えのころ草という植物をご存知だろうか? イネ科であり、一本のえのころ草に葉が十枚程度生えるその植物。 別名「ねこじゃらし」 「ああ、それならわかるよ」という人は多いだろう。正直自分もえのころ草などという名前は知らなかった。どうやらそっちが本名でねこじゃらしは別名らしい。 しかも本名であるえのころ草の名前の由来は「いぬころ草」であり、穂の形が子犬の尻尾に似ているからというもの。 本名もハッキリしないのに、犬か猫かもハッキリしない。全てがぼやけ、いい加減だ。 結構物事をうやむやにしがちな自分にはまさに憧れ。 しかももともとバシッと意見を言う国民ではない日本人。他人にあわせ、角が立たないかなと感じながらの自己主張。 そんな日本人の国民性を的確に表すねこじゃらし。いや、えのころ草。 日本の国花は桜と菊らしいが、自分はねこじゃらしを応援する。 原産国がどうとか、花が咲かないとかそんなことは一切気にしない。 常に日本人をリードし続けるパイオニア的植物。その名はねこじゃらし。 いや、えのころ草。 著書で糸井重里さんが「面倒を楽しむくらいがいいんじゃないの?」みたいなことを言っていた。 そういえば自分は靴を履くときに靴紐を解かずに履く。ほんのちょっとの手間だがめんどくさい。縛ったまま無理矢理ガツガツと履いてしまう。 これからは紐をちゃんと解いて、むしろ紐を結ぶことを楽しもう。 大学でレポートが出る。 いつもは「ちっ、めんどくせぇ」と思いつつ、他人のを写したりしてしまう。これではダメだ。 これからはレポートを楽しもうと思う。 しかし「楽しもう」と思っても、楽しくないものをどう楽しんでいいのかはわからない。自分にひたすら「楽しい、楽しい、楽しい」と暗示を掛け続けるのだろうか。 そんな面倒の楽しみ方。 傍から見れば面倒くさいことを、一人でブツブツと「楽しい、楽しい、楽しい・・・」と言いつつ作業を続ける自分。 そこに漂う異様感。ある種の恐怖。 「楽しむ」ことに近づこうとしているはずが、反対方向にまっしぐら。どうやって後ろを振り向けばいいのかわからないまま、突っ走り続ける自分。 漫画「よつばと! (1)」がおもしろい。 主人公であるよつばがただ日常を送っていく話。 とーちゃんの友人がとても身長が高い人ですげぇとか、となりに住む人と一緒に花を買いに行くといったような内容だ。 悪から平和を取り戻すとか、誰かを倒すとか、恋愛要素とかはゼロ。 ただアグレッシブに日常であり続ける。そんなありそうでない空間。ほのぼの漫画が好きな人には本当にオススメです。 なぜいきなりこんな漫画紹介を書いたのかと言えば、もちろんアマゾンからの紹介料がほしいからだ。「遊ぶ金ほしさで・・・」というありがちな動機。 しかしここで少し考える。 このポップコーンスパを訪れる人が「アマゾンでなにかを買おうかな」と思っているのかどうか。そもそも買おうと思っている人はここにはこないでまずアマゾンへ行っている。 しかもそこに自分の拙い、内容の伝わってこない紹介文がプラスされて余計に買う気がなくなる。 さらに追い討ちで「うわぁ、ここの管理人。金ほしさにアマゾンへリンク貼ってるよ・・・。なんか幻滅したなぁ・・・」となる。 そしてアクセスが減る。ただでさえ少ないのに減る。 もちろん誰もアマゾンで買い物はしてくれないのでお金は入らない。そしてアクセスも激減。管理人である自分の信用も失う。 こ・・・これぞまさに人気のデフレスパイラル! そんな全然上手くない比喩表現を押し付けて、更新を終わる。 今はもうなくなってしまったが、日本には錬金術は存在していた。 錬金術とは「物質を金に変える」という昔はまじめな学問として存在していたが、結局実現しないまま終わってしまったというものだ。 しかし日本には過去に錬金術は存在していた。しかも「物質を金に変える」のではなく、「なにもないところから金を生む」というものだ。 それは「土地」 1980年代後半に訪れたバブルの崩壊。 それまでの地価というものは上がる一方で下がることはなかった。 つまり「土地」を買って売る。その金でまた「土地」を買う。いや実際には現金はなくても、土地を担保に金を借りて土地を買い、またその土地を担保に土地を買う。すると実際は何も増えたり減ったりしていないのにお金だけが増えていく。 まさに錬金術。100%当たる馬券であり宝くじのようなものだ。 そんなことが漫画「銀と金(福本伸行作)」に書いてあった。 もちろん今の地価は下がる一方。上がったりもするだろうがそれを見抜ける先見の明は自分にはない。 まず元金もない。これではダメだ。 就職活動がイヤでこんなことを書き始めたが、結局まじめに働くしかない自分の選択肢。 誰か当たり馬券ください。もしくは内定ください。 ライブを見に行ったらスーツ姿の女性がいた。 パンクロックのライブなのでかなり目立つスーツ姿。前座ライブの間、ずっと一人でタバコを吸っていたところを見ると、彼女一人でライブを見に来ているらしい。 ここで彼女に感じてしまうロックの心。 「私は普段、会社に縛られているけれど、心は縛られないわ。私は自由なのよ」 そんなパンクな意志。 髪の毛を染めて、お決まりの格好をしているような、そんな型にはまったロックが蔓延している現代において、彼女から感じられるオーラはまさに偽りではないロック。 スーツ姿の上から現れる彼女のロック魂。 そんな彼女に感じてしまう憧れ。 スーツ姿というのはキリッとしていていい。髪も長く、ほんの少しウェーブがかり、髪をかき上げながらタバコを吸う姿が印象的だ。うーん、素敵だ。 ロックの魂がどうとかではなく、ただ自分の好みを暴露しているテキストになってしまった。 そんな女性の人、よろしくおねがいします。 ・・・いやいや、なにをよろしくなんだろうか。 夜、眠れない。 ベッドに潜り込むのが深夜0時で、うとうとしてくるのが3時4時があたりまえ。 ちょっと危機感が出てきたのでそれらしいサイトを見てみると、原因として考えられるものに、ストレス、生活習慣なとが挙げられている。 思い当たることだらけ。 自分は大学生というポジションにいるせいか、毎日適当な生活をしている。 外食したりする予定のない、一人だけの食事ときはカップラーメンのみ、という生活をしてみたり、カロリーメイトだけで生きてみたりしている。 そんなことをしてる上に酒を強くもないのに結構飲む。 たばこだってパッカパカだ。 いくら大学生といってももう、若くはないのかもしれない。 自分の体を大切にして生活習慣を改善し、夜の不眠症を治そう。 でもきっと夜の不眠の一番の原因は昼寝なんだと思う。 3時間4時間平気で寝る。 マスコミュニケーション(マスコミ)やマスプロダクション。 大量の情報を送り続けるという意味のマスコミ。大量生産を意味するマスプロダクション。「マス」という大量を意味する単語と、なにか他の単語をくっつけて新しい言葉を形成している。 つまりクリスマスとは「クリスがマス」 キリストの誕生日としてあるクリスマスだが、その日は恋人の愛を語らう日としての役割を果たしている。恋人同士が愛を育む。 つまりその結果、望む望まないに関わらず、クリスさんが大量に生まれてしまうのだ。これぞクリス・マス。 クリスという人を見るたびに「この人は本当に望まれて生まれてきたのかなぁ」とか考えてしまう自分がいる。 クリスマスというお祭りに潜む影。それはクリスさん。 世界に多数いると思われるクリスさんに、自分からの「余計なおせわ」をプレゼントいたしまして、今年のメリークリスマスとさせていただきます。 今年もまもなく終わります。ここポップコーンスパはまだしばらく続きますので、よろしくお願いします。 財布をよく忘れる。 財布を取り出そうとポケットに手をやると、財布がない。そして「まさか、落とした?」と心配になるが大抵家に帰ると、持って行くのを忘れているだけなので安心する。 そんなことがしょっちゅうあるのでもう、財布がポケットになくても驚かない。どうせ家にあるだろうとか思う。 しかしこの状態に慣れると本当に財布を落としたときに対応が遅くなる。最近までは「もし本当に落としたらどうしよう」とビビっていたわけだが、しかしまだ財布を落としたことはないので、まぁ大丈夫だろうとか開き直ってしまった。 財布から学ぶ「人生は意外となんとかなるんじゃないの」という考え。 しかし本当に財布を落としたとき、この甘い考えは崩れ去ってしまう。 ということで財布を落とすのが二重に怖くなったので、またビビる日々開始。 俺は何のためにいる。 たまにはそう、俺の存在が示されるときもある。 アイツが俺に向かって走ってきて、飛ぶことを忘れたのか、飛び方を知らないのか、俺に突っ込んでくることが、数十回に一度ある。 俺の存在意義なんてそれだけだ。このときだけは俺は生を実感し、アイツに一泡吹かせてやることができる。 しかし大抵はアイツに踏みつけられる人生だ。それも足蹴にされるとかそんなレベルじゃない。頭から、思い切り、これでもかと両足で、ポコッと踏まれる。 俺の存在意義をその「踏まれること」だと思っているヤツすらいるくらいさ。 ふざけるな!俺は他人のおもちゃじゃない!踏まれることが存在意義だなんて、そんなこと・・・認められるわけないだろう。たとえ・・・真実だとしても。 しかしクッパ様もクッパ様だ。なんで周りに味方もいないあんな最前線に俺一人をお送りになったのか。しかも近くには兵器「スーパーキノコ」が配備されているってことも承知のはずなのに・・・。まさか・・・俺は・・・ただの捨て駒なのか・・・。 くそっ!くそっ!俺にもっと力があれば!俺にもっと・・・力があれば・・・。 そんな1−1のクリボーの嘆き。 ファミコンソフト「スーパーマリオブラザーズ」は絶賛発売中です。 憧れの人を「雲の上の人」と言うが、意外とたいしたことない。 富士山に登ればもう雲の上だ。憧れて、憧れて、心から尊敬していた「雲の上の人」に並ぶことになる。富士山を頂上まで登るのは少し大変だろうが、憧れの人と肩を並べられると思えば簡単だろう。 雲の上じゃあ近すぎる。 だからこれからは憧れの人を「宇宙空間の人」とか、もっと具体的に「冥王星の人」とか言ってみたらどうだろう。冥王星なんてまだ当分行けない。憧れの人には手が届かない。 うん、感じ出ている。 だから友人なんかと憧れの人の話になったら、貴方はこう言うのだ。 「俺にとって矢沢永吉さんは冥王星の人なんだよなぁ」 アラ不思議。貴方と友人の間にも、手の届かない溝ができます。 「ポケモンたちに年賀状を送ろう!」という郵政公社の企画がある(すでに終了しています)。 子供たちのアイドルポケモン。 そんな彼らに年賀状を送って、より一層の親しみを感じてもらうと共に、郵政公社としてもメールなどによる年賀状離れを少しでも食い止めようとしているのであろうこの企画。 自分も出してみようかなと思ってしまう。いまいちポケモンは詳しくないがピカチュウはわかる。 ピカチュウさまへポップスパより 「あけましておめでとう。今年もまた電気を一杯放出してください」 こんなところだろう。 そういえば高校生になってからは一度も年賀状を出したことがない。かれこれ六年かそれくらいになる。 六年ぶりの年賀状がピカチュウ宛の21才大学生。 あまりにも衝撃的なその事実を受け止めきれずに、年賀状をじっと見つめてしまう自分。 鏡を覗き込めばまさに「ダメ人間ゲットだぜ!」 三日坊主でいいと思う。 「お前、一週間しか部活続かないのかよ!」 という感じの意味の三日坊主。非常に飽きっぽく、長続きしないことを、大抵は悪い意味で使うこの言葉。 自分がこのブログを始める際には「三日坊主になるかな・・・」と思いつつ始めたりもしたが、結局半年間毎日更新として今に至る。 「どうせ三日坊主になるからやらない」というのが一番悪いんだと思う。 そう考えるのではなく「どうせ三日坊主になるんだから、ちょっとの間だけやってみよう」と考えたら、気も楽だし、楽しめるくらいでちょうどいいんじゃないか、なんて思ったりするのだ。 そしてやってみて続けられると感じるなら続けて、おもしろくないならやめる。それでいいと思う。 ・・・あれ、ちょっといいこと言ったんじゃないの今?ねぇねぇ。 ああ、やっぱり普段の非生産的なくだらない文章よりも、少し考えさせるような、納得するような文章の方がいいなぁ。 これから毎日、もう笑いなんてやめて、まじめな考えさせるブログとして生まれ変わることにしようかな。 ・・・どうせ三日坊主だからやめよ。 車で移動中に外を見たらデカデカと「ムロノショウコ」と書いてある看板があった。 結論はただ単純に「室野硝子(ムロノガラス)」なのだが、一瞬本気で「誰だ?」と思ってしまった。 いや、もしかしたら本当に室野ショウコなのかもしれない。 デカデカと看板を立てる室野ショウコ。 銅像や記念碑なんかでは我慢できないくらい偉大なことをした室野ショウコ。 いつか選挙に出たとき覚えてもらっているように看板を作る室野ショウコ。 このブログで書いてしまったのでまた一段と知名度を上げる室野ショウコ。 ほんのちょっとした漢字の読み間違いでテキストが一日分できてしまった。 室野ショウコに感謝したい。もし選挙に出たなら一票入れよう。 タバコは一本につき5.5円が税金。 大体一箱20本入りで300円なので、一本15円。その内の5円なので三分の一が税金。つまり一箱100円税金。 自分は二日一箱ペースにしているので、月に15箱。毎月毎月1500円を自分が国や自治体に納めている。 毎月それだけ納め続ける自分。一日一箱ペースにしたら月3000円。 ばからしくなってきた。 しかしちょっと待ってほしい。 自分はよくビールも飲む。 調べるとビールは一リットルで222円の税金らしい。 一週間で一リットルくらい飲むなら、月に約1000円。週に二リットルなら2000円。 ・・・ばからしくなってきた。 いやいやちょっと待て。 自分は車には乗らないが、原付には乗る。つまりガソリン税。 しかもガソリン税にはその上にまた消費税を乗っけるという二重税金。 ・・・もう考えるのもばからしくなってきた。 バスバスバスバス。 文字だととわかりづらいかもしれないが、声に出すと何を言いたいのかわかる。 バスバスバスバス。 「バスガス爆発」 これはすごいことだ。もう早口言葉を正しく言うという行為をあきらめて全部バスと言っているのに理解できる意味。 これが東京特許許可局になるとだめだろう。 v トウキョウトウキョトキョトキョ。無理がありすぎる。 バスバスバスバスの容易性とインパクトには到底及ばない。 「早口言葉は正しく早く発音する」という固定観念。これは意味が正確に伝わるかどうかを重要視しているからこんな観念があるのだろう。 ここはもうインパクト重視に視点を変えて、勢い良く「バスバスバスバス!」と発音したらいいと思う。正しい発音なんてもうどうでもいい。勢いだけだ。 この勢いだけで、その爆発の規模や様子まで表現できてしまうかもしれない。 身振り手振りなんかを加えればもう完璧だ。 勢い余ってアナウンサー試験でも受けてみようか。 テレビで身振り手振りをしながら、何を言っているのかさっぱりわからないのに、勢いだけは伝わってくる男がアナウンサーをしていた場合、私ポップスパである可能性があります。 その際は応援よろしくお願いします。 クリスマスイブ前夜祭ができるんじゃないかと思う。 クリスマスイブがメインになっているという話は昨日のテキストで書いたが、もしかしたら「クリスマスイブイブ」ができて、三日連続クリスマスとかになってしまうかもしれないんじゃないか、とかフト思った。 もちろんイブイブの12月23日は「クリスマスアダム」という名前だろう。 12月23日「クリスマスアダム」 12月24日「クリスマスイブ」 12月25日「クリスマス」 結局影の薄いイエスさんの誕生日であるクリスマス。二日間の前夜祭はうれしいが、その二日間で盛り上がり疲れて、どんどん収束していく盛り上がりっぷり。 三日目のクリスマスはぐだぐだ。そんな光景が目に浮かぶ。 しかしもし、クリスマスデイズが三日間になった場合は、サンタクロースの仕事が増えて雇用拡大につながり、意外と喜ばれてしまうかもしれない。 ハイ、昨日と同じオチです。素直にごめんなさい。 クリスマスはおまけみたいになってきた。 前夜祭としての存在だったはずのクリスマスイブ。しかし最近はもうイブがメインでクリスマス自体はどうでもいい感が漂ってきた。 前夜祭が本祭に勝ってしまった。 まさに下克上。力のあるものが富を得る資本主義的現実。 もうそろそろクリスマスイブが「クリスマス」となり、クリスマスは「クリスマス後夜祭」となるかもしれない。 格好をつけるなら 12月24日「クリスマス」 12月25日「クリスマスアダム」 とかかもしれない。 もはやイエスさんの誕生日なんてどうでも良くなっている感バリバリ。 「盛り上がればいいんじゃないの?」的宴会発想。 意外とサンタクロースも仕事が増え、雇用拡大になったりするかもしれない。 雪国出身なのにスキーをしたことがない。 スノーボードは一度だけあるが、そんなにおもしろいとは思わなかった。正直もう二度とやらなくてもいい。そんなことを友人に話すと大抵返ってくる答えは 「えぇ、スキーの楽しさを知らないなんてもったいない。スノーボードも楽しいのに」 というもの。 たしかにその理屈はわかる。なんにしても「楽しめない」ということはもったいないことだ。 食べ物の好き嫌いにしてもそうだし、趣味にしてもそうだ。 そんなことを考えて、スキーをしたことがないのはもったいない気がしてきた。スノーボードは自分には合わなかったが、スキーはおもしろいかもしれない。 ・・・と、そう考え続けて今に至る。 「スキーはおもしろい、かもしれない」 正直な心を言うと、きっとスキーも自分はおもしろいと思わないだろう。 なにせスノーボードをやっている最中ですら「滑り降りたから、なに?」とか感じてしまうほどの感受性の無さ。しかも寒いのが苦手。 自分はウインタースポーツには向いていない。 そんな現実を感じつつも内心抱き続ける「スキーはおもしろいかもしれない」という期待。 正直スキーをする気はないが、憧れだけをずっと持ち続けたい。 夢を壊してしまうくらいなら、叶える努力すらも放棄する。そんな発想。 相手と向き合って付き合うことが必ず正しい、ということに対するこれは明確なアンチテーゼだ。 ちょっとくらい横向いてたっていいじゃんか。 うんこはだれでも踏みたくない。(注:食事中の方はお控えいただいたほうが無難な内容です) 例えばきれいなドレスを着る。それは足首までの長さであり、地面に接したり接しなかったりの微妙な長さ。 そんなときに地面にうんこが落ちていたらどうだろう。 もちろんドレスのスカートの下の方は汚れてしまう。これは誰でも嫌だ。 そんな理由で生まれたハイヒール。 歩き方がセクシーになるとか、魅力が増すとか、そういう用途ではなく、生まれた理由は「うんこ避け」。そこにはセクシーさの欠片もない。 当時のヨーロッパでは下水設備がいいかげんで、路上に平気でうんこが捨ててあったらしい。 そんな中開発されたハイヒール。 「わぁ、これでドレスがうんこまみれにならなくて済むわ」 とか当時のマダムあたりは喜んだことだろう。うんこが付かないのはうれしいに決まってる。 今度ハイヒールを履いた際にはぜひ、わざと犬のフンとかを踏んでみたらどうだろう。きっと貴方のスカートは汚れない。 すごい。ハイヒール万歳。 「夜空の向こうには何があると思う?」 宇宙には自分もとても魅力を感じるし、それに関する本を読んだりもする。 有名なビッグバン理論や超ひも理論。アインシュタインの宇宙項の導入と削除と復活。 宇宙ははじめの3分でできたとかいうことまで理論物理学者は言う。すげぇ。 「星空を見上げる」を読んで、正直久しぶりに嫉妬をしてしまった。 「夜空の向こうには何があると思う?」という問いかけに対して 「朝」 そう言い放つ。 正直自分にはできない回答だと思う。夢も希望もへったくれもなく大気圏とか言ってしまいそうだ。夜空の奥から朝が来るなんて・・・そんな発想無理。 しかも「朝」という回答にもあこがれるが、それ以前「夜空の向こうにはなにがあるか?」という問いすら、もはや自分には創出不可能な気がする。 地球の自転と公転。地軸の傾きや地球の楕円性などは勉強すれば誰でもわかる。それによって夜は訪れ、朝もまた訪れる。本にそう書いてある。 しかし「夜空の向こうには朝がある」と書いてある本は無い。 ああ、いいなぁ軟らかい発想。自分も小さい頃はそんな豊かな発想だったのかな。 その発想力だけ昔に戻らないかな。 まぁ大学生の自分が子供の発想になったらなったでニュースなんかに 「大学生の30%が天動説を信じる!」 とか言われてしまうかもしれない。 ダウンが好きだ。 いくら暖かいといっても、もうさすがにコートなどを着なくては地獄まっしぐらなので、ダウンジャケットを引っ張り出してきて着ている。 自分はダウンジャケットが好きだ。 もちろんあの暖かさには文句はない。「寒さから守ってくれてありがとうございます」とお礼の一つも言っておいた方がいいだろう。 しかしダウンジャケットの活躍はそれだけではない。 あのモコモコ加減に皆もっと注目しても良いのではないか。 モコモコの正体は羽毛なのかポリエステルなのかそんなことはどうでもいい。モコモコしている感触が単純に楽しい。 つい暇があると腕のところのモコモコを手でもみもみしてしまう。 もみもみ・・・モコモコ・・・もみもみ・・・モコモコ・・・。 自分は冬がキライだ。 しかしダウンのモコモコがあると思えばなんとか今年も冬を越せる気がする。 街角でアンケートを取っている人がおろおろしていた。 大抵の街角に立つアンケートの人は、ターゲットを決めるとスッと横に近づいて 「すみません、アンケートにご協力いただけませんか?」 とこうなる。 大体は断られるだろうが、アンケートの人はそれに落ち込むことなくまた次のターゲットを探し、スッと近づく。 しかし今日見た若い男のアンケートの人は、周りをきょろきょろしたかと思うと、少し歩いてまたきょろきょろしている。手にはアンケート用の用紙。 ターゲットを決めたか、と思っても少し人に近づくだけで話しかけはしない。 彼は断られるのが怖いのだろうか。それとも話しかける勇気がないのか。 その挙動不審とも取れる行動が気になり、数分間立ち止まって彼を見てしまっていたが、その間に彼が誰かにアンケートを頼むことはなかった。 普段アンケートを頼まれても全く答える気が起きないが、彼を少しの間見ていたら、何か「アンケートしてあげてもいいかな」とか思い始めてしまった。 ここで気付く彼の作戦。無理に行ってもどうせ相手にされないからと、おろおろとして同情を誘い、アンケートを答えさせるその策略。 アンケート手法の常識を覆す彼の行動。これを読んでいるアンケートを取る仕事の人は参考にしてみたらどうだろう。 そんなことを考えている間も、彼は手にアンケート用紙を持ち、おろおろしていただけ。 パブロディエゴホセフランシスコデパウラフアンネポムセーノマリアデロスレメディオスシブリアーノセンティシマトリニダードルイスイピカソ ピカソの本名は先に記したアレらしい。 一体ピカソの両親になにがあったのだろうか。 どうやら祖父、伯父、父、乳母などの名前を盛り込んだり、ヨーロッパの古い習慣を駆使したりといろいろなことが重なってこうなってしまったらしい。 近年、日本では「漢字で書いてあると読めない」ような名前が多くつけられるようになってきている。 それを問題視する意見や、かっこいいならいいんじゃないの、という意見など様々あるが、それらの議論を嘲笑するかのようなピカソの名前。 読めないどころか覚えられない。問題の大きさの次元が違う。 ピカソの本名が長いと聞いて思い出すのは「じゅげむじゅげむごこうの・・・」というあれだろう。 これを本当に子供に名づけるようなものだ。 しかし「じゅげむじゅげむごこうの・・・」は長いことは長いが皆聞いたことある名前なので、意外と市役所の人なんかも「ああ、ついに来たか・・・」とかいう顔をしつつ、案外あっさり認めてくれたりするかもしれない。 自分は中毒だからタバコを吸っているわけではない。 自分以外の人がなぜタバコを吸い続けているのかはわからないが、自分は「タバコを吸うのが楽しくて」吸っている。 断じてニコチン中毒ゆえの惰性で吸っているのではない。 なのでもちろん禁煙しようとは思わない。 しかしどうも周りから「ニコチン中毒だからタバコを吸っているんだろ。頑張って禁煙すればいいじゃん」的なオーラが感じられる。 違う。自分は楽しいから吸っているんだ。 でも具体的にどう楽しいのかと言われると説明に困る。 しかしそういうことだってあるだろう。本能的に楽しい。理屈無しで楽しい。そういう状況なのだ。 友人「何が楽しいのかわからないのに吸っているってのが、ニコチン中毒の証明じゃないの?」 無性にタバコの煙が目にしみる。 「果物野球」 カキーン! 男A「お、ホームランだぜ」 男B『あーあ、あれが最後のボールだったんだぜ』 男A「あそこに柿の木があるじゃん。あの柿で代用するか」 ピッチャーの男Bが柿を投げた 男Aが思い切りバットを振り回す。 ベチャ 「なぞなぞな」 前から読んでも後ろから読んでも同じものなーんだ? トマト? 新聞紙かもしれない。 夜にんじんにんじん煮るよ、だろ? 答え「女性週刊誌」 理由「どこを読んでもゴシップ記事しかない」 「どのへんがフルーティー?」 うっはぁ。 ワインがあまり好きじゃない。というか美味しいと感じない。味覚がおこちゃまだ。 自分は去年ボジョレーヌーボを初めて飲んだ。確か数年に一度のうまい年だったからだ。でも別においしくなかった。 飲んで感じることはフルーティーとか深い味わいとかではなく、アルコールで「うっはぁ」となるだけ。 しかし今年。また数年に一度のうまい年らしいので、飲んでみたのだ。ボジョレーを。レッツリベンジ。 うっはぁ。 10000HIT超えました。 このブログも始めて半年ちょっとで一万ヒットを超えました。いつも見ていただいている方、ありがとうございます。今初めてここポップコーンスパを見ている人もはじめまして、ありがとうございます。 でも実際は一万ヒット越えと言っても、自分が毎日更新するときに1か2だけカウンターを進めてしまうので、実際は一万じゃなく9700くらい・・・もごもご。 まぁOK、気にしません。 「そもそも半年で一万って少ないんじゃない?」という意見には真摯に対応しましょう。ええ、そうかもしれません。しかしここポップコーンスパは「隠れ家的ブログ」ですので、知っている人だけ知っていればいいんです。言い訳としては低レベルです。 でもブログはホームページよりもアクセスが稼ぎやすいのではないかと個人的には思います。その一番の理由はやはりトラックバックでしょう。 トラックバック先のサイトの訪問者が見に来てくれるのですから、アクセスが上がるのも当然です。これはホームページのリンクとはちょっと違います。 つまりここのアクセスが少ないのは、トラックバックが、ねぇ、しているのもされているのも少ないからさ。 え?だったらトラックバックすればいいじゃないかって? ・・・いや、トラックバックって苦手で・・・コメントも得意じゃないし・・・。自分で好きなようにくだらないことを書いているのが一番楽で・・・。 OK、ダメブログ確定。 とまぁここはこんなブログなんですが、少しでも面白いテキストを書けるようにまたがんばります。 アクセス数なんて二の次なので・・・。 はい、言い訳としてはベターです。 これからもよろしくお願いします。 チューリップの語源はトルコ語のツリパム(Tulipam)。 トルコ語でターバンを意味するその言葉。チューリップの花の姿がターバンを巻いている姿に見えることからそう命名されたらしい。 てっきり「チュー=キス」「リップ=唇」だと思っていた。 花の形がなんとなくキスする唇にものすごく無理をすれば見えなくもないかな、とか昔考えたことがあり、漠然とチューリップはキス唇だと思い込んでいた。 調べてみて分かるチューリップの語源。出てくるのはトルコ語やターバン。どこにも昔の自分の立てた仮説は見当たらない。 そもそも花の名前を付ける際に「キスする形に見えるからチューにしよう」などと、ここでチューなんて単語が出てくるはずもなく、少し考えれば自分の仮説がおかしいことはすぐにわかる。 自分の仮説は思春期特有の膨らんだ想像力の産物だった。 しかしチューリップがターバンを巻いている姿に見える想像力もかなりのものだと思う。 自分の趣味は考え事。 まぁ正直趣味というわけではないが、いつも考え事ばかりしている。 少し影のあるその男。椅子に腰を下ろしてうつむく。無言のまま遠くを見ているのか、近くを見ているのかわからないその視線からは男の思考を読み取ることはできない。 しかし時折左右に視線を動かす。と思えばまた下を向き、そして焦点がぼやけているようなそんな目をする。なにか他人には言えない大きな悩み事を内に秘めているのかもしれない。 なんてちょっとかっこよく自分が考え事をしているシーンを描写してみた。 ちなみにその考え事の内容は「おばちゃんパーマとアフロ・・・」とかなのでちっともかっこよくはないが、他人には言えないという点ではウソじゃない。 あとなぜ自分が無言で腰を下ろしているのかは、大抵の考え事は大学の講義中だからであり、まさか講義をする教授たちも、学生がおばちゃんパーマの考察をしているとは思ってはいないと思う。 少し影があるのは、隣に座る自分の友人が背が高いので、それでできた影だ。 お金の掛かる趣味を持つ人がいる。 例えば車が趣味であったり、オーディオ機器であったりなどがその代表だが、自分の考え事もかなりお金が掛かる趣味であると思う。 なにせ大学の授業料を費やしているのだ。 母親が苦労して作ったハンバーグよりも冷凍のハンバーグの方がおいしいと言った子供。 ある人がそう言って少し嘆いていたのだが、そこから読み取ることができる「人間の味覚の保守性」 彼女はいつもは冷凍のハンバーグを子供に食べさせていたらしい。そしてたまには時間をかけて美味しいものを作ってあげようと、手間暇を掛けてハンバーグを作った。そして夕飯にそれを子供に出した。 子供「いつものハンバーグの方がおいしい」 とこんな状況。 そして彼女は人間の味覚は絶対的なものではなくて、保守的なものである、という話をし始めた。人はおいしいものをすぐに「おいしい」と感じることはあまりなく、食べなれたものに対して「おいしい」と感じやすい。 母親「やっぱり食べなれたものの方がおいしいと思うのね・・・」 と嘆く彼女。 味覚の保守性、ということは自分も体験としてあるので正しいと思うのだが、しかしここで一つの可能性を無視していることに気付いただろうか。 彼女のハンバーグが本当においしいのかどうか?という可能性。 実際に彼女の作ったハンバーグを食べたわけではないので、自分に味の優劣はわからない。しかしたまにしか作らないようなハンバーグがおいしい可能性は低いんじゃあないかな・・・。 今回の話を教訓とするとこうなる。 たとえば誰かに料理を作るとする。 その時に相手のリアクションが悪かったとしてもそれは「味覚の保守性」のせいなのだ。貴方の料理が下手なのではなく、貴方の料理の個性に、相手の味覚が対応していないだけなのだ。 そう考えれば料理がうまくないとしても落ち込む必要はまったくない。 これが「ポジティブに物事を考える」ということなんだと思う。 しかしこれ以後、料理がうまくなることは一切ない。当然だ。 アラ不思議。 ポジティブに考えたら結果がネガティブ。 滝の水しぶきみたいな髪型の女の人がいた。 上流から流れてくる大量の水。それが勢いよく流れ続けている。右に曲がり左に曲がりながら流れつづけているうちに、急激な段差が目の前に現れた。 水は落ちる。重力に引かれた水は加速度をうけ速度を増しながら、下にある滝つぼとなっている場所を目指して落下を続ける。そして滝つぼに張っていた水に、落下をしてきた滝の水がぶつかる。 バシャーン。 そんな髪型。 実際は長い髪が肩のところでクルクルとなっている外カールなのだが、黒髪で、その人はとても髪の量が多いためかそんな滝の水しぶきみたいな髪型になっている。 歩くその女性。滝状ヘアーがゆれる。 もう一歩前へ歩く。滝状ヘアーがふわっと宙にばらけたのかと思えばまた中央に収束し、滝状になる。 「ふわっとなった瞬間にはマイナスイオンが多いかな」 とかなんとか思ったりする自分。 「いやいや、彼女は滝状ヘアーであって滝じゃないんだからマイナスイオンは出ないな」 と、自分に言い聞かせながら彼女を見てしまう。 ふわっ。 「・・・いやいや、マイナスイオンはでてない・・・。でてない・・・」 バスや電車で隣り合った人がメールを打ち始めると、気になってしまう。 ちょっと覗き込めば見える他人のメール内容。 プライバシーの問題なので見ると悪いなぁと思いつつも見たくなってしまう。 でも実際は見ない。「見ようかな、なんて打っているのかな?」と考える行為が好きなのだ。 もし本当に覗き込んだとしてもきっと「おはよう」だとか「明日の約束がどうたらこうたら」と正直面白くもないメールなんだということはわかっている。 見てもしょうがない。 もしかしたらものすごい内容のメールを打っているかもしれない。 「キーッ。今日泥棒に入られて一千万の宝石が盗まれたわ」 とか、もしかしたら 「明日の12時きっかりに例の場所でヤツを狙撃するぜ。報酬はスイス銀行の口座に入れろ」 とかそんな内容かもしれない。可能性はゼロではない。 そんなことをまじめに考えている自分。考えるのが楽しい。実際見てもつまらない。 自分はよくこのブログに更新するネタを思いつくと、携帯電話から自分のパソコンにメールを送るのだが、例えば 「靴下屋見つけた」とか 「フィギュアスケートとラクダシャツ的考察」とか打っている。 もし男の携帯電話を覗き込んでこんなわけのわからない内容だった場合、その男が私、ポップスパである可能性があります。 その際はよろしくおねがいします。 シイタケ嫌いのある友人は肉まんに入っているシイタケまで取る。 『シイタケの味がしてうまくない』 そんな友人の言い分なのだが、自分は肉まんを食べて、ああシイタケの味がするなぁ、とは思ったことがない。これは自分がシイタケが好きだからなのかもしれないが、それにしても肉まんに入ったシイタケをいちいち取るのはめんどうくさいだろう。 他の料理でもその友人はシイタケが入っているとことごとく取る。 どんなに小さいものであろうが取る。 きっと頭の中がシイタケで一杯なんだと思う。もうそれは好きなんじゃないか?と勘ぐってしまうほどシイタケで一杯の頭。 ここで思いつくことは、好きだという感情を悟られないようにするためのイタズラ。 「お前なんて好きじゃねぇよバーロー」と言いつつ内心では「俺こんなことしたいわけじゃないのに・・・」なんて考えたりするアレ。 そんなアプローチから考えたシイタケ。 実はシイタケ大好きなのに、いちいち肉まんのシイタケを取って見せて、大好きっぷりを悟られないようにする。 『シイタケの味がしてうまくない』 そう考えるとこのセリフもちょっとかわいく思えてくる。実は大好き。 いつの日か恥ずかしがらずに言える勇気を持った日にはぜひ「俺、実はシイタケ大好きなんだ」とこっそり告白してもらいたい。 友人『シイタケなんてあんなもんこの世からなくなればいいんだよ。大体キノコなんてあれって菌だろ菌。バイキンだろ。食えるわけねぇじゃん。お前(ポップスパ)はタバコ吸ってるからな。味覚が馬鹿になってるんだって』 彼が「俺、実はシイタケ大好きなんだ」と言ってくれる日は遥か彼方。 女性フィギュアスケート選手はやたら露出のある格好をしているなぁムフフと思っていた。 実際は肌色の服。寒いからなのか露出がイヤだからなのか転んだときに危ないからなのか、その理由はわからないが、露出が多く見えるように錯覚させる服を着ているのは間違いない。 そこにあるハッタリ。「男なんて馬鹿なんだから肌色の服きてりゃいいのよ」とでも言いたそうなその格好。 ここで思い出されるのはラクダシャツと呼ばれる肌色っぽい色のシャツ。 氷上の妖精と呼ばれるフィギュアスケート選手。 華麗にスイーッとすべるラクダシャツを着た人。 ポーンとジャンプをしたかと思うとクルクル回るラクダシャツを着た人。 「うわぁラクダ着てる。ダサーい」 そんな価値観を根本から否定する、フィギュアスケートでのラクダ着用。 ラクダシャツメーカーはもうちょっとこの辺をプロモーションで押し出していけば、とてつもない企業に発展するかもしれない。 僕の座右の銘は「心にロックを」です。・・・たしか高崎晃がこんなことを言っていたような・・・。ハイ、座右の銘をうろ覚えで説得力ゼロ。 朝にこれを読んでいる人、おはようございます。 昼っからポップコーンスパさんを見ている人、こんにちわ。 夜に酒を飲みながら・・・ハイ、くどいですね。 はじめまして。「いつもと文体がちょっと違うなぁ」と感じた人。すごいです。 僕の名前は『アロエ』といいます。ポップスパさんのブログ仲間です。 今回はなんかポップスパさんと交換日記ということで、見ず知らずの僕がこうしてここに文章なんかを書いているわけです。これを読んでおもしろいとか思ったらぜひ、僕の方のブログにも遊びに来てください。 前置きはこの辺にしないと挨拶だけで交換日記が終わってしまうのでやめます。なんかちょっとそれもおもしろいかなとか思ってしまう僕はどうでしょうか。ハイ、ちゃんとやります。 総理大臣っているじゃないですか。 まぁ大抵は自由民主党の党首なわけです。もう崩れ去っていますが約40年続いた55年体制というものがあり、その頃はもう「自民党党首=総理大臣」なんて当たり前だったわけです。 それが1993年の55年体制の崩壊で、自民党ではない細川さんが連立政権としての首相になったのです。たしかこの年にヒロミと松本伊代が結婚したように思います。ハイ、どうでもいいです。 つまりその55年体制の崩壊した時、1993年の自民党党首は「自民党党首=総理大臣」が当たり前だと思われ続けていたのに総理大臣になれなかったということです。 きっと家なんかでも彼は 「ふざけるな!私は自民党党首だぞ。ホントは総理大臣なんだぞ!」 そうお怒りになったことと容易に想像がつきます。 その怒りは収まることをしらず、きっと 「コンチクショー。私が総理なんだよ!細川のアホタレ」 とか勢いで言ってしまったと思うんです。 その時、彼の横にいた奥さんが 「ちょっとあなた言いすぎじゃないの!細川さんにあやまりなさい」 そう諭されて、彼は 「アイムソーリー」 (注:このアイムソーリーには素直にゴメンという意味と「I am 総理(私は総理だ)」という二重の意味があるわけです。とてもおもしろいダジャレの一つであると自負します) ・・・ハイ。どうだったでしょうか。おもしろかったのなら幸いです。 え?使い古されたダジャレだって?・・・つまり温故知新ってやつです。 なんかもうバレている可能性特盛なんですが、これを書いているのはいつも通りポップスパでした。 以上、突然企画『交換日記風日記』を終わります。 |