靴下屋という名の店があった。 そこに一切の遊び心はない。ただストイックに靴下を売り続ける。 野菜を売るのは八百屋であり野菜屋ではない。 魚屋はそのままであるが、実際は貝も売っている。 しかし靴下屋は靴下オンリー。 「硬派なヤツ以外近づくんじゃねぇ!」 と、いかつい店長に言われてしまうような響きがある名の靴下屋だが、実際の店のカラーは白やピンクを前面に押し出したオシャレ空間。 硬派なヤツほど入りづらいというこの現実。 万歩計にゲームが付いたやつが一時あっただろう。 歩数によって育つたまごっちみたいなそれ。たとえば1000歩で卵からかえって、5000歩ごとにちょっとずつ大きくなったりするアレだ。 そんな万歩計ゲームを一心不乱に振り続ける中学生がいた。 バスで自分の横に座る、万歩計ゲームを振り続ける中学生。 「え?万歩計ゲームって普通振るでしょ」とでも言わんばかりの平然とした顔で振り続ける。目線はひたすら窓の外。もはや万歩計ゲームに興味はない。 彼の万歩計ゲームは、彼の手の中で振られているのが自然な姿なのだ。万歩計自信ももう自分が「歩数を数える」という存在であることを忘れてしまっているかのような、その情景。 その中学生は偶然自分と同じところで降りようとしている。 そうだ。今はバスの中だから手で振っているのだ。降りたら歩くので、その時はちゃんとベルトあたりにつけるのだろう。 バスでお金を払い降りる中学生。そして自分。 彼がベルト辺りをいじる様子はない。 カチャカチャと万歩計を振り続けて歩いていく中学生の背中を、物悲しさを感じながら見つめ続けていた。 おばちゃんパーマは進化した形なのかもしれない。 おばちゃんパーマとはドリフで爆発するとなるあの髪形みたいなヤツだ。よけいわかり辛いたとえだった。 わかりやすく言うとアフロみたいなヤツ。 アフロヘアーとおばちゃんパーマ。誰でもわかる類似性。 先に登場したのかはもちろんアフロなのだと思うが、現存する数でいけば間違いなくアフロよりもおばちゃんパーマの方が多い。 これはおばちゃんパーマがアフロから実用性、容易性を兼ね備えて進化した証拠と成り得るのではないか。 アフロは洗髪が大変そうだが、おばちゃんパーマ程度のモサモサ加減なら泡立ちがよくなり洗髪は容易だと思われる。 またアフロは美容院で言ってもすぐにやってもらえるのかどうかわからない。床屋ではきっとできないだろう。その点おばちゃんパーマはパーマをあてる装置があれば簡単にできそうなイメージがある。 つまりおばちゃんパーマはネオアフロヘアーと呼ばれるべき存在なのだ。 中高年層に絶大な支持をうけるネオアフロヘアー。 ペヨンジュンもこの髪型にしたら尚一層の人気がでるかもしれないし、でないかもしれない。 おばちゃんの自転車はなぜか足が届いていない。 自分が自転車に乗っているときに、目の前からおばちゃん自転車がくる。 自分が右に避けたらおばちゃんもそっちにきて、自分が左に避けなおしたらおばちゃんもついてきてしまい、ぶつかりそうになる刹那、おばちゃんが自転車を降りる。 こういう状況になると確実におばちゃんは自転車を降りる。自分の経験でも何度となくある。 もちろんぶつかりそうになっているので止まるのが正しい判断なのだが、いちいち降りなくちゃ止まれないサドルの高さは不便だろう。 自分は足が地面に着くのでワザワザ自転車から降りずに止まる。楽だ。 しかしなぜ皆足が着かないのかわからない。 一口におばちゃんと言ってみても年齢の幅は結構ある。ある世代だけがそういう乗り方なんだったらブームやそういったもので、足が着かないのが良いと思い込んでいるだけなのでいいのだが、全おばちゃんがそうしているイメージがある。 もしかしておばちゃん仲間の中でサドルの高さが適切だった場合に 「いやぁね、最近のおばちゃん成り立ての人は。見てよあれ。足着いてるのよ」 『まったく、今の人って皆そうよね』 とか陰口を言われてしまうのかもしれない。 公園デビューというものがある。子供を公園に初めて連れて行くというアレだ。 ただ自分が知らないだけで、暗黙の了解のうちに足不着自転車デビューというものがあるのかもしれない。 ショボーン(´・ω・`)というなんかへこんでいる絵文字があるが、まさにこの顔をして歩いている人がいた。 例えばバスに乗ろうとしてバス停目前で自分の乗りたいバスがブーッっと発車したときに、ショボーン。 くだらない内容なんだけど誰かに話を聞いてもらいたいときに「ねぇねぇちょっと聞いて」と言うと『ゴメン今ちょっと手が離せないから』と言われて、ショボーン。 そんなレベルのへこみ具合。 そしてまさにそのへこみを体で表現する、自分の目の前から歩いてきている人。 ちょっとまじまじとその人の顔を見てしまったが、そんな自分の視線には一切気付くそぶりのないショボーン加減。 電話越しに『ちょっと今手が離せないから』と言われ切られてしまったのかもしれない。 ショボーンとしている人を見て「うわぁ、ショボーン(´・ω・`)だぁ」と喜んでしまっている自分。 他人の不幸は蜜の味だ。そんな悪魔な一面を自分の中で発見してしまった。 バスや電車は緊張する。 普段はボケッとしがちな自分だが、バスや電車に乗ると自分でも驚くほどの緊張を感じてしまう。 「ああ、このバスで行き先はあっているんだろうか」 常にそう思い続ける。 高校の頃は電車通学で毎日同じ電車に乗っていたのだが、それでも思う。 なんでこんな風に行き先恐怖症になってしまったのか考えてみたのだが、わからない。 別に行き先を間違えて大きな失敗をしたこともない。 イヤ、それが理由なのだ。一度も失敗したことがないという挫折を知らないエリート特有のプレッシャー。 自分は今まで一度も行き先を間違えたことがない、間違えたことがないんだ、と無意識のうちに自分にプレッシャーを掛け続けている状態だ。 一回くらい思い切り間違えてみたら直るかもしれない。 しかし「ワザと間違える」のは実際は間違えているワケではないので、結局本気で間違えるまではこのプレッシャーを感じ続けなくてはいけないという事実。 死ぬ気になればなんでもできる、という言葉もあるので、自分は死ぬ気でバスや電車の行き先を間違えてみようと思う。 英語でノットをつけると否定になる。 それを使うと例えば 「I can play tennis(オレテニスできるよ)」は 『I can not play tennis(ワタシてにすデキマセーン)』となる。 ちなみにカタコトな日本語にはならない。 これを日本語の中に取り入れてみたらどうだろう。普段人に向かって言いづらいことをこれを駆使して言うのだ。 「私は貴方のことは苦手なんです」は『私は貴方のことノット好きなんです』となる。 しかしこれはおそらく意味がバレるだろう。いくら英語交じりだからってノットを知らない可能性は低い。 ここで注目すべきは短縮形だ。「do(ドゥ)」を『don't(ドント)』というように、ントをつければノットの意味になるのだ。これを使用すると先の例文はこうなる。 『私は貴方のことはスキントなんです』 相手はきっと、は?という顔をするが面と向かってキライと言ってやったのだ。貴方の気分はスカッとさわやかになるかもしれない。 もちろんご使用の際は自己責任でお願いいたします。 ちなみにこのブログは知的ントブログです。 クイズ。わた一キロと札束一キロはどちらが重いだろうか。 「ハハハ。どっちも一キロなんだから同じだろう」 と思う人がほとんどだと思うが、そんなことはない。札束の方が重い。 誰も重量が重いかどうかなんて聞いていない。社会的に立場が重いのは札束だ。 逆に正解がわたである可能性もある。こんな状況はありえないが、例えばものすごい金持ちが暖かい島で寝ていたときに、異常気象で寒波がきたとする。そうすると金持ちなので札束なんていらない。寒さを凌ぐわたの方が大切であり重要性が高くなる。 なんてひねくれたクイズはないが、ひねくれた視点というのは大切だと思う。別の言い方をすれば「物事を正面からではなく様々な角度から見る」とかいうアレだ。 なのでこのテキストも、ただ単に横書きで書かれているので横に読んでいく、という物事を正面から捕らえた見方を変えてみたらどうだろう。例えば各行の一番左にある文字を縦に読んでみるとか・・・・・・。 いや別に隠れた文章とかはありませんが。 物事を様々な角度から見るという大切さはわかるが、必ずしも意味があるとは限らない。 イチョウも頑張っていた。 昨日のテキストで、秋に葉っぱが色づきキレイになる様を漢字で紅葉(コウヨウ)だと書いたのだが、どうやらコウヨウで黄葉という漢字もあることがわかった。 勝手にモミジが主役であると決め付けてしまった昨日。 しかしイチョウだってその点負けてはいなかった。 紅葉と黄葉の直接対決。 お互いがお互い相手を監視し合い、どっちが秋の主役にならんとするかの真剣勝負。 モミジ 「フフ、オレの赤の方が鮮やかで、情熱的で、主役に決まっているだろう」 イチョウ『ハハハ、今のうちさそんな大口でいられるのは。君の赤なんて所詮僕の黄色の引き立て役なんだよ』 モミジ 「黄色がオレの引き立て役だろう」 イチョウ『ハハハ、これだから見る目のないヤツは困るね』 友人「イチョウはきっと銀杏が臭いからモミジに負けてるんだね」 自分もそうだと思った。モミジはキレイで臭くない。イチョウはキレイだけど臭い。 色がどうとかじゃなく、別のサイドから完全否定されるイチョウ。 勝った方のモミジも同情しているような、そんな微妙な顔。 微妙に季節外れだが、秋の風物詩と言えば紅葉(コウヨウ)だ。 わざわざコウヨウとフリガナをふる意味がある。 紅葉(コウヨウ)とは葉っぱが赤や黄色なんかに色づき、それを見てああキレイだなぁと感じるものなのだがこの紅葉(コウヨウ)という漢字は別の読み方ができる。 紅葉と書いて紅葉(モミジ) 手のような形をした葉っぱが赤く色づくモミジ。コウヨウの中でそれはかなりの花形であることは認めるが、イチョウの立場はどうなんだと思う。 イチョウだってうちわみたいな形をした葉っぱが黄色くなるだろう。モミジと双極を成すコウヨウのビッグスターであることは間違いない。 しかしコウヨウを漢字で書くと紅葉。主役がモミジであることを暗黙の了解としている。 落葉の時期になり、イチョウの葉っぱが地面に落ちてくる。 それは声にならない、もはや枯れてしまい水分のなくなってしまったイチョウの涙なのかもしれない。 冬が嫌いだ。 寒いのが苦手なのでどうしても冬は好きになれない。しかも雪国出身で雪が降ると遊べると思う反面、じゃまなんだよ的なことも感じていた。 そんな自分と冬との確執。 しかし冬が嫌いだと思うのは、自分があまりに夏が好きすぎるということも要因の一つだと思う。 暑いのは嫌いではないし、Tシャツとジーパンというラフな格好でも問題ないという楽さかげんが良い。 そして冬嫌い一番の理由は、ビールがあまりおいしくないということだ。 夏。くそ暑い夏。エアコンなんてつけないで、ビールを一気飲みする。 これに優る幸せなんてこの世にないんじゃないかと錯覚してしまうほどの幸福感。それがたった300円で訪れるのだ。発泡酒もあるから200円でも可能だ。 冬にはこれはない。せいぜい風呂上りに飲むのだ。たしかにそれもうまいが夏のビールには足元にも及ばない。 四季の移り変わりをビールで考える自分。 「春夏秋冬」は自分にとっては「旬夏終冬」。夏がビールの旬であり、旬が終われば冬が来る。そんな造語。 「ちょっとうまいこと言ったんじゃないの俺?」と悦に浸るも、内容は年中ビールを飲んでいるダメっぷりを露呈しているだけ。 すべり台の存在意義。 はしごのような階段を上り、目の前に広がる坂。そこをビューッと一気に滑り降りる。 そんなすべり台。 そこに一切の生産性はない。ただ単に滑り降りるために階段を上り、また滑り降りるためだけに階段を上る。 答えのない禅問答のごとき所業。生産し、そして消費し続ける資本主義への戒めの鏡としての存在とアンチテーゼ。自分で書いていて意味がわからない。 考えすぎた。 しかしすべり台というものはそれでも「公園」というものの中に存在する中ではまだ階段を上る行為に消費性があるだけマシな方だと思う。 シーソーとかブランコはひどい。 もちろん遊んでいておもしろいことは認める。しかしシーソーなんて何万回上下したところで自分のいた場所から移動しているわけでもないし、ブランコも前に行こうと見せかけて、後ろへ移動。そしてまた前。 ここから考えると結局「生産性や消費性のないもの」こそが「遊び」というものの本質なのかもしれない。 つまり「おもしろいテキスト」なんてものは「内容がない」くらいの方がちょうどいいと思う。 その点から考えればこのブログはかなりのレベルに達しているという自覚がある。 努力を継続するコツは「明日からがんばるのではなく今日だけがんばる」 そんなセリフが漫画「賭博破戒録カイジ」に出てくる。結構ためになるセリフだと思うが、このセリフを吐くのが『借金まみれでヤクザに身柄を拘束されているおっさん』なのであまり説得力はないけれど、ここはセリフだけに注目してみたい。 このセリフの肝は「明日はがんばらなくていい」ということだと思う。今日さえ乗り切れば明日はやらなくてもいい、という考え。 まぁもちろん実際は明日になったらまた「今日だけがんばる」と思わなくてはいけないので大変なのだが、それでも今だけがんばればいいんだと思えば確かにやる気は出るかもしれない。 ここでこのセリフをまた一つ先に進めてみようと思う。 つまり、明日より今日、今日より昨日だ。この理屈を先のセリフに当てはめると 『今日からがんばるのではなく昨日までがんばっていた』 となる。 すごい。これはすごい。昨日までがんばっていたのだ。だから今日はがんばらなくてもいい。だらけていいのだ。すごい。誰でもできる努力のコツを見つけてしまった。 そんな自分の中の新たな格言。 「なんだ。今日のブログは全然おもしろくないなぁ」と感じた貴方へ。 ポップスパ『それは昨日まではがんばってテキストを書いていたためであり、今日のは適当だからです』 交差点で漫画を読んでいる中学生らしき女の子がいた。 横断歩道が青に変わるのを待っているんだな、と思って見ていると案の定漫画を読むのを中断し、横断歩道を渡り始める。 しかし渡りきるとその女の子は立ち止まり、漫画を再び読みはじめた。 どこに向かって歩くでもない、ただ漫画を読んでいる。 自分はそこで目的地に向かって歩いて行ってしまったのでそれ以上女の子を見ることはなかったのだが、もしかしたらまた横断歩道が青になったら渡って、反対側で漫画を読んでいるかもしれない。 そこに存在するある種のカオス。そしてシュール。 彼女は横断歩道を渡るのが好きなのかもしれない。何度も何度もあの横断歩道が渡りたくて、それで暇つぶし用の漫画を持参し、信号が変わるのをひたすら待つ。 青になったら「やったわ」とか思いつつ横断歩道をこれでもかと横断し満喫しているのだ。 「はやくまた青にならないかしら」とか思いつつまた漫画に目を落とす。 それとも漫画本に「横断歩道を渡りながらお読みください」とか書いてあるんだろうか。 そんな本が存在するなら一度手にとってみてみたい。 ドラえもんというネーミングが採用されたことは奇跡だと思う。 ドラえもんの誕生日は西暦2112年9月3日。22世紀だ。 22世紀に、それもあれだけの超高性能ロボットに「えもん(右衛門)」なんてつけようとするネーミングセンスがまず理解できない。しかも採用までされている。 今、自分の生きる世界は21世紀になったばかりだ。それでも自分の周りに○○右衛門なんて名前の人はもはやいない。せいぜいルパン三世に出てくる五右衛門だけだ。 いや待て。流行はまわるのだと聞いたことがある。もしかしたら22世紀には右衛門は当たり前の名前なのかもしれない。 しかしあの世界のノビタの子孫の名前はセワシ。とてもじゃないがそこから右衛門的アプローチを感じ取ることはできない。 おそらくセワシのまわりにも○○エモンや○○ノスケとかなんていないだろう。 いや、あれだけの大発明だ。実は「ドラえもん」という名前は和名なのかもしれない。そうだ。そうに違いない。 22世紀英語圏での名前は「ブルーオールドフォックス」とかだろう。 直訳すると青い狸。 「あれ、耳の付いたドラえもんってたしか黄色ですよ」とかいうまじめなツッコミは受け付けておりません。いや、わかってます。ボケてるだけです。 今では使わないが一時、イタリアン料理をイタメシと読んでいたことがあるだろう。 ここから流用して、例えば自分が作った料理のようにまずくて見た目も結構ヒドイ料理は「痛いメシ」でイタメシと読んでみてはどうだろう。 以下に使用例を載せてみる。 友人「はい、ごはん作ってみたけど。おいしくはないよ」 自分『そんな謙遜して。いただきまーす』 友人「どう?どんな感じ?」 自分『これイタメシ(痛いメシ。マズイメシ)だね。うんイタメシイタメシ』 友人「あ、そう。フランス料理のつもりなんだけど・・・まぁいいか」 結構うまくいくんじゃないかとか思ってしまった。イタメシ=イタリアン料理だと思っている人には使えるかもしれない。 友人「はい、ごはん作ってみたけど。おいしくはないよ」 自分『そんな謙遜して。いただきまーす』 友人「どう?どんな感じ?」 自分『これイタメシだね。うんイタメシイタメシ』 友人「なに言ってんの。違うでしょ。どこがイタリアン料理よ!」 自分『え、いや。そういう意味のイタメシじゃなくて・・・アワワワ』 友人「じゃあどういう意味だよ。コンチクショー!」 おそらく後者の展開になってしまうので使わない方が無難であると思う。 結局痛いメシという意味がバレ、怒られ、痛めつけられて死。イタメシ。 ちくわとちくわぶは同じものだと思っていた。 名前は知っていた。ちくわぶ。食べたことはない。 なすをなすびと呼ぶ人がいるように、ただ名前だけの違いだと思い込んでいた。 調べてみて気付くちくわとちくわぶの違い。 ちくわ、竹輪「白身の魚肉を蒸した、あぶったもの」 ちくわぶ、竹輪麩「小麦粉、塩、水を合わせて練ったものを加熱、ちくわに似せたもの」 ちくわぶの定義。それはちくわに似せること。 自分がちくわぶであるためにはちくわに似せなくてはならない。それがちくわぶに生まれた運命なのだ。しかしちくわになりきることはできない。ちくわから遠ざかることもできない。 「オレはちくわぶなんだ」と叫んでみてもその姿はちくわのそれであり、声だけがむなしく響く。 「なんで、ちくわの真似をしなきゃあならないんだよ」そう嘆いてみても、それを放棄した瞬間に、彼はちくわぶではなくなる。彼は縛られ続ける。 『あれ、貴方は私の真似ばかりしているちくわぶ君じゃないですか』そんなことをちくわに言われているかもしれない。皮肉に耐え、そしてどんなに魚肉に憧れても、ちくわぶである自分にそれは許されない。小麦粉であることでしか、自分を表現することはできない。 そんな境遇のちくわぶ。 そして彼らはおでんでしかその力を使うことは許されていない。彼らは縛られ続けている。 そんな悲しいちくわぶの物語。 一回くらい食べてみようと思う。 大根というのがすごい。 その植物だって花を咲かせるし、もっと他に着目するべきことはなかったのだろうか。 花の香りが良いだとか、花粉が多いとか少ないとか、葉っぱがかわいいだとか形が変わっているだとか。 そんなことを全て考慮してみても、その植物の名前は大根。ただ根っこが大きいというだけ。 だいたいさつまいもとかだって根っこが芋になるのだろう。つまり根っこが大きい。大根である条件は十分満たしている。それでも名前はさつまいも。結構いい名前をもらっている。 大根「なんで俺だけ根が大きいことをこんなに強調されるんだよ」 そんな悔やみが届くことなく、彼らは今も大根であり続ける。 大根「俺、すっげぇ根っこが大きいんだぜ!」 そんなポジティブに考えるやつもいそうだ。 しかし「そうとでも考えなければやっていられないよ・・・」というネガティブな発想から、彼はこれだけポジティブンシンキンになってしまったのかもしれない。 おでんになったとたんに主役になれるだけ、彼はまだ良い方なのかも知れない。 彼を殺してしまった。 命は等しく尊い。 それはわかっているつもりだった。 自分の命が上で、彼の命は下だ、なんてランクは存在しない。 みな等しく尊い。 こんなことを考えてしまうのは人間のエゴかもしれない。 しかしそれでも命を奪うことが軽い好意であるはずがない。 しかし自分は一つの命を終わらせてしまった。 これから先にあった未来を奪ってしまった。 自分にこんな権利があるのかどうかはわからない。 この権利なんて考え方ですら、人間のエゴだ。 エゴを自分たちで生み出し、自分たちで都合がいいように解釈しているだけだ。 しかし事実はたった一つ。 自分が命を奪ってしまったということだけ。 自分が部屋にいたゴキブリを殺してしまったということだけだ。 掃除があまり好きではない。 結構まめに掃除をしていたのは、一人暮らしが始まった当初だけ。そのときはちょっと汚れると、ああ片付けないと、と思い片付けたりしていた。 いつしか一人暮らしも慣れて、ちょっとくらいなら気にならなくなった。今の自分の部屋くらいのがちょうど良いと思っている。 もちろん物理的に考えれば「昔の部屋の方がきれいで、今の部屋の方が汚い」のだが、自分の心理を見てみると、昔はああ、汚いなぁと思っていたのが、今ではちょうど良いと感じている。 つまり精神的には「昔の部屋は汚くて、今の部屋はきれい」ということになる。 これがきれい好きの人になれば「きれい好きの人は汚い部屋に住んでいる」というタイトルの状態になる。逆に汚くても気にならない人は「きれいな部屋」に住んでいるということだ。 あまりに神経質になると、少しのことに気を取られてしまい、結局全体を見られなくなってしまう。 常に全体を見渡すことができる人は、あまり小さなことにはこだわらないのだと思う。 今の自分の部屋は適度なきれいさだ。全体的に見たらそうなんだから細かいことにはこだわらなくてもいいのだ。 たとえゴキブリが一匹走っていたとしても、それは小さなことなんだ。どこへ行ったか見失ってしまったが、それでもそんなことにはこだわらない器の大きな男になりたい。 無理だ。 古傷を消すことは難しいが、新しい傷なら治ることだってあると思う。 「反省は必要だが後悔は必要ない」 そんなかっこよろしい言葉がある。意味はつまり「過去を振り返ることは必要だが縛られる必要はない」みたいなことだと思う。あんまりわかりやすくなってない。 他人を意図せず傷つけてしまうことはある。 そして大きな失敗。 それらがもう過去の話になってしまっているのならそれは古傷であり、それを消すことは難しいと思う。いや不可能なのかもしれない。 しかし、他人を意図せず傷つけてしまった瞬間、ならまだなんとかなるかもしれない。 相手に不用意な発言をしてしまったその時に、できるだけの弁解、誤解を解き、謝る。それでも相手を傷つけたままになってしまうかもしれないが、少しは傷が和らいでくれるかもしれない。 過去に縛られていては今は見えない。 今を必死に見ているのなら過去に縛られている暇はない。せいぜい振り返れるだけだ。 結局結論は「前向きに」という月並みな言葉になってしまう。 しかしこの言葉は人生を楽しむ上でなくてはならないものなのかもしれない。 そんなことを二十歳そこそこ人生駆け出しの自分が思ったりするのだ。 ・・・と書いたことを読み返してみると、なんだかとても説教臭いテキストだ。結論も平凡だし。実際は的外れかもしれないが「オレは人生全てお見通しだぜヘヘヘイ」みたいな印象も受ける。 ・・・書かなきゃ良かった(後悔) 自分は他人が好きだ。 ここで言う好きは「興味がある」と言い換えてもらって結構だ。だったら始めからそう書けよ、という厳しいツッコミにも自分はくじけません。 自分と親しい人。 自分とは合わない人。 あまり良く知らない人。 全然知らない人。 自分から見た他人というのは大まかにこの4つに分けられると思うが、そのどれに当てはまっても自分は好きだ。興味がある。 自分と親しい人に対してはもちろん興味はあるが、むしろ自分とは合わない人に興味がある。 自分と合わないということは「自分とは価値観が合わない」ということだと思う。だから話は合わないし、行動も合わない。考え方も違う。 しかしだからこそ自分の「価値観を広げられる」可能性がでてくる。 価値観が同じ人といるだけでは「価値観を深める」ことはできても「価値観を広める」ことはむずかしい。 自分の言っていること、わかりますかね?わかりづらいですかね? ここで「うん、わかるよ」という人もいるだろう。しかし「なにを言っているのお前?」という人ももちろん出てくる。ただ単純に自分の文章が悪いだけかもしれないが、その人と自分は「価値観が違う」可能性が高い人だ。 自分はあなたが好きです。いや興味がある。 と、そんなことを考えている自分だがもちろん価値観の合わない人と口論になったりもする。そのときは頭に血が上って「なんだコノヤロー」と思っているがしかし、後になって考えれば「ああ、もうちょっと冷静に話せばおもしろかったなぁ」と後悔する。 「自分の価値観を広げたい」 これはいつも心がけていることなのだが、どうしても話の合わない人とは話したくない。 そこで勇気を出して話しかけることで、自分の新しい道が見えてくるかもしれない。 もちろん新しい道が見えるとしても、話が合わない人と話していても楽しいことは一切ない。むしろ辛い。 スニーカーが自分を悩ませる。 自分も義務教育の英語をくぐり抜けた身だ。スニーカーが運動靴ということはわかるし、きっとスニークという単語にerがついて、スニーカーなんだろうということもわかる。 スニークってなんだ? ちょっとおもしろい発想をする人だろうか? はいそれはユニーク。 もう思いつかないのでボケるのはやめるが、辞書で調べてみると Sneak(スニーク)で卑怯なふるまいをする、こそこそ逃げる、とある。 おかしいだろう。 自分ではスニークの意味は運動だとか歩行だとかが出てくると思っていた。それらしいものはあるが、こそこそ逃げるだ。そうするとスニーカーはこそこそ逃げる人になる。 また今度はスニーカーで調べてみた。 そうするとスニーカーには、卑劣な人、運動靴、とある。 うん、さっき調べたからスニーカーで卑劣な人は納得できる。運動靴もちゃんと出てきた。 でもこの二つの意味を持つ単語、というのがすごい。 つまり「運動靴を盗んだ(卑劣な行為をした)卑劣な人がこそこそ逃げる」というのは 「スニーカースニークスニーカーイズスニーク」となる。 バイリンガルへの道は遠く険しい。 あなたは自転車をこいでいるだろうか? 「なんだ?イエスに決まっているだろう」と自転車に乗っている人は答えるかもしれない。 しかしちょっと待ってほしい。 あなたは自転車をこいでいるのではなく、自転車にこがされているのかもしれない。 自転車にまたがった瞬間に自転車の操り人形になるあなた。 自分の頭で目的地を決めたように思わされているだけなのかもしれない。 そして足を回させる自転車。 あなたは自転車をこがされている。 「ば・・・ばかな!俺はちゃんと自分の意思で自転車をこいでいるぞ」そう思うだろう。 自転車はあなたのあたまを侵食し、そう思わせているのだとしたら? 自転車に乗っている間の記憶が作られたものだとしたら? 自転車はあなたをただのエサと思っているのかもしれない。 貴方は自転車に利用されているだけなのだ。 どうだろうか。普段の何気ないところにも恐怖は潜んでいる。 自転車でホラーを書いてみようと思ったのがそもそもの間違いだったようだ。 思い切り堂々と信号無視をする二人組がいた。 歩行用信号が赤だ。もう結構な時間待っているのでそろそろ青になる頃だと思いながら自分は待っていた。そのときに飛び出す二人組の女性。どうやら外国人らしい。20代から30代に見える。 車が来ているのに走りもせず歩く二人組。クラクションを鳴らす車。そちらを見もせず歩く二人。そして渡りきった。 「赤信号みんなで渡れば恐くない」とか言いたいのだろうか。 いや、彼女たちがそんな言葉を知っているわけがない。 彼女たちはオーストラリア辺りから観光に来て「ハハ、ジャパンは土地がセマイネ」とか思っていたかもしれない。これは勝手な想像だが。 しかし理由はどうあれこれは許される行為ではない。明らかに車が来ていないならまだしもクラクションまで鳴らされる状況だ。 信号の意味がわからないのだろうか。 「レッドシグナルイズストップマーク」 とか英語で説明すれば信号の意味もわかってくれるだろうか。 いや、これでは日本人くらいにしか通用しそうにない。大体信号の意味はわかるだろう。止まれ。 あの二人組に注目させておいてもう一人の仲間が、信号待ちの人からスリでもしているグループなのかもしれない。おお、これなら納得できる理由だ。 納得はできてもよけい許されない行為になった。 それにしてもまさかあの二人組もこんなブログに書かれているとは夢にも思ってないんじゃないかと思う。ジャパンは世間がセマイネ。 純喫茶に入ったことがない。 そもそも純喫茶というものもあまりないが、一店だけ場所を知っている。しかし少し入りづらい。 名前から察するにそこは純粋に、喫茶店なのだ。 喫茶の意味を調べてみると「お茶を飲むこと。きっちゃ」とある。 つまりお茶以外のものを出している店はもはや不純喫茶であり偽喫茶なのだ。 ジュースやランチを出す喫茶店なんてもってのほか。純喫茶にはなりえない。 不純喫茶・・・。 音楽喫茶やジャズ喫茶などという言葉もあり大人の社交場という印象を与えるが、その遥か上をいく大人オーラをかもし出すワード。不純喫茶。 中で行われる不純行為は、ジュースを飲んでサンドイッチなんかを食べることだ。もしかしたらオシャレな音楽とかが流れてしまっているかもしれない。不純極まりない。 中学生なんかが放課後に不純喫茶の前に数人で固まり 「お前中覗いて来いよ」 「やだよお前行けよ」 「三人で行こうぜ。へへへ」 そんな光景が目に浮かぶ。 「親にばれたらどうするんだよ」 「・・・今日はやめておくか」 エロ本には興味はあるが純文学にはあまり興味がない中学生。 自分も不純喫茶のことばかり考えてしまい、純喫茶がどうてもよくなってしまっている。 シマウマは白地に黒なのか黒地に白なのかハッキリしてほしい。 三輪明宏が男だというのはハッキリしている。たぬきそばに狸が入っていないのもわかる。しかしシマウマがわからない。 毛を剃ってみてみたらいいじゃない、と思ったのだがどうやら下の皮膚まで白黒らしい。もう自分に打つ手はない。 ここは考え方を変えてみる。人間はこうやって進化してきたのだ。 白地に黒とか黒地に白とかではなく、もしかしたら灰色に見せたいのかもしれない。白と黒を絵の具で混ぜたら灰色だ。これを目指していたのだが、水性絵の具の白と油絵の具の黒を混ぜてしまったような状態になり、白黒のシマ模様。この二つは混ざらない。 シマウマは実はグレイウマに憧れていたのだ。 そんなマヌケな過程でも結果として保護模様となり自分の身を守ってくれているシマ模様。 世の中自分の思ったとおりにいくわけではないが、失敗したらしたでなんとかなるのかもしれない。 そんなことをシマウマから学ぶ大学生がここにいる。 大学生の学力低下が言われているが、その波は確実に押し寄せているらしい。 もうベタなオチは使わないことにする。 ありきたり、お約束などの言い方があるベタ。要は無難ということであり、ここポップコーンスパでもベタなオチは何度も使っている。 代表には「最後がダジャレ」というものだ。 ダジャレ三連発までやったことがあるがもうこのベタな手は使わないことを誓う。お約束は破り捨てる。 つまり「アンチベタ」だ。 前置きはこの辺にして本題に入ろう。 このアンチベタでいくという話を女友達にした。食後のデザートを食べながら話していたら面白い状況になったので記そうと思う。 自分「これからはさ、ブログはアンチベタでいくことにしたんだ」 友人『へぇ、いいんじゃない。所詮オヤジギャクなんだし』 自分「きっと見ている人も飽きてきたころだと思うし・・・」 友人『また新しいお約束を考えなよ・・・。ねぇそのアイス一口もらっていい?』 自分「いいよ、はい」 友人『あんっ、ちべたっ!』 もちろんこんな女友達は実在しない。 人は恐れを抱かなくなったら終わり。 そんなことを何かの雑誌で読んだ。 「ただ漠然と、自分には無理だな」と思う恐れではなく 「ここで油断したら、失敗するな」という恐れを抱け、ということだ。 たしか大リーグ一年目に首位打者を取ったときだと思うが、イチローが来年の目標を聞かれ 「レギュラーをとることです」 と言ったのは有名だ。 いつも冷静に自分を見つめ、決して手を抜いてはいけないところで、慎重に行動する。 それが人生において必要なことであり、これを心がけるのと心がけないのとでは大きく違う。 そんなことを読んだ雑誌から学んだ。 実は自分もいつも恐れを抱いている。 「結構冗談交じりにここのテキストを書いているけど、自分がいつもこんなことばかり考えている人間だと思われたらどうしよう」 そんな恐れ。この辺でバシッとかっこいいテキストでも書いてみようか・・・。 もう遅いような気がしてならない。 時にダイナミックに、時に繊細に、時に美しくその姿を変える噴水。 近くの公園から、世界規模ではラスベガスの噴水まで、ありとあらゆるところに噴水はある。 しかし要は水が噴き出しているだけだ。 まず台所か洗面所に向かってみよう。 おもむろにそこの蛇口をひねる。なるべく沢山水をだそう。 はい、それが噴水。 しかしこれでは寂しい。そこで登場するのはシャワーだ。 上向きにシャワーを持ち、水を出す。 結構雰囲気が出ているように思う。 ここでトイレを考えてみよう。今やウォシュレットがある家も多いと思う。そこに潜む驚愕の事実。 自分たちは噴水でお尻を洗っているのだ。 噴水と言えばロマンチックなことを想像しがちだが現実はこんなものなのだ。どんなに神秘的に感じても所詮は人工物でしかない。 ショーなんかで使う噴水に皆、惑わされているのだ。 「なにか噴水に恨みでもあるの?」という内容になってしまった。 知らないうちに存在する自分と噴水との確執。 噴水だけに、自分はただ怒りを「周囲に撒き散らしている」だけなのかもしれない。 全然うまくない。 噴水だけに、今自分が言ったことは「水に流して」もらいたい。 やればやるほど泥沼。 サファリパークに行ったことがない。 自然に限りなく近い状態で飼育している動物を、車の中から優雅に眺める動物園。それがサファリパーク。 実際は虫とか多そうであまり優雅ではないだろうが行ってみたい。 檻の中のライオンは見たことがある。しかし広い草原のようなところにいるライオンは見たことがない。 キリンも見てみたい。動物園でキリンにえさをやると首を下に向けるが、そんな不毛な使い方ではなく、ちゃんと高いところにえさがあって、それを食べるために長い首を最大限活用している、そんな状態のキリンが見てみたい。 そしてなによりもヒョウが見てみたいのだ。 トラとかチーターとどのへんが違うのかはわからないが、自然の中をさっそうと走るヒョウを見たなら、自分はこう感嘆の声を上げてしまうだろう。 「ひょー!」 ・・・・・・。 自分『ああ、くだらねぇこと書いてるなぁ俺』 ボタンを押すタイプの自動ドアはもうアイデンティティーを失ってしまっている。 どこかでこんな話を聞いた。 ある所にさそりが一匹いる。目の前には大きな川。どうしようかと迷っているところにイタチが一匹現れる。そこでさそりが言う。 「イタチさん。私を背中に乗せて目の前の川を泳いで渡ってくれませんか?」 もちろん毒を持つさそりだ。イタチは乗せたくない。 『やだよ。泳いでいる間に俺、君に刺されて死んじゃうじゃん』 「いえいえ。そんなことをしたら私もおぼれて死んでしまう。刺しませんよ」 『それもそうだね。うん、じゃあ乗っていいよ。泳いであげるから』 そしてさそりを乗せ川を泳ぎ始めるイタチ。 しかしさそりはイタチを刺してしまう。 『なんで・・・刺すのさ!君・・・死んじゃうよ』 「それは私がさそりだからです。目の前に無防備な獲物がいたら刺さずにはいられません。たとえ自分が死んでしまうとしても、これは私がさそりであるということの証なのです」 この話はアイデンティティーというものを的確に表している。 話を自動ドアに戻す。 自動というからには、人間はなにもせず扉は開かなくてはならない。 たとえ子供が「おもしろーい」と扉の前に何度も何度も足を出しているだけだとしても、自動ドアであるというアイデンティティーを保つためには、ドアは何度でも何度でも開閉を繰り返すべきなのだ。 自らの命を捨ててまでアイデンティティーを保ったさそり同様、自動ドアも目の前になにかが来た瞬間、たとえその身が壊れてもドアは開かなくてはならないのだ。 しかし押しボタンの自動ドアが今存在している。 そこにあるドアはたしかに勝手に開くが、人間側が「扉を開けたいです」という意思表示が必要になる。それがボタンを押すという行為。 ドアが自動的に開くのではなく、ドアを自動的に開かせている。つまり結局は人間の手動ということだ。 「そんなこと言っても、センサーは反応しづらいときだってあるし、何度も開閉したら電気代もかかるし大変なんだよ」 そんな言い訳もあるだろう。 しかし結局は言い訳なのだ。自動で開くべきなのだ。そうでなければアイデンティティーが・・・。 友人「自動ドアなんて人工物にアイデンティティーなんて元々ないだろ」 はい、その通りです。 こんなくだらないことを長々書いてしまいました。それはこれこそポップコーンスパであり、くだらないことを書かなくなったらそれはポップコーンスパではなくなってしまうからです。 自分『ああ、くだらねぇこと書いてるなぁ俺』 これが自分がポップスパであるということの証なのです。 現代社会を的確に表しているのはトイレットペーパーの芯だと思う。 トイレットペーパー。 その仕様用途はもちろんトイレで用を足したときに拭く、というものだがどんどん使っていくうちにその紙自体はなくなり、硬い芯だけが残る。 今の社会では自分も含め「自ら進んで汚い、誰もやりたがらない仕事」をする人がいない。「俺はやらないけど誰かがやってくれるだろう」そんな考えだ。それは紙のなくなったトイレットペーパー、つまりトイレットペーパーの芯の部分に相当するような気がする。 そしてトイレットペーパーの芯をイメージしてほしいのだが、その芯自体に芯はないのだ。表面は硬く、中は空洞になっている。 今の政府は頭が固く、そしてしっかりとした、ハッキリとした芯が存在しない。いつもうやむやに終わり責任の擦り付け合い。「アイツが悪い」「そいつが悪い」と責任を回していき、結局始めにもどってしまうループ。それはまさに「硬くて、芯のない、輪」でありトイレットペーパーの芯そのものだ。 今では環境を考えてか、芯の存在しないトイレットペーパーが売られたりもしている。しかしそれによっての支障はない。むしろゴミがでなくてうれしい。 トイレットペーパーの芯の様な政府や人間。 もしこの二つがなくなっても「ゴミがなくなってうれしい」としか思わないのだろうか。 何かトイレットペーパーの芯から学ぶことがあるのかもしれない。 ・・・オチが思いつかなかったから、ちょっとまじめなままテキストを終わらせたということは内緒だ。 オープンカフェは時代遅れ。 外で広々とお茶やジュースを飲み楽しく会話する。そんなオープンカフェのイメージ。 しかしもうそれは古いのかもしれない。 これからはオープンの逆、クローズドだ。名づけてクローズドカフェ。ただカフェを付けただけだが。 いつ行っても開いていない。クローズド。 営業予定日を見てみても、今日は開店しているはずなのに、クローズド。 休日も祝日もクローズド。 このクローズドカフェは実は自分の家の近くに一店ある。すこし離れればもう一店存在している。 まさにトレンド最前線。アンチオープンカフェ。 そして確実にこのクローズドカフェは増えていくだろう。 クローズドカフェ。 黙々とそれらを生み出し続けるカリスマプロデューサーの名は「フケイキ」 |