女子高生がつらいのを我慢する季節が来た。 ミニスカートがかわいいというのは認める。しかし冬でも我慢してミニでいくことはないんじゃないかと思う。 暖かそうなマフラーを首に巻き、コートを着て、手袋をつけ、下はミニスカートで足丸出し。 寒いに決まっている。 頭かくして尻隠さず的ファッション。そんな言葉はないけど、そんな感じ。 しかしちょっと待ってほしい。このファッションはなにも女子高生が考案し、駆使しているわけではない。ただ彼をリスペクトしているだけかもしれないのだ。 その彼とはノビタ。 ノビタとはもちろん漫画「ドラえもん」に登場するキャラクターだが、彼は冬でも半ズボン。コートを着て、手袋をつけ、下は半ズボン。 まさに今の女子高生。ファッションリーダーもリーダーだ。数十年前からやっている。 こんなところに隠されている、現代ファッションとノビタとを繋ぐ糸。 昨日のワカメといい今日のノビタといい、やはり長寿漫画にはそれだけの影響力があるのだ。 次世代ファッションはもしかしたらゴルゴ13の角刈りとかかもしれない。 女子高生全員角刈り。 今の日本の女子高生ファッションは世界でも結構有名らしいが、それを遥かに凌ぐインパクト。 「ジョシコーセー」という英語が生まれてもおかしくないほどのパンチ力。 女子高生が今のスタイルに落ち着いたのはいつからか。 10年位前に登場したルーズソックス。だぶだぶの靴下でそれをだぶだぶに履くのがかっこいいとされたそのスタイル。だぶだぶなので足に固定できず、それ専用のノリであるソックタッチというものまで発売された。 そしてそれとほぼ同時期だと思われるが、スカートの丈が短くなり始めた。 始めはヒザくらいまでのスカートであり、それでも当時はかなり問題視されていたが今ではもうヒザ上が当たり前。数年くらい前に今の長さで落ち着いた感がある。 それはもうギリギリの長さだ。ギリギリパンツライン。 あと少しでサザエさんのワカメだ。 今考えればあのだぶだぶ靴下も海でゆらゆら漂うわかめをイメージしてのものかもしれない。 ルーズソックスが廃れて紺色の靴下がポピュラー化しているようだが、それもわかめ色。 スカートの丈もワカメ。 ファッションリーダー。カリスマ。様々な呼び名があるかっこいいモデルや芸能人。 しかし全てはワカメに集結する。 これがアニメ「サザエさん」が何十年も続いている真の理由なのかもしれない。 自分を雨から守ってくれた傘は、その命を終えた。 傘は雨から自分を守ってくれた。 水に濡れて風邪を引いてしまわないように、そっと守ってくれた。 吹き付ける風は冷たくても、傘が守ってくれていると考えれば心だけは温かい。 自分が傘にしてあげられることはなにもない。 ただただ自分は無償の愛を求め続け、傘もそれに答えてくれる。 しかしいつか傘にも限界は来る。 別れが近づき、そして傘はその命を終えたのだ。 これが数日前に自分に起こった出来事だ。自分の頬を流れる水滴。それは雨だったのか涙だったのか・・。 少し具体的に書こう。 数日前、店に入っている間に雨が降り始めた。自分は傘を持っていない。ちょうどその店は傘を取り扱っている店で自分はそれを買って外に出た。結構強く降っている。 傘をさす。 外を歩き始めて数秒後、強風が吹いて傘が壊れた。 びしょぬれになる自分。 自分の頬をつたう水滴は雨なのか、涙なのか・・・。 自分の好きな言葉に「お金は経験に使え」という言葉がある。 新しいパソコンがほしいとかあのバッグがほしいとか、物に対する欲求があるとつい買ってしまいがちだが、物は買って、それでおしまいということが多い。 それで変わることは特にない。 しかし、例えば美術館に行って何かを感じるだとか、旅行をして知らない文化などに触れるなど、新しい経験をすることで自分を高めることができるというわけだ。 自分は結構これを意識している。 いつも吸っているタバコが売っていたとしても「いやここは吸ったことのないヤツを吸ってみよう」と思い別の銘柄を買ったりする。また、いつも飲んでいる牛乳をやめて別の牛乳を飲んでみたりもする。 これが「新しい経験のためにお金を使う」ということなのだ。 自分の理論は細かい意味では正しいのだろうが、広い視野で見れば余裕でアウト。 それは悪魔である。 悪魔がこの世に存在していることに皆気付きつつ、しかし誰も滅亡を成し得ない。 その悪魔の厄介な所は、契約は簡単だが、契約破棄となるととたんに牙を向けてくる所にある。 しかし悪魔は直接手をくださない。 悪魔契約者の体に自らの分身を埋め込む。ニコチンという名の悪の化身は契約を破棄するのを邪魔し、再び悪魔を崇拝するよう囁き続ける。 「お前には俺が必要なんだよ。悪魔の力無しで生きていけると思うのか・・・」 悪の化身は契約者を増やそうと、宙を舞う。密室でその力は倍増するのだ。悪魔崇拝者の周りにいる、人という人の体内に入り込み、体を蝕み、契約を迫る。 近年、悪魔契約破棄促進が声高に叫ばれ始めている。子供への影響を特に懸念し、化身の活動が活発になる密室での悪魔崇拝を禁止し始めた。この活動は大きく広がっている。 この悪魔の絶滅が容易でない理由の一つに政府とのつながりが挙げられるだろう。政府は悪魔から「タバコ税」という名の献金を受けている。悪魔崇拝者を減らそうと表向きは言うが、やはりこの献金が崇拝促進を内心では考えている引き金だろう。 自分は悪魔を崇拝している。契約をしてしまっているのだ。ほんの半日悪魔崇拝を怠ればたちまち 「どうした。お前は悪魔の力を得て生きているんだろう」 そう囁きかけて来る。まさに悪魔の囁き。自分は命を一滴一滴とこぼしていっているのだ。 ということで自分は禁煙を勧める立場にいないけれど、まだタバコを吸っていない人は吸うのはやめましょう。いや、吸いたいなら別に止めないけど、きっと後悔しますよ。お金も掛かるし。白い目で見られるし。 ここで一つ。タバコ販売関係者様には謝っておこうと思います。 こんなテキスト書いてすみません。でも自分貢献しているので許してください。 それまでの物理学を否定したアインシュタイン。 質量保存の法則。これは間違えている理論だ。 例えば紙を燃やすとする。それは酸化をさせているのだが、燃えきった灰を集めれば燃える前の紙の質量とまったく同じになるというあれ。実際は質量が少し減ることがわかっている。 これはたしか一般相対性理論だったと思う。 質量がエネルギーであると証明したこの理論。これを応用したものが原子爆弾であり、原子力発電所である。ここで質量はどの程度のエネルギーを持つのかを書いておくと、一円玉六枚(6グラム)で東京ドーム一杯にした水を沸騰させることができるほどのエネルギーが得られるのだ。 有名な「E=MC2乗」だ。 今はその話の逆をしてみたい。 ある人間がいて、生まれたときの体重(質量として考える)が3キロ、二十歳で60キロになったとする。 計算すると人間が3キロから60キロになるまでに必要なエネルギーは東京ドーム9500杯分の水を沸騰させるだけのエネルギー、ということになった。莫大なエネルギーだ。 しかし一定の体重になったら、それ以上劇的に変化する人は少ない。しかしエネルギーは摂取し続けている。これだけのエネルギーを一体どう使っているのだろうか。 だから人間は一年中発情期なんじゃないかと思う。 学術的に攻めてみても、ただの下ネタ。 経験を積むことで感動する回数が少なくなるのは間違いない。 これは逆説なのかもしれない。実際は「感動する回数を減らすことを経験と呼ぶ」のだろう。この場合の感動は心が動くことだ。悲しいことやうれしいこと、そういう意味で用いている。 しかしこれはなにか悲しいことのように思えてしまう。 そう思えることは感動なのだが、これについて考え自分なりの答えを出してしまえばそれは経験に生まれ変わってしまい、そこに感動は存在しなくなる。 それでも自分はこれを検討していこうと思う。 「経験をしたい」「感動がしたい」 そう思う心が強いほど経験や感動にめぐり合うことが減ってしまう。なぜならそう思う人はもうすでにかなりの経験をしてしまっていて、なかなか新しい経験ができないのだ。もちろん感動でもそうだ。 思うほどに叶わない苛立ち。もどかしさ。 しかしその苛立ちすら「僕はもうかなりの経験積んだからな。しかたないか」と考え、苛立ちすら感じなくなってしまう。感動はもうそこにない。 「解決策はないのかもしれない」というのが自分の回答だ。解決策はない、と断定することができないのは、少しの可能性を信じているからではなく、可能性ゼロを信じたくないからなのだと思う。 自分はもはや回答を出してしまった。つまり経験をつんだことになる。 「感動する回数は減っていく」という事実に、自分はもう落胆したり、悲しいと思うことはない。 なにを見てもすぐに「カワイイー」と言う女性がいる。つまりものすごい回数感動を繰り返していることになる。毎日毎時間感動の嵐だ。 本当ならうらやましいはずなのだが、なぜだか憧れはしない。 免許を取得するときに「踏切では窓を開けて音を聞け」と教えられた。 当然だがこれは全国的にそう教えているらしい。しかしこんなことを本気でやっている人がいるのかはかなり微妙だ。というよりいないだろう。 「踏切の前で止まって、目で電車が来ないことを確認し、さらに耳でも来ていないことを確認するんだ」 そう言われた。まぁ目で確認するまではいい。でも音はやりすぎだろう。 アメリカあたりでは踏切で止まることも必要ない。 当然と言えば当然。遮断機がある。遮断機が降りていたら止まればいいし、開いていれば進めばいい。日本もこれでいいと思う。 いや、もしかしたらステルス電車とか言う目に見えない電車とかが走り出したりするんだろうか。もう音でしか判断できないステルス電車。 踏切に響く電車の音。そして風。しかし姿は見えない。これは大変だ。窓を開けて音を聞かなくてはならない。 しかしそんな電車が実用化されたとしても、遮断機がある。どんなに透明な電車でも通るときには遮断機が降りる。 遮断機が降りていたら止まればいいし、開いていれば進めばいい。 どう考えてみても必要がない、踏切で窓を開ける行為。 必要なのは遮断機の整備だけ。 ドルチェアンドガバーナ。いや、ガッバーナか。 二日続けてブランドネタだが、昨日のルイヴィトンならまだしもこっちはまったくわからない。ちょっと聞いたことがある程度だ。 聞く度に思うが、なんかオーバーな効果音みたいだなと思う。 付き合い始めて半年の彼女が自分のためにケーキを作ってくれたとする。自分の誕生日なのだろう。あまり大きなケーキではないが、丸いデコレーションケーキ。雪のように白くてちょこんちょこんとイチゴが二つ乗っている。 それを彼女がイチゴが一つ乗るように切り分け、白い皿の上に載せてこちらに差し出す。 自分が手を出し、彼女が皿を渡してくれるその時、手が滑って皿と共にケーキが床に落ちる。 ドルチェ! こんな感じ。あまりのショックに「ベチャ」ではなく「ドルチェ」となる。ゆっくりドルチェと言っても雰囲気はでない。ドにアクセントを置き、すばやく発音する。 「ドルチェ!」 友人にこの話をすると 『そんなガッバーナ(注訳・そんなバカな)』 こんな雰囲気の自分の中のドルチェ&ガッバーナ。自分はこのまま人生を歩んでいっていいものかとフト立ち止まる。 ルイ・ヴィトンは世界で始めてモノグラム柄(頭文字とかをマークにしたもの)を用いたらしい。 LとVと花と星。これらを用いてルイヴィトンのあの独特の柄になっているらしい。さらさらブランド物の知識がない自分でも知っているくらいだ。わかってもらえると思う。 小さい頃、ルイヴィトンという名前すら知らないころ、母親が持っていたバッグの模様が気に入った。それがあのモノグラム柄である。 これは手裏剣であると信じて疑わなかった自分。 円月輪の中に組み込まれた手裏剣もある。これが噂の風魔手裏剣なのかもしれない。 LもVも読めない頃だ。剣を並べた形かなと思った。 そこに花や星などといった美麗なものは存在しない。あるのは血なまぐさい忍者の戦闘用道具だけ。 「デザインというものは個人個人受け取り方が違い、様々な解釈ができるものほどすばらしい。デザイナーがコレを表現しているんだ、と押し付けるものに価値はない」 とかそんな台詞は今自分が考えただけだが、ルイヴィトンのモノグラム柄を考えたデザイナーの人に拍手を送りたい。これは本心だ。 「オー、ニンジャニンジャ」 とか喜んでくれるかもしれないが可能性は低い。 男らしい男よりも女らしさのある男が人気がある。 男らしい、女らしい、という表現の定義は難しいがこれは感覚でわかってもらえると思う。 筋肉モリモリでごつい男よりも、ペヨンジュンやガクトなど中世的な男性が人気があるということを言いたいのだ。 男性なのに女性的。そこに存在するある種の矛盾、謎に魅かれるんだと思う。 これはなにも男だけにあてはまることではない。 江角マキコのようにキリッとした女性が人気がある。彼女たちは男性的な女性であると言えると思う。 しかし物事ほどほどが大事であるというのも事実。 女性的な男性も行き過ぎればKABAちゃんにたどり着くし、男性的な女性も神取忍に着地する。 もちろんその地点まで行きたい人は大きく羽ばたけばいいだろう。君には自由という名の羽があるのだから。たぶん。 この話の着地点がわからなくなったので神取忍ということにしておく。 口でワザワザ言わなくても「音楽=ロック」だろう。 これは自分の中の当たり前であり、自分の中での当然だ。他人にとっての音楽はクラシックかもしれないし、ポップスかもしれないし、本当に音楽全般を指しているかもしれない。 「口で言わなくても分かる事、口で言わなくちゃ分からない事」を読んで、あぁそうだなぁと思いこのテキストを書いている。本当はコメントをしようとしたのだが長すぎてこれだとマズイかなと思いトラックバックにしているというのはヒミツだ。 ちなみにこのテキストはリンク先のテキストを読んでからでないと意味がわかりづらいかもしれない。 話を戻す。 『口に出さずに正確に伝わることはない』 『口に出しても全てが正確に伝わるわけではない』 これが現実だと自分は思っている、というかリンク先を読んで思った。 「好きだと言ってくれないと、好きかどうかわからない」 言うだけでいいなら自分でも今すぐ言える。「好きだ」。ホラ言えた。 そんなの心がこもってないだろう、と思う人もいるかもしれない。しかしそんな「心がこもっているかどうかがわかる」のなら初めから「好きだ」とわざわざ口に出して言ってもらう必要はない。普段の発言や仕草から自分への感情は理解できるだろう。 結局口に出しても感情が正確に伝わるわけではない。 「好きだなんて言わなくてもわかるだろう」 この場合は「相手がそこまでとても注意深く自分のことを見ている」と男が思っている場合だ。 しかし本当に相手がそこまで見ていたら、こんな会話が始まるわけがない。 本当に男のことを見ていないからこそ、「好きだと言って」「言わなくてもわかるだろう」という会話が成立する。 ここまで読んで、「でも私たちは言葉がなくても相手の愛が伝わっている」と言いたい人もいると思う。 それは『相手があなたに伝わるようにわかりやすく行動している』のだと思う。 もう一つ『あなたが相手の感情を行動から察する能力に長けている』のどちらかだ。 しかしこのどちらの場合でも結局は『自分がわかったつもり』なのだろう。当然だ。相手に確認をしているわけではないし、相手が口にした言葉が真実である補償はないからだ。 そして最初の結論にたどり着く。 『口に出さずに正確に伝わることはない』 『口に出しても全てが正確に伝わるわけではない』 音楽はロックだ。 これは一度口にしているのでこれを読んでいる人には伝わっていると思う。 しかしもし初めの一文がなかったとしたら、なんだそりゃと思うだろう。音楽はポップスだろうと思う人やクラシックだろうと思う人。 しかし初めの一文があるだけで「ああ、こいつにとっての音楽はロックだったな」と思ってもらえる。 ほんの一文、たった一言でこれだけ違う状況になる。 「口に出して言って」と言う前に相手をよく観察してみたらどうだろう。 「口に出さなくてもわかる」とか思わないで「口に出せば今よりさらにわかってもらえる」と考えればいいんだと思う。 ・・・前置きは長いくせに当たり前な結論になってしまった。 なんでこうなってしまったのかは、ホラ、言わなくてもわかるでしょ? 遅刻とは著しく信用を失う行為である。 ただ時間にルーズというだけでその人は自分にもルーズ、他人にもルーズ、仕事もいい加減だと思われてしまう。ほんの少しの寝坊という行為だけで信用を無くしてしまうことは馬鹿らしいこと以外のなにものでもない。誰もがそうなりたくはないはずだ。 これを逆に考えると時間に正確な人は少しくらい能力が劣っていても評価が高くなるかもしれない。少なくとも時間にいい加減な人よりも信用は得やすい。 遅刻はダメだ。たとえ一分の遅刻でも一時間の遅刻でもそれは遅刻なのだ。 自分はなぜこれほどまでに時間に厳しくなったのか。それは去年の話。ある学園祭に落語家の三遊亭楽太郎が来たときだ。 午後二時開演だったのだが自分は二時五分にその場に到着した。開催場の扉の前にいるスタッフが冷たく自分に言い放つ。 「すみません。途中入場はお断りさせていただいております」 もう遅刻はしないと誓った。 楽太郎でここまで思ったのだ。小遊三だったら泣き崩れて後悔しただろう。 午後の紅茶。 アフタヌーンティーから名前を取っているんだろうが、日本にそんな習慣はない。結局午前だろうが深夜だろうが午後の紅茶を飲んでいる始末。 これではいけない。ちゃんとティータイムを持って飲まなければだめだ。 ティータイムまとめてドン! 勢いで言ってみた。 日本人は良く働くというイメージ。これはこの「ティータイム」がないからというところから来ている感がある、と今思った。日本の実働時間は世界的に見ればそんなに突出して多いわけではない。 「日本人は良く働く」ではなく「日本人はいつ休んでいるのかわからない」のだ。 日本もティータイムを大切にしよう。そうすれば海外からの評価も「日本人は良く働く」から「日本人は遊んでばかりでいいかげん」となるだろう。 「今の評価のままでいいんじゃないか?」と思った人は向上心が足りない。いや向下心か? 金髪や茶髪が当たり前になった。 髪を染めることが良いとか悪いとかは今は考えないとしても、似合っていない人も結構いる。どう見てもかっこ悪い。茶髪イコールかっこいいとはならないのだ。 自分は染めていない。黒髪のままだ。まぁ自分の場合はめんどくさいというのが一番の理由なのだが、人生で一回くらい染めてみようかな、と思う心もある。ちなみに坂本龍一バリに白に憧れるが、絶対に似合わない自信がある。 しかし茶髪が似合う人、そして黒髪が似合わない人というのもある。 自分の友達でずっと茶髪だった男がいた。 ある日黒く染めてきたのだが、ビックリするぐらい似合わない。いつも茶色で見慣れていたから変だと感じるのかな、と思ったのだが、一ヶ月間黒髪でも変だ変だと思い続けていた。彼に黒髪は似合わないのだ。 もう一人の友人はいつも赤髪だったのに、突然黒くして、彼も全然似合っていなかった。赤い時のほうが優しい印象を与える、そんな不思議な人だ。 と、こんな人は稀。自分の友人の中でも本当に髪を染めて似合う人なんてこの二人だけだと思っている。 最近街でとても長い髪を金に染めて歩く美人の女性がいた。 言い換えれば「パツキンのイケイケでナウいカノジョ」だ。言い換える必要性はない。 彼女も黒くした方が、長くきれいな黒髪で良いと思う。うん、とてもよい。 最後はただ自分の趣味を告白しているだけになってしまった。 オーロラツアーに参加しているのは日本人だけらしい。 99%近くが日本人らしく「なんでわざわざ寒いところに金を払っていかなくてはいけないのか」という意見が書いてあった。 日本人以外では、オーロラがきれいきたないじゃなく、寒いところにいって、見られるかどうかもわからないものに金を払いたくないようだ。 しかしやはり彼らは日本人ほどオーロラをキレイに感じていないのは間違いないだろう。 多数決の理屈でいけばオーロラは『たいして美しくないもの』である。 ここでの問題は、それが良いとか悪いではなく「美的感覚」の違いだ。 これを「オーロラ」ではなく「ミロのビーナス」に置き換えたらどうなるか。 世界中の誰もが最高クラスの美術品と認めるであろうミロのビーナス。 オーロラの感じ方が国によって違うなら、ミロのビーナスも少なからず感じ方が違うだろう。 しかし多数決ならビーナスは『美しいもの』となる。 結局「美しさ」というものですら多数決で決められているのが現実だと自分は思う。 ということはつまり「キレイ」などという感覚的なことも結局は数字の理論で求めることができる。もしかしたら方程式にすることすら可能かもしれない。 ピカソやミケランジェロ。 彼らの技術が超一流であることは認めるが、それだけでこれだけの名声を得られたとは思えない。技術だけなら匹敵する人も多くいるだろう。 もしかしたら彼らはただ「美しさの方程式」に偶然当てはまっただけなのかもしれない。 つまり昔流行った「アムラー」というのはこの美しさ方程式に当てはまったということだ。 あの「Gパンを思い切りずり下げるやつ」だって当時は当てはまっていたんだ。 そんなオーロラからアムラーまで網羅する自分の中での仮説「美しさの方程式」 「アムラーってなに?」という世代はひたすら置いてけぼりなテキストになった。 マリオブラザーズはおかしいだろう。 テニスのウィリアム姉妹しかり、三味線の吉田兄弟しかり、必ず「兄弟や姉妹」の前にはファミリーネームが来る。吉田兄弟を決して良一郎兄弟とは言わない。 しかし現実はマリオ兄弟。弟のルイージの肩身は日々狭くなるばかり。 いや、そう決め付けるのは早急すぎたかもしれない。ちゃんとマリオ兄弟もファミリーネームを前につけている可能性もある。 そう。彼らは「マリオ」がファミリーネームであるのかもしれない。兄の名はわからない。しかしこれを当てはめれば弟はルイージ・マリオとなる。うん、結構しっくりきている気がする。 兄はズッケェロ・マリオとかかもしれない。わかる人しかわからないボケだ。ごめんなさい。 もう一つの可能性。それは男のケンカが終了したときに生じるあれだ。 不良A「お前、強いな」 不良B『お前こそ、強いじゃねぇか』 不良A「今日から俺たちはブラザーだぜ」 不良B『ああ、そうだなブラザー』 そんないきさつのマリオブラザーズ。不良AがマリオでBがルイージだ。 もはや血縁関係ですらなくなってしまったマリオ兄弟。それでも顔はそっくりだ。 世界中には自分にそっくりな人が三人はいるという。ということはまだマリオ兄弟は増える可能性があるのだ。次は黄色あたりだと思う。 我こそはと思う人はマリオにケンカを挑めばブラザーズに入れるかもしれない。リーダーのユニフォーム赤になるかどうかは三人で話し合って決めてもらえばいいと思う。 ワイルド・ストロベリーという名前がすごいと思う。 なんせワイルド。一般的なイチゴの姿はキュートだと思うがこれはワイルド。 黒くてごつごつして大きくて硬くて苦くて、というそんなイメージ。「俺を食べられるものなら食べてみるかい」とか言われてしまうかもしれない。 リンク先の写真にはないが、実際は赤くて小さくてかわいくて、とてもワイルドには見えない。 自分が小さいことに対するコンプレックスからこんな名前なのかもしれない。 和名を調べてみた。 ワイルドストロベリー「和名、エゾヘビイチゴ」 どんな怖そうな名前を持ってこようと現実の姿はかわいいまま。なにか艶かしい響きもあるがどんなに無理をしてみても現実の君はかわいいまま。 サハラというのは「砂漠」という意味の言葉らしい。 サハラ砂漠に行った調査員かなんかの人が、そこの名前を知らずに現地のガイドに 「ここはどこ?」 と聞いたところ、現地の人が 『サハラ(砂漠)』 と答え、調査員が 「へぇ、ここはサハラという地名の砂漠なのか」 と思って、サハラ砂漠になったらしい。 つまり砂漠砂漠。言い換えればサハラサハラ。 もう一つ似たものに、メンマというのは元々「具」という意味で、ラーメンの上に乗っているもの全部を指している。 つまりメンマラーメンは、具ラーメンであり、結局何ラーメンなのかはわからないということになる。 またもう一つ似た事例で漫画家の「シュガー佐藤」がある。 シュガーで、佐藤って・・・。砂糖って・・・。 そりゃないんじゃないの?と初めてこの名前を聞いたとき、子供心に思ったことを今でも鮮明に覚えている。 つまりサハラ砂漠とかは結局、シュガー佐藤のことが言いたかったための布石だ。 この理屈なら「マウンテンリバー山河」とかはどうだろうか。あるいは「プレイス所」とか。 またしても「ナンセンス日本代表」を証明した形になってしまったが、自分としては満足している。 全身緑色の人がいた。 長袖のシャツが緑。ズボンは黄緑。帽子も緑。バッグは黒。 他人の趣味に口を出すつもりはなかいが出してしまっている。しかしあまりに目立っていた。彼は満足気なのでまたそれが印象に残っている。 もしかしたら環境問題についてのなにか訴えをしていたんだろうか。 緑と黒。自然が闇に覆われていくとかどうとか。 温暖化。オゾン層の破壊。砂漠化。さまざまな自然問題がある。彼の服装から特に砂漠の緑化あたりが最重要だと考えているのかもしれない。 まぁ、歩きタバコで、しまいにポイ捨てまでしていたところを見ると、砂漠の緑化以外にはあまり興味がないらしい。 というか自分が勝手に考えているだけで、彼はただ緑色の格好をしていただけだ。 後姿を見て、話しかけてみたら、全然知らない他人。 そんなことはまれにだがある。確実にある。こんなとき貴方はどうするだろうか。 こんなアクシデントに遭遇した時の完璧な対策を記そうと思う。 後ろから話しかける自分。相手の肩を叩く。 自分「ねぇねぇ、あれ!(人違いに気付く)」 相手『?』 自分「・・・今、国民の食生活というアンケートを取っているんですけど・・・」 相手『急いでますので』 どうだろうか。完璧ではないだろうか。 え?アンケートを取っているくせに、手にアンケート用紙を持っていないから不自然? そんな細かいことは気付かないとは思うが、もう一パターン考えてみよう。 自分「ねぇねぇ、あれ!(人違いに気付く)」 相手『?』 自分「・・・あの○○○さん(適当な芸能人)ですか?握手してもらえませんか?」 相手『違います!』 どうだろうか。完璧ではないだろうか。 え?無理がある? まぁ、相手がよっぽどその芸能人に似ていたらこれで安全だと思うが、やはりそんな可能性は少ない。 次こそ万能の答えを紹介しよう。 自分「ねぇねぇ、あれ!(人違いに気付く)」 相手『?』 自分「あ、人違いです。すみません」 相手『あ、ハイ』 どうだろうか。完璧ではないだろうか。 え?オチが読めた? たまにはこんなベタなものもいいんじゃないかと思う。温故知新。 二重敬語というものがあるだろう。敬語にまた敬語をつけ、ものすごくへりくだった表現をするあれだ。 たとえば「おっしゃる、ご覧になる」はこれだけで敬語としては完璧なのだが、さらに「おっしゃられる、ご覧になられる」など、「れる、られる」などを付け、さらに丁寧な意味にしている。 この理屈で「記念碑の記念碑」を作るのはどうだろう。 たとえば何か歴史的事件があり、その場所に記念碑を作る。 ものすごく時間とお金を掛け、豪華な記念碑を作る。もう10年くらい掛けたらいいだろう。それくらい歴史的大事件がそこで起きたのだ。 そしてそびえ立つすごい記念碑。 今度はこの記念碑が完成するまでのいきさつを描いた「記念碑の記念碑」を作るのだ。 どんな人間ドラマがあり、苦労、そして歴史的大事件の解釈法による確執とかそんなのが書き記された「記念碑の記念碑」 どうだろうか。いい感じではないだろうか。 そもそもこれを思いついたキッカケが 「プロジェクトXもネタがないみたいだし、そろそろ『プロジェクトXのできるまで』というテーマでやるんじゃないか?」 という友人の一言。 知っている人はいるだろうが、二重敬語というのは「尊敬度合いの低減」という場合がある。丁寧にしすぎて「お前、それ言いすぎ」と思われたりするのだ。つまりやりすぎ。 「記念碑の記念碑」はまさにそれ。 ネックレスはネックで首、レースで紐だった。 無知丸出しの昨日のテキスト。なにが首無しか。いや、本気で書いていました。 辞書で調べたらネックレスは「neckless」ではなく「necklace」。 自分がどれだけ英語に疎いかわかっていただけたと思う。 しかしネックレスの綴りを正確に書ける人はそう多くないだろう、と思いたい。いや多いはずだ。 もう日本語になっている英語、日本生まれの和製英語は多くあるが、本当に皆意味をちゃんと理解しているんだろうか。 バシッと問題を出してみる。次の英単語の日本語の意味を考えてみてほしい。 「ファッション」 「ブランド」 「タレント」 わかるだろうか? 「ファッション」は「fashion」で流行。 「ブランド」は「brand」で焼印、商標。 「タレント」は「talent」で才能。 3問ともできた人。笑ってください。僕の「ネックレス=首無し」をおおいに笑ってください。 2問できた人も笑ってください。少し控えめに笑ってください。 1問しかできなかった人。日本語では意味を取り違えるような使い方をしているので仕方がないと思います。 1問も正解しなかった人。「ネックレス=首無し」と同レベルの可能性アリです。もう笑えませんよ。貴方は僕を笑えませんよ。 聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥、と言う言葉もある。自分も正解できなかった人もこれで一つ賢くなったわけだ。 しかし昨日の恥をテキストに残しているので、自分は恥も一生。 ネックレスが好きだ。 と言っても普段ネックレスをするとか、ネックレスをした女の人に魅力を感じるとかそういうことではなく、単純にネックレスという名前が好きだ。 ネックレス。日本語にすれば首無し。 首に掛ける輪のようなものである、ネックレス。その由来は知らないが、もしかしたら昔の絞首刑かなにかで使っていた輪をネックレスと呼んでいたのかもしれない。 いや、斬首のための輪とかがあったのかもしれない。輪の内部が刃になっていて、引っ張ると首がスポーンとなるような輪っかが。 もちろん全て勝手な想像だ。しかしあながち否定はできない。 真相は意外とダークなものなのだろうか。 普段ネックレスをするような人は、明日から身につける前に 「首無し・・・」 とか思ってからつけると、また違った魅力がふりまけるかもしれない。 行ったことのない友達の家や恋人の家を訪問するのは緊張する。 どうしてそうなのか考えてみると、まったく当たり前な結論が出る。 「知らない場所に行くのはだれでも身構える」と思う。 もちろん恋人同士となると友達同士にはない問題もあるが、それは今考えない。 ではなぜ人は知らないことをやろうとすると、緊張するのか。 ここで、この緊張にも二種類あると思う。 「不安からの緊張」か「新しい経験ができるという喜びからの緊張感」だ。 自分はどちらかと言うと前者側だが、好奇心旺盛で行動力のある人は後者であったりもすると思う。 「なぜ緊張するのか」という疑問の答えは「その経験によって自分が変わるかもしれない可能性」に対して抱いているのではないか、と自分では思ったりするのだ。 そしてその「緊張する回数」を減らしていくことこそ、経験を積むということなんだろう。 小学生の頃、まだ家に行ったことのない友人から、誘われて行ったことがある。 団地を歩くとオレンジ色の一軒家が見えてきた。友人がそれを指差し、口を開く。 「あのオレンジが俺んち」 まさか三日も続かないだろうと思われたこの結末。いやっほぅ。 京都の金閣や銀閣。札幌なら時計台。これらは観光地だ。 観光を主な収入としてやっている地方自治体は多いと思う。先に挙げた例はほんの一例であり、日本三代庭園や、城など様々ある。 それらは人を多く集めることを目的としているが、それゆえの問題も多いと思う。そのなかでどこでも起こりうるものは「ゴミ問題」だろう。 モラルのない観光客。彼らが食事をしたゴミや、買った飲み物などの空き容器。それらを指定されたゴミ箱ではなく、地面に置いたり、ポンと投げたりしてしまう。 大半の人は「そんなことしていない」と言うだろうが、ごく一部の人たちがやっているのは事実だし、あれだけ多くの人が集まれば、そのごく一部もとても多い人数になってしまう。 ゴミが散乱していてはせっかくの観光もおもしろくなくなる。 地面に落ちたタバコ、紙パック、空き缶。空き缶もジュースやコーヒーなど様々だ。 観光地にある缶コーヒー。 自分の言いたいことはわかっていただけたと思う。わからない人はもう一度声に出して読んでもらいたい。「観光地にある缶コーヒー」 二日連続こんな最後。わーい。 盆栽というのがあるだろう。 小さな鉢や大きな鉢に植えた木を、自分の思うとおりに、また見た目が良くキレイに木を育てていくという、年配の人が多くやっているイメージのあるあの趣味だ。 これはとても時間の掛かることで、そして難しいと思う。 相手は植物だ。たとえ自分のイメージする枝のカーブがあったとしても、それに近付けようと無理に枝を曲げたりすれば、その木はダメになってしまうだろう。 少しずつ、少しずつ、自分の理想に近付けていくのだ。 専門知識も多く必要になる。本などから得られる知識。それとは別に経験によるカン。さまざまなことが要因として「盆栽」という行為は成り立っている。 これは普通の人にはとても難しいことだと思う。 「盆栽は凡才には難しい」 もちろんこれが言いたいがためのテキストだ。やったー。 サンダルを一年中履いている。 もちろん履く比率は夏が一番高いが、冬でもたまに履きたくなって履いてしまう。 毎年のことなので冬でも足が冷たいとかあまり感じなくなってしまった。 感覚が麻痺しているのか、足の皮が厚くなってしまっているのか。 普段は思わないが、冬にサンダルを履いた次の日に靴を履くと「暑い」とか思ってしまうまでになった。 それでも秋の今はとても快適サンダルライフを送ることができる。 なぜか冬以外では靴でも暑いと感じないので、靴でもサンダルでも思いのままだ。 ここで「私も冬でもサンダルライフをやろうかなぁ」という酔狂な人もいるかもしれないので、一つベテランからアドバイスをしたいと思う。 確実に 「なんで冬なのにサンダルなの?」 と聞かれるので、うっとおしいと思わないこと。 それと雪の降る地域出身でも自分はこれをやっていたので軽く冷たい目をされます。 人間の目は冬の素足より冷たいです。 鉄腕アトム。 当たり前だと思う。鉄腕。だってロボットだろう。腕どころか足も首も全部鉄だろう。 なぜここで腕が鉄であることだけを強調するのかわからない。 鉄全身アトム。 かっこ悪い。 いや待て。全身鉄だと決め付けるのは早とちりかもしれない。漫画やアニメを見る限り彼の指は自在に、鉄のつなぎ目の関節などなくなめらかに曲がっている。鉄じゃあない。 表情も自然だ。顔も鉄じゃあない。 指はアルミニウムとかかもしれない。顔は強化プラスチックとか。 足から火が出るところを見ると足は耐熱性、耐変性に優れた金属だろうと推測される。銀とか金かもしれない。 鉄腕指アルミ顔プラ足金アトム。 要注目ですね! リスキーシフトとコーシャスシフトというものがある。 集団で討論したほうが、一人で悩むより良い結果が出ると思われがちだが実は違う。 「集団で討論をすると、利得の多い、成功可能性の低い結論がでやすい」 これがリスキーシフトだ。 一人で考えると成功、ということを第一に考えるが、集団になると自分たちの力を正確に把握できなくなり、過信し、リスクの多い結論が導き出されやすいというものだ。自分の意見に賛同してくれる人がいると、人間はそれしか考えられなくなるらしい。反対意見に耳をかさなくなる。 「集団で討論をすると、利得や成功率の無難な結論がでやすい」 これがコーシャスシフトだ。 さっきのリスキーシフトと考えると矛盾して見えるかもしれないが、こちらには前提がある。討論する一人一人の力が強く優れている場合だ。 こちらも他人同士なので、相手の力がわからない。お互いがお互い優れているのに正確には把握できずこちらは力を少なく見てしまう。結果一人ならもう少し利得が高く成功率も低いことでも大丈夫なのに、まぁこれでいいか、と無難な結論になる。 結局多人数の討論は極論が導かれやすいということだ。 これらは、とくにリスキーシフトは現実に顔を突き合わせ討論したときよりも、インターネットのような匿名での討論で起きやすい。 このブログにもコメント機能があり、熱い討論だって可能であるし、出た結論は極論であるかもしれない。その結論が最善ではないかもしれない。 しかしここ「ポップコーンスパ」は熱い討論とはほど遠い存在だ。極論が出てリスキーな行為をしてしまったりすることもない。 いやぁ、いつもくだらなくて討論にならないようなことを書いていて、安心安心。 なにか間違えている気もするが気づかないフリ。 水の妖精。 摂氏零度の水の中にいる妖精は氷の妖精でフィギュア選手であり、これが常温になり氷が溶け出せばそれがシンクロナイズドスイミング選手を表す言葉になる。とても興味深い。 ぜんぜん深くないですか? はい、シンクロナイズドスイミング。 日本はオリンピックや世界大会でいつもロシアと一位二位を争っているほどの強国だ。 でも言わせてもらうと、どっちが優れているのかが競技を見てもわからない。 どっちもすごいのはわかる。でもどっちの方がすごいのかはわからない。 ロシアと日本だけじゃなくて、他の国と比べてもわからない。 いっそ競技者を30人くらいにしたらどうだろう。一斉に水に飛び込む30人。足を交互に動かす30人。水から同時に飛び出す29人。一人タイミングを間違えてしまった。 これならどっちが優れているのかがわかる。30人もいれば少しくらいミスもあるだろう。評価がグッとわかりやすくなること間違いない。 しかし大きな問題がある。 大きくミスをしてくれればわかりやすいが、30人もいると些細なミスに気付きにくい。 結果採点が大味になり、結局優劣が不明になる。 なにも解決しなかったテキスト。たまにはそんなのもいいんじゃないかと思う。 と言うかいつもなにも解決なんてしていない。 氷上の妖精。 華やかな競技であるフィギュアスケート。その選手の主に女性を指してこんな言葉がある。 すごいキレイで、かわいくて、なんかそんなイメージを与える「妖精」という言葉。高いジャンプを妖精の羽、なんかでも表しているのかもしれない。 でも妖精なんて見たことない。 もしかしたら妖精はものすごくでかくて、筋肉モリモリで、腕が8本とかあるかもしれない。首も3つあり、肉食でブタを丸ごとペロリと食べているような生物かもしれない。 それでもフィギュア選手は氷上の妖精。自分なら勘弁してもらう。 と、そんなことはないだろう。架空の生物だ。きっと今のイメージどおりの生物だろう。 友人「フィギュア選手が妖精かぁ。妖精も金メダルほしさに同じ妖精仲間を殴打とかするんだね」 自分『・・・・・・』 ええと、妖精筋肉モリモリ説が有力になりましたね。 |