスポンサーがコカコーラと考えれば、少しは気も落ち着くんじゃないかと思う。 落ち着かない人はがんばって落ち着かせてほしい。 でももしペプシが先にこの経営戦略を考えていたら、サンタは青い服を着ていたかもしれない。 もしかしたら今のペプシマンが「サンタクロース」という名前でデビューしていたかもしれない。 結果、サンタクロース村は全身タイツだらけ。 もしそうなっていたらサンタクロース村にも一度は足を運んでみたい。 デモクラシー。意味は民主主義だ。 これはラテン語を語源としている。 「お金持ち」を意味する言葉であるそれ。多くお金を集めることの難しさと、それだけの実力というところからお金を人に見立てて、「多く人を集めた人は優れている」という理屈になる。 こうして「多数決の優位性」が定められたらしい。 しかしこれ以外にも諸説あり、もう一つ有力な候補として「兵士」という意味のラテン語、ダモクラシュアからきているんじゃないかというものもある。 いかに王が優れていても、兵士があまりに頼りなければどうにもならない。 兵士の質も重要だがやはり「まず相当の数」が必要、というところから「多数決の重要性」と意味を解釈し定めた、という説だ。 どちらが正しいのかはわからないが、二つを総合的に考えたんじゃないかと言う人もいる。 言葉、というものは様々な要因が絡んで決められているのだと思った。 なぜいきなりこんなことを書き始めたのかというと 「他人から与えられた情報をうのみにするのは危険」 ということが言いたかったためだ。 このテキストのどこがウソか気付いてもらえただろうか? はい、始めの一行目以外、ぜんぶウソです。適当です。ごめんなさい。怒らないでください。 ラテン語とかなんてわかりません。ダモクラシュアってなんでしょうか。 以上、知ったかぶりテキストでした。 消防士をファイヤーファイターと言うだろう。 以前ではファイヤーマンだったのだが、「じゃあ女の消防士は?」ということで、ファイヤーファイターやファイヤーパーソンと呼ぶようになった。 炎と戦う人だ。すごい、かっこいい。 ということでこの理屈をウォークマンに当てはめてみる。もちろんウォークマンとはソニー製品のあれだ。 「ウォークパーソン」 歩く人。無難だが音の響きがかっこいいとは思えない。 「ウォークファイター」 歩きながら戦う人。かっこはいいが全然音楽とは方向が違う。 「ウォークリスナー」 もはやかっこ悪すぎる。ダメだ。 ファイヤーファイトで「消火する」という意味になっているのだが、誰が考えたのだろうか。とてもすごいセンスだと思う。 日本語もこれを見習って消火(ショウカ)という漢字を「勝火(ショウカ)」とかにしてみたらどうだろうか。 ウォークリスナーといい、自分にはことごとくネーミングセンスが欠如している様がよく表れているテキストに仕上がったと思う。 歩いている人達が好きだ。 街中にあるようなベンチに座って、ジュースでも飲みながらボケーッと歩いている人を見つつ、考え事をする。 このホームページに何を書こうかなとかも考えたりもしがちだ。 歩いている人、人、人、全員に人生があるし、それを考えるととてもおもしろいと思ってしまう。 目の前から歩いてくるおっさんは、もしかしたら小学生の時にはガキ大将とかだったかもしれない。 自分の横に座る高校生数人は、もしかしたら将来世界を変えるようなアーティストになるかもしれない。。 コンビ二からでてきたおばあさんは、もしかして昔大富豪から結婚を申し込まれたりしているかもしれない。 そんなことを考えていると、数十分くらい過ぎていることもある。 夕方、夜中ならまだいいが、真昼間からこんなことをしていることもある。 昼間に、ベンチで、若い男が、一人、ただ座って、通行人を観察している。 自分の周りの人がどんな人なのかは知らない。しかし周りの人にどう見られているのかは大体わかる。 自分は超能力者かもしれない。 そんなわけない。 食べ放題を「バイキング」という表現方法がすごいと思う。 これは日本でしか通じないらしい。そして英語圏での食べ放題は「ビュッフェ」ともある。 「バイキング」というのは要は北欧あたりの海賊のことだ。 他人のものだろうが、誰のものだろうがかまわず奪い取る海賊。それがどれでも勝手に食べてよい、食べ放題「バイキング」となったらしい。 と、本当くさいウソを発信してみる。 調べてみると真実は「バイキング」という映画のなかで海賊達(バイキング達)が食べて飲んで食べて飲んでのシーンがあり、それを見た帝国ホテルの人が食べ放題システムを「バイキング」とつけ、そこから広まったらしい。 ユーモアのある人もいるんもんだなぁ、と思ってしまった。 ここで海外に行った、と想像してもらいたい。そして貴方には現地の友達ができた。 お腹が空き、二人でご飯に行こうという話になる。 貴方「ご飯どうする?」 友達『カイゾクにしようよ』 貴方「ええー!」 北欧の人が日本に来たとき、このパターンが当てはまることを良く考えて、これからもバイキングをおおいに楽しんでもらいたい。 前を歩く人が右に曲がると、自分もつられて曲がってしまうことがある。 ふだんボケっとしていることが多い自分。 十字路になり自分はまっすぐ行きたいと思っていても、曲がり角の直前でそのことは忘れ、前の人についていってしまう。 すぐに戻ればいいのだが、しばらく気付かないこともある。 これが徒歩のときならまだいい。 原付に良く乗るのだが、それでもやってしまう。すぐUターンできない場所でやってしまうと迷ってしまうこともある。 そして元の道に出ようと「こっちが帰り道かな?」とカンで進んでいるときにすら、また前の車についていってしまう。 もはや泥沼。 もういっそのこと目をつぶって歩いた方がいいのかもしれない。 いいわけがない。 1リットルのパックに入ったジュースがあるだろう。 街を歩いていたら、前から一人の女の人が歩いてきた。 肩まであるウェーブのかかった金髪を風でなびかせ、身長も170くらいあるだろう。顔も整っていて、服装もパシっと決まっている、そんな格好。左肩に小さなバックをかけ、右手に持ったタバコを口にあて、そして煙を少し吐いた。 そんな彼女の左手には1リットルのパックジュース。 煙を吐いた後、おもむろにパックを口に当てる。 もちろんストローとかそんなものはない。直にパックを口に当て、ゴクゴク飲んでいる。 飲み終わったらまたタバコ。 「男らしく」「女らしく」という言葉をほとんど使わなくなっている現在。 彼女に対して抱いてしまった「憧れ」は、美人の女優に抱くそれではなく、アントニオ猪木に抱くそれに近かったように思う。 いいようにもてあそばれ、そして捨てられた。 ほんの少し前までは「キミが必要なんだ」と言われ続けていた。でももう自分は必要がなくなったみたいだ。 あの人の新しいパートナーは自分よりひとまわり小柄で、いつもいつも一緒にいる。 今考えれば、自分とは最低限しか会っていなかったらしい。そんなことにやっと気付いた。自分はあの人の必要なとき、都合のいいときだけの、パートナーだった。 自分は新しいパートナーのように一緒に歩いたことはない。 自分はあの人の家にも行ったことがないし、どこに住んでいるのかすらわからなかった。 責任は自分にもあるのかもしれない。 新しいパートナーは、あの人しか見ていない。ただひたすらあの人のためにあり、あの人に依存している。 自分には正直たくさんのパートナーがいたし、あの人もそれを知っていたようだ。もしかしたらそれが今の状態になる、原因だったのかもしれない。 考えすぎだと自分でも思う。原因なんてハッキリしているのに。 「携帯電話のほうが使いやすいし、便利に決まっている」 以上、公衆電話の語られぬ想いをつづってみた。 「災害時は公衆電話のほうが携帯電話よりも繋がりやすい」なんて雑学も披露してみたりする。 自分はあんまり行動力のあるほうじゃないと思う。 これはものすごく損をしている、と感じてしまった。 好奇心は人一倍あるとは思うのだが、どうにも行動には移せない。新しいことをやるのは不安感なのか、ただめんどうなのか、あまり好きではない。 でもやってみたいと思う感情はある。 こんなことでは自分の中の価値観を広げることはできない。それではダメだ。 という経緯で、なにかおもしろそうなことはないかなとインターネットを駆使して調べてみた。 英会話スクールというのがある。ノバとかそういうやつだ。英語がペラッペラだったら楽しいだろうなぁ。 ロッククライミング体験みたいのもある。こういうのは上りきったらどういう感情がこみ上げてくるんだろうなぁ。 バンドメンバー募集というのもある。自分は音楽が好きだし、ギターも少しやっていたし、いいなぁ。 と、さすが情報化社会。さまざまな情報が家にいながらにして、パソコンとにらめっこしているだけで手に入るのだ。 でもそもそもこの「パソコンとにらめっこして」というスタンスがダメなんだということは自分でもうすうす感じている。 絶対叶わない夢なんて、捨ててしまえばいいんだと思う。 これは自分の中にある、確固たる意見だ。たとえどんなに他人に「それは違う」と言われたところで覆ることはないだろう。 でもここで一つ、このテキストを読んでいる人に聞きたいことがある。 「絶対に叶わない夢」というのはどういうものか? 「ハリウッドスターになる」 もちろん数は少ないが、この夢を叶えている人は何人といる。ぜひ夢に向かって頑張ってほしい。 「ビルゲイツよりお金持ちになる」 これもむずかしいだろうが、ビルゲイツ以上の才能と、運と、努力があればできないことではないだろう。ぜひ、実現させてみてほしい。 「初恋の人と結婚する」 初恋は実らない、なんてジンクスは誰が言ったんだろうか?実際に叶えている人も身近にいる。 ここで自分の考えをまとめると 「絶対に叶わない夢なんて、捨ててしまえ。でも、絶対に叶わない夢なんて、この世には一つしか存在していない」ということだ。 「叶いそうにない夢」というのは確率は低いだろうが、決して無理ではない。そしてそのために行った努力、行動が未来の自分に生きてくるだろう。無駄にはならない。新しい夢を叶えるのに必要なことだと思う。 一つだけの絶対叶わない夢。 それはタイムマシンが実用化されることはないだろうから、「過去を変える」という夢だ。例えば「昔のあの失敗をなくしたい」とかそんなものだ。 そんな夢というか後悔は捨ててしまえばいいと思う。 『過去を振り返ることは必要だが、過去に縛られている人は、なにも成し得る事はない』 ここで少し自分の過去を振り返るために、昨日のテキストを見てみた。 「ワタシ、ニホンゴワカリマセーン」とか書いてある。 ええと、昨日のテキストはなかったことにしてもいいでしょうか? ワタシ、ニホンゴワカリマセーン。 そんなインチキくさい外人を見たことはないが、すこし考えてほしい。 「I can't speak English」 と貴方は突然話しかけてきた外国人に言ったことはないだろうか? しかもそんなことを言うくらいの英語力だ。発音が完璧、なんてことはない。 これは外人から見たらまさに「ワタシ、エイゴハナセマセーン」と言っているのだ。 インチキ外人の名をほしいまま。相手は半笑いかもしれない。 でもそう言っているこちら側としては必死だ。なんとかして自分は英語が話せないということを伝えようとしている。 しかし結果は半笑い。 もし道端で外人が「ワタシニホンゴワカリマセーン」と言っていたとしたら、半笑いをこらえ、「ああ、この人いま必死に自分の立場を伝えようとしているんだなぁ」と思ってもらいたい。 CDはコンパクトディスクの略。 これは「この小ささで、こんなに大容量」という意味だと思うが、もう一つの側面として音楽CDは「レコードよりもこんなに小さくなった」という意味合いもあると思う。 今の子供はちんぷんかんぷん必至。 生まれたときにはレコードなんてない。 ゲームもプレステであの大きさが当たり前。 ビデオテープもあるにはあるが、DVDがある。 もはや子供でなくても「どこがコンパクトなの?」というほど、ありきたりな大きさのメディアになってしまっている。 そしてDVDの方が大容量になってしまった。 ついにはコピーコントロールCDとかいうもはや別物まで出てきている始末。 もうCDのアイデンティティーは失われてしまっているのかもしれない。 大人はいつでも残酷だ。しかし彼らもまた、その仕打ちを受けてきた被害者でもある。 自分はジーンズははかない主義だった。 なんでそんなポリシーを持ったのかという原因はわからないが、そうだった。 そもそもジーンズとジーパンの区別も全然わからないのにだ。 人生のターニングポイントは突然訪れる。 それは去年の夏。 冷夏といわれ、真夏日を記録する日もほとんどない、そんな夏。ある人物がテレビのCMに出演していた。 「矢沢永吉」その人だ。 ユニクロジーンズのCMだった。 武道館かどこかで、ユニクロとは一切関係のない、自分の話をするYAZAWA。 その勇姿、成り上がりぶり、そして履いているジーンズ。 ほんの数十秒の間で、自分のこんにゃくポリシーは消えうせた。 今ではジーンズしかはかないような人間になってしまっている。 ユニクロに完敗した、そんな人生。 「うまい棒」という名前もすごい自信だと思う。 甘いものが好きな人だっているだろう。辛いものが好きな人だっている。その人たちはそれを「うまい」と感じるのだ。 しかしそこは「うまい棒」 食べる人がどんな好みを持っていようと関係ない。うまいのだ。 そんな自信を感じ取れる反面、自信とは別の理由がその名前には隠れている気がする。 「うん、この商品はとてもうまい。棒状だし、名前はうまい棒でいこう」 そんな決め方。あるのは自信ではなく潔さ。悪く言えばいいかげん。 でも「うまい棒」という名前を初めて聞いた会社の人は「え?本当?」とか思ったと思う。「それでいくの?」と。 そして本当に売り出される。 発売当初は売り上げにももちろんドキドキしていたと思うが、それ以外の感情でもドキドキしてしまっていたと思う。 「味の素」という名前はものすごい自信だと思う。 なんたって「味」の「素」なのだ。 香辛料のように、最後にちょっと一味、とかそんなレベルの話じゃあない。 それが味の全ての基本。ベース。スタートなのだ。もはやそれがなくては「味」は形成されない。 「わが社が日本の全ての家庭の味を牛耳るのだ。ウチの製品なしでは料理はできない、というくらいにまで浸透させるぞ」 そんな意気込みの表れなのかもしれない。 うちに味の素製品はひとつもない。 小学生も低学年の頃、先生に 「シャープペンじゃなくて鉛筆を使え」 と言われたことがある。 さらに「鉛筆の方が覚えられる」と独自の理論を展開され、小学生ながらに『それはシャープペンでも一緒だろう』と思っていた。 あれから十年あまりが経過した。 シャープペンよりも鉛筆の方が記憶が楽、なんて話は聞いたことがない。 きっとそんな学説もないだろう。 あの先生はいったいシャープペンにどんな思いを抱いていたのだろうか? 家が鉛筆関係の仕事でもしていたのか? もしかして今でも証明されていないだけで、正しい理論なのかもしれない。 真相を知る術はない。 小学生の時は、傘を剣と言い張って遊んでいた。 男の子時代がある人なら誰でもやったんじゃないかと思う。剣道のようにやってみたり、漫画やアニメの剣の技をまねしてみたり。 どんどん大人になっていく男の子。 そして立派な男になる。 そして傘はゴルフクラブへと変貌を遂げる。 駅や少し広いところで、ちょっと時間が空いたら自分のスイングをチェック。あこがれの選手のスイングをイメージ、そして傘を振る。 「男はいつまでたっても子供」と言うが、的を得ているとしか思えない。 傘はいつでも僕らをあたたかく、見守ってくれている。 自分はスパゲッティが好きだ。 このブログ「ポップコーンスパ」のスパはスパゲッティのスパであることにもその好きさ具合は見て取れると思う。 コンビニなんかで売っているものも良く食べるし、スパ王とかも食べる。もちろん自分で麺を茹でて、買ってきたソースをかけて食べるのも大好きだ。 だからといって 「どんなスパゲッティが一番好き?」 と言われると言葉に詰まる。 もう、全部おいしすぎて一番とかそんなのは考えられない。 食べているときはひたすら「おいしいなぁ」と思い続けているだけ。 もちろんパスタとスパゲッティの違いもまったくわからない。 しかしそんな自分にも平等においしさと幸せを与えてくれるスパゲッティ。 世界中の人がスパゲッティを食べたなら、争いなんてなくなってしまうんじゃないか? たぶん「美味しんぼ」の世界なら実現可能かなぁ、なんて思ったりもしてみた。 ウサギと亀の教訓は「才能がすべて」ということだと思う。 競争をして、スタートと同時にウサギが飛び出す。亀はのろのろマイペース。 ゴール直前でウサギが亀を待ちつつ昼寝していたら、その間に亀にゴールされた。 教訓「こつこつ努力していれば、最後には勝てる」 この受け取り方はものすごくポジティブな人だと思う。 ちょっと考えてみてほしい。 もしウサギが昼寝しなかったらどうだろう? 結果はもちろんウサギの圧勝。接戦にすらならない。 つまりこの話の真の教訓は 「才能があれば、よっぽどのアクシデントや油断がなければ、凡人には負けない」 ということであり、凡人サイドから見れば 「凡人が才能のある人に勝つには、アクシデントがなければならない」 ということだと思う。 泣きたくなる様な現実でも、僕らは受け止めて生きていかなくてはいけない。 立ち止まっている暇はないんだ。 なんで乙姫が玉手箱をくれたのかがわからない。 亀を助けてくれた浦島太郎を竜宮城でもてなすのはわかる。ごちそうとかショーで楽しんでもらおうと思ったんだろう。 そこでなぜお土産に、ごちそうとかが入った箱じゃなくて、「絶対に開けてはいけない箱」をくれたのかがわからない。 中身を言ってしまえば、年を取ってしまうだけの箱で、仕様用途はないに等しい。 恩人に対してやることじゃないと思う。 もしかしたら乙姫自身も昔に誰かから玉手箱をもらったのかもしれない。 「絶対に開けてはいけない」と言われ、どうしていいかわからなくなる乙姫。そんなとき何も知らない浦島太郎が来た。 「チャンス」とか思ったんじゃないか。 「もてなした後、最後にさりげなくお土産として玉手箱を渡してしまえばいいかな」 と考え、そして実行に移す乙姫。 そんな出来心と言うか、ちょっと魔がさしてしまったのかもしれない。 桃太郎にでてくる鬼たちがわからない。 桃太郎一行は彼らに奪われた金銀財宝を取り返して、最後に村に帰ってくるだろう。 そもそも鬼たちは金銀なんて奪って何に使っていたのだろうか? ほしいものはなんでも奪って来れる彼ら。食べ物でも、遊ぶものでもなんでもだ。 お金なんて奪ってきても、レジでそれを出したりはしないだろう。 そう考えて金銀財宝というのは、金のネックレスとか指輪とかそういうのなんだと、ふと思う。 鬼たちでもオシャレに気を使うんだろうか? いや、しかし本で描かれる彼らはパーマに雷パンツという、オシャレにはほど遠い感がある。 多く奪ってきた方が鬼としてのランクが上がるんだろうか? しかし必要ないものを多く奪ったからって評価されるとは思わない。それなら食べ物を多く奪った方が偉くなれると思う。 どう考えても金銀財宝は鬼たちには必要がない。 ちょっと勇気を出して鬼たちに 「その金銀財宝だけは返してもらえませんか?」 と言えば、意外とすんなり返してもらえたりしたかもしれない。 自分の理想の大人がタモリであることは間違いない。 しかし決してタモリになりたいわけではない。 自分にはあと二人、理想の大人がいる。 「関根勤」 「高田純次」 この三人は自分の中では絶対であるし、カリスマであるし、雲の上の人だ。 もっと厳密に言うなら、自分の理想の将来像は 「タモリ50%、関根勤40%、高田純次10%」 これだ。 日々この理想を目指しているが、具体的にどうしたらなれるのかわからない。 特に高田純次のあの空気は、努力ではたどり着けない世界である気がしてならない。 文化財や歴史的に重要なものなんかは多い。 形あるものはもちろん、形のない「能力」を認められたりするケースだってある。 それらの一部は重要文化財や、人間国宝なんかに指定され、長く守り未来に引き継がれていく。 しかし指定されていないものでも、とても重要なものは多くあると思う。 様々な人間が関わり、様々な技術、技能を使い、様々なひとときをもたらしてくれる。 そんな「タモリ倶楽部」 この番組、そしてタモリは、日本になくてはならないものだと思う。 少なくとも自分はタモリ倶楽部のない生活は考えられないし、考えたくもない。 昔は女の人も立ちションをしていたと聞いたことがある。 日本全国ではないみたいだが、少なくとも江戸時代くらいの京都では、路上に適度な大きさの桶が置いてあって、そこで女の人がちょっと腰を落とす程度の、中腰状態で用をたしていたらしい。 桶にたまった排泄物は、肥料として重宝していたとかなんとか。 今の価値観で考えれば「ええー!」だが、当時なら当たり前だったんだろうと思う。 ここは思い切ってテレビの時代劇なんかでそのシーンを再現してみたらどうだろう。もちろん由美かおるで、だ。 当然のように入浴シーンを待つ視聴者をよそに、いきなり路上の桶に中腰になる由美かおる。 ゴールデンタイムに暴走するスタッフ。 そして大暴走している自分のテキスト。 「親友と呼べる人はいますか?」について 「恋愛」の反対語が「親友」なんじゃないか。 これが自分のもっている親友感だ。正確に言えば「恋愛」ではなく愛する異性(恋愛対象の性別のこと。同性愛の場合は同姓。恋人)のことだが今回は「恋愛」と書くことにする。 自分は男で、女性に対して恋愛感情を抱くわけだが、つまりこの反対。男性に対するこの感情が親友なんじゃないか、と思う。 理想の「恋愛」というのは大抵皆同じだと思う。 お互いを理解し、お互いを高めあい、無理をせず、支えあっていけるような関係。 こういうことなんじゃないかと思うし、自分の理想はこんな感じだ。 これを恋愛対象ではない性別、自分なら男に当てはめたものが「親友」なんじゃないか。 理想の「親友」とは、お互いを理解して、お互いが支えあい、高めあい、無理のない等身大の付き合いができる関係。 自分はそう思っている。 しかしこれらは結局「理想的」な姿なんだと思う。 誰もが理想的な恋愛、理想的な恋人に憧れても、理想どおりにはいかず、相手を心からは理解できず、すれ違って、結局どこかを妥協し、そして「理想的な恋人」を諦め「理想とは少し違う恋人」に満足するか嫌気がさす。 同じことが「親友」でもあると思う。 結局「理想的な親友」を諦め「理想とは少し違う親友」に満足した人は『親友がいる』と言う。 「理想的な親友」を諦められず「理想とは少し違う親友」に満足しない人は『親友はいない』と思っているんじゃないか。 理想的な恋愛をするのと同じだけ、親友を作るのはむずかしいことなんじゃないかと思う。 それでもそんな理想的な「恋愛」「親友」を得ている人もいるんだと思う。 もちろんこの考え方は自分だけのもので「全然違うよ、おいおい」という人も多くいるんじゃないかと思う。 でも「恋愛(恋人)」に定義がないように、「親友」にも定義なんてないんじゃないか、と思ったりする。 結婚に必要なのは愛かお金か。 そんな問いかけに対して先週のフジテレビ「トリビアの泉」が調べていた。80歳以上の人2000人程度に質問をして回答を集計していた。結果は愛が少し多かった。 極論を考えてみる。 「愛しかない夫婦生活」はどうだろうか? お互いに尊敬しあい、愛し合う夫婦生活。 しかし夫婦共に働くことが嫌で、長続きしないような人で、生活費もなにもかも借金。取立てにおびえる、そんな毎日。 「お金しかない生活」はどうだろうか? 自分の結婚相手がお金持ちだったとする。 家は広くて、服でも趣味のものでも何でも好きなだけ買える。もちろん家事は全部雇った人にやってもらう。 しかしたまに夫婦顔をあわせたと思えば、お互いが浮気だ、浪費癖だとケンカ。それでもお金があるから、別れる事はできない。 どっちが幸せだろうか? もちろんどっちも不幸。前者はトリビアの調べた結果である「愛のある夫婦生活」なのに不幸という結果だ。 「愛があれば幸せ」「やっぱり最後はお金ね」とかいう簡単なものではないのだと思う。 夫婦の状況によっての回答を想像してみる。 「夫婦愛しかない夫婦生活を送ってきた人」は不幸の原因はお金がないからだと思い『お金が必要』と答え 「お金しかない夫婦生活を送ってきた人」は不幸の原因は愛がないからだと思い『愛が必要』と答えたんじゃないかと思う。 「夫婦愛は少なめだったが、適度なお金がある夫婦生活を送ってきた人」は愛がもう少しあれば幸せなんだと考え『愛が必要』と答え 「夫婦愛は適度にあったが、経済的に少し苦しかった夫婦生活を送ってきた人」はお金がもう少しあれば幸せなんだと考え『お金が必要』と答えたんじゃないかと思う。 「夫婦愛は適度にあり、十分なお金があった夫婦生活を送ってきた人」は幸せはお金のおかげなんだと思い『お金が必要』と答え 「夫婦愛は十分で、適度なお金のある夫婦生活を送ってきた人」は愛が夫婦生活を楽しくしていたと思い『愛が必要』と答えたんじゃないか。 「夫婦愛もお金も十分」「夫婦愛もお金もない」という人はどちらの回答も答える可能性があるが、そんな人はほとんどいないと思う。どちらも十分なんて少数だろうし、どちらもない夫婦がそのまま夫婦生活を続けるとも考えづらい。 この結果とトリビアの結果を組み合わせると(『愛が必要』と答えた条件をピックアップすると) 「お金しかない」夫婦 「愛は少ないが適度なお金」のある夫婦 「愛は十分、適度なお金」のある夫婦 が日本には多いことになる。 そしてこの結果を見てみると「お金」が全てに絡んでいることがわかる。結婚がどうこうじゃなく、お金なのだ。 ああ、世の中やっぱりお金か・・・なんて思ってしまう。 これだけ長く書いてみても、世の中結局お金、という結論になる自分のテキスト。 昨日といい、この終わり方も何度目かわからないくらいの使いまわしぶり。 守る術を持たないブログ。 今の世の中が弱肉強食であることは間違いない。 これは動物の世界ではなく、自分たちの生きる人間社会の話としてだ。 動物の世界なら、力が強いイコール強者というわかりやすい図式だが、人間社会ではそう単純じゃないと思う。 知力、信頼性、それによる人脈。そういう様々なものを含めた強さの大きい人が勝つのが現代だ。 そしておそらく人間社会最高の武器は「お金」なんだと思う。 お金で買えないものはない、というあれだ。 弱い人にはとことん厳しく、強い人には甘い、今の社会。 自分の身は自分で守らなくてはならないのはわかっていても、弱者には守る術がない、とも思う。 ・・・お金・・・信頼・・・・・・知性・・・。 こうして並べてみると、自分には縁遠いものばかり。 「ちっ、結局世の中金かよ・・・」 とやさぐれてみるのも、自分にはやさぐれるくらいしかできることがないからだったりする。 それでも教師だ。 昨日のオーソンウェルズのテキスト。 彼の映画は「市民ケーン」こそアカデミー賞を取っているが、他の映画は後々評価されたらしい。 当時彼の才能を完全に理解できる人がいなかったのだろう。 「私はオーソンウェルズの映画に影響されて、映画界に入ることを決めました」 そんなことを言う人はたくさんいるだろうが、もしかしたら将来、日本文学界に 「私はポップコーンスパというブログを読んで、文章のすばらしさを学びました」 こんなことを言う作家なんかが出てきたりして・・・。 そして世間も「おお、ポップコーンスパというブログのテキストはなんて斬新で革命的ですばらしいんだ・・・」なんてことになるかもしれない。 なるわけがない。 「ポップコーンスパのテキストは駄文の教科書のようなものなので、みんな一度読んでくること」 そんな反面教師としてなら、このブログも日本文学界に役に立つかもしれない。 市民ケーンという映画を見た。 60年以上前の、オーソンウェルズの作った映画だ。 この映画は物語構成や撮影技術など、当時ではあまりに斬新で革命的で「世界最高の映画」という看板を背負ってもおかしくないものである。 見ての感想は、「?」 まず、当時の時代背景がよくわかっていない。 この映画のモデルになった「ハースト」という新聞王に邪魔をされて、映画興行はさっぱりだった、ということくらいしか知らない。 なによりこの映画の、物語構成があまりに斬新で、撮影技術があまりに革命的過ぎて、いまでは「普通」としか思えないのだ。 みんながみんなこの手法を使って、当たり前になってしまった。 映画を見る前に「この映画は撮影技術などが斬新で・・・」という説明文を読んでいなかったら、それすらまったく気付けなかっただろう自分。 「映画のおもしろさを理解するほどの能力がない」というどうしようもない状況。 新しい映画をまったく見たことがない。 世界中が見たと言える「タイタニック」を見たことがない。 日本中が見たと言える「千と千尋の神隠し」をこの夏に見た。 たぶん自分の見た最新映画は「ハリーポッターと賢者の石」なんじゃないかと思う。 そして一番最近見た映画がアランドロン主演「太陽がいっぱい」 製作が1960年の映画だ。 友人との会話 友人『最近、映画見てなくてさ。キルビルから見てないよ』 自分「・・・・・・ええと、それって最近じゃあ・・・」 友人『好きな役者はだれ?俺はジャンレノとか好きだな』 自分「アランドロン!」 友人『・・・・・・渋い・・・』 周りの意見に流されず、自分の見たいものを見て、自分なりの指針で感じるのだ。 友人『言い換えれば、流行にうとい、だろ』 はい、そうです。 映画を借りてきて、まったく見ないで返すことがよくある。 ちかくのレンタルショップで週に一度程度「レンタル100円」の日がある。 そのときに狙いを定めて数本まとめておもしろそうなのを借りるのだが、大抵2本くらい見ないで返す。 結局一本200円くらい払っていることになる。 「今日は百円だからな。少しでもおもしろそうなのがあったら借りておくか」 と思い、たいして見たくもないようなものを勢いで借りるのが悪いということはわかっている。そして別に急いで借りなくても、来週また百円になるのもわかっている。 それでも5本くらい借りてしまう。 これが「レンタル100円マジック」なのか! なんて驚いてみても、ただ学習能力がなく、何度も勢いで借りて帰り、店の戦略にハマっているだけ。 |