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2005年2月28日 ビートルズって知ってる?

CSRという言葉がある。

Corporate Social Responsibilityという言葉の頭文字をとったものだが、意味は「企業の社会的責任」だ。某自動車メーカの欠陥問題なんかがまさにそれ。

何事にも責任は伴う。それはブログでも同じだ。

普段くだらないテキストを書いている僕だが、たまに「ウソなのか本当なのかわかりづらい」ものを書いてしまうことがある。なるべくそれをなくし「ウソはウソだとすぐにわかる」ように書いているのだが、どうしてもそうなってしまうことがある。

読み手はウソをウソと見抜ける力が必要であると思うが、書き手が無意味にウソを多用し混乱させることにはやはり問題があると思う。もしかしたらそのウソを信用し、取り返しのつかない失敗をしてしまう人が出てこないとも言えないからだ。

これからはそういうことがないように、ウソはウソ、本当は本当と確実にわかるように表記しようと思う。それが公の場にテキストを公開している者の社会的責任の取り方だと思う。これで「もしかしたらこれってウソみたいだけれど本当なんじゃあ・・・」という誤解をなくすことができる。

前置きはこの位にして本題に入ろうと思う。

僕の住んでいるロンドンでは(ウソです)、毎日のようにビートルズがライブをしている(ウソです)。僕はたまにそのライブに飛び入り参加して(ウソです)、ジョンレノンからギターを借り(ウソです)ポールとリンゴとジョージと一緒に演奏したりもするのだ(ウソです)。ビートルズはなかなかのバンドなので(超すげぇバンドです)、皆一度彼らの演奏を聴きに来たら良いと思いう(ビートルズは解散しています)。

でもそろそろロンドン在住も飽きたし(行ったこともありません)、明日からはモナコに住もうと思う(明日も変わらず石川県です)。なので明日の更新はモナコからだけれど(明日も変わらず石川県からです)、またよろしく(こんな馬鹿ですが本当によろしくお願いします)。



2005年2月27日 人の心は九分十分

一部で大人気「ことわざの意味を勝手に考えよう」シリーズ第三弾。ちなみに一部とは僕の脳の一部です。

「人の心は九分十分」
まったく聞いたことがない。ヒトノココロハクブジュウブ。

「人の心」これはそのまま、人の心なのだろう。ハート。
問題は「九分十分」という部分だ。これをどう解釈すれば正しい意味になるのだろうか。

五十歩百歩という言葉がある。これは敵から五十歩逃げるのも百歩逃げるのもたいしてかわらない臆病者というところから「大差ない」という意味だったと思う。

これだ。

九分とはパーセンテージに直せば9%。十分とは10%。
細かく見ればそこに違いは生じるが、大局から見れば所詮1%の違いしかなく、大差はない。僕の財布には今1000円しか入っていないが、それが1%増えて1010円になったところで大差はないということだ。これは事実なので誰か僕にご飯をおごってください。

つまり「人の心は九分十分」とは、『人のハートには大差がない』という意味になる。

これは「自分が嫌だと思うことは他人も嫌だと思うし、自分がされてうれしいことは他人もされたらうれしい」ということじゃないだろうか。皆もご飯をおごってもらったらうれしいだろう。僕もご飯をおごられたらうれしい。よろしくお願いします。

そんなでたらめばかり言うのも問題なので、正しい意味を記しておこうと思う。

「人の心は九分十分」
人の考えることは似たようなもので、大差はないということ。
[説]「人の心は九合(くごう)十合」とも言う。
(ダイソーミニ事典シリーズ『新ことわざ事典』より抜粋)

自分の導き出した結論と等しい。当たってしまった。

つまりこのことわざを考えだした人と、勝手に意味を考えた僕とは、結局は考え方に大差がなかったということだ。このことわざが言っていることはどうやら正しいらしい。



2005年2月26日 西暦47667年まで

某自動車メーカは部品100万個に3個の欠陥品が判定基準だと聞いたことがある。

聞き話なので真偽はわからないが、これは実現可能な数字なのだろうか。欠陥比率が100万分の3となると、確率的には0%と言っていいだろう。

しかしそのメーカの人はこう言うらしい。
「たとえ100万個に3個の欠陥品だとしても、その3個を買ってしまったお客様は私共の自動車を信用しなくなる。やはり欠陥0が目標だ」と。

僕もこれを見習おうと思う。目標はやはり0だが、今のところは100万テキストの内つまらないテキストは3でいく。つまり約2740年間毎日テキストを更新して、つまらないのは3つしかないのだ。

ここで過去のテキストおよそ300の内、自分の中で納得のいかないまったくおもしろくないテキストというのは大体50くらいだと思う。これに100万分の1のおもしろくないテキスト比率を適用させると、僕はもうあと約45662年間毎日おもしろいテキストを更新し続けなくてはいけないことになる。そうすれば僕のブログのおもしろくないテキスト比率は目標に達する。

先は長いですがゆっくりゴールを目指していこうと思います。



2005年2月25日 砂漠と歯医者のオアシス

歯医者の受付の女性が魅力的だ。

寒いのはキライだし、僕の部屋は外気温となんらかわらない極寒の地であるので、こたつとエアコンがないと冗談抜きで死んでしまう。この日本で大学生が部屋の中で凍死というニュースが流れたのなら、それは僕かもしれません。

しかしエアコンはどうしても空気が悪くなってしまう。暖かいのはとてもありがたいのだが、空気が汚れてしまうのはあまり気分が良いものではない。

つまり自分はこたつラブなのだ。

暖かいし、空気は汚さないし、ぬくぬくしているし、心まで温まるようだし、要は温まるだけなのだが、好きだ。

こたつに入ってアイスを食べるという不毛な行為も魅力的だ。ビールを飲むのもいい。こたつにもぐり込んで音楽を聞くのも大好きな時間だし、本を読むのもかけがえがない。ブログもいつもこたつの上にノートパソコンを置いて更新している。こたつ依存症という病気が仮にあるとしても納得というものだろう。

冬は大嫌いだが、こたつに会えると思えば少しは冬も楽しみなものとなる。どんなに電化製品が便利になろうと、僕はこたつを愛し続けるだろうし、使い続ける。

こたつ。それは現代におけるユートピアなのではないだろうか。心が枯れてしまっている現代社会の砂漠に点在するオアシスなのだ。これを読んでいるあなたもこたつに今一度感謝し直したらいいと思う。

ちなみにテキスト一行目は報告したかっただけだ。



2005年2月24日 無知の罪と承知の残酷

『「知りません」。人間の持つ言葉のうち、もっとも情けない言葉です』

ナイチンゲールのこの言葉。これは僕の心に深く刻み込まれている。初めてこの言葉を見たときに僕は、当たり前だけれど、この言葉を知らなかった。

「無知は罪」という言葉もある。無知に怖いものはないけれど、無知を怖いこともまた知らない。

僕はなるべく多くの情報を得ようと努力している。好奇心が多いと人に言われることもある。しかし好奇心などというものは「無知」であるからこその感情だ。対象について知っているならば知ろうとする行動など起こさない。

つまり「好奇心が多いね」は「お前は無知だな」と言われているに等しい。もちろんそういう意味を含めてはいないんだろうが。

僕は知りたい。あらゆることを知りたい。それは不可能だろうが、知ろうとする行為をやめたくはないし、やめたときはそれは僕が僕ではなくなってしまう瞬間だとも思う。

歯科医「あ、この奥歯も虫歯です。ホラこのレントゲン写真を見てください・・・」

僕は知ることを放棄する。そんな情報いらない。もう勘弁して。



2005年2月23日 ブレインウォー

デンタルウォーはいまだ続く。

歯の形もとり、新しく詰め物をしたが、まだ終わらない。虫歯が沢山ある。

そしてどうやら虫歯菌を口内から完全に取り除くことは不可能らしい。なので痛くなくても半年に一度は検査をすると良いとある。僕がこの前歯医者に行ったのは二年前だ。

まさか僕の知らない間に虫歯菌が闊歩していたとは。

たけしの本当は怖い家庭の医学によると、どうやら虫歯が原因で脳にまで影響を与えてしまうらしい。

ま、まさか自分がこんなどうしようもないテキストばかり更新しているのは虫歯菌のせいだったのか。知らぬ間に脳にたどり着いて僕に「くだらないことを書けェ。どうでもいいことを書けェ」と命令していたんだ。む、虫歯菌めェ。

どうやら本当に僕の脳みそはまずいようです。虫歯怖い。



2005年2月22日 デンタルウォー

歯医者が悪いわけでも、僕が悪いわけでもない戦い。

歯に詰めていたものが取れてしまい、またくっつけてもらおうと嫌々歯医者に行った。詰めてあったものはなくしてしまったが、それでも2回くらい行けば終わるだろうと楽観視していたら歯医者さんの一言。

「ああ、これ虫歯ですね。ああ、こっちも虫歯ですねぇ」

僕の孤独な戦いが始まる。やっぱり虫歯があったか。

まずは詰め物が取れたところを埋めるべく、歯の形を取る。この時ガムみたいなやつを噛まされて形を取るだろう。あれをしばらく噛んで待ち、アシスタントの人にガムをバチッと外してもらったら、別の歯の詰め物まで取れた。

「ああ、この詰め物が取れた歯も虫歯ですね」

僕の孤独な戦いは泥沼化の様相を呈してきた。
戦争は21世紀が訪れた今も、続いている。



2005年2月21日 答えのわかっているイジワルな問題

大学の講義でとても足音がうるさい人がいた。

今は静かな講義の途中だ。寝ている人もいれば本を読んでいる人もいる。真面目に講義に耳を傾けている人ももちろんいる。さて僕はどれでしょう?

そんな静寂をぶち壊す「ドン!ドン!ドン!ドン!」とうるさい足音を立てて歩く男。どうやらトイレに行くらしいが、もう少し静かに歩けないものか。せっかくいい気持ちでうとうとしていたのに。

彼は一番後ろの席からドアのある最前まで、ずっとドンドンと象のように重い足取りで歩いていく。よほど講義をしていた教授も耳障りだったらしく、少し怒鳴るように「もう少し静かに歩け!」と言った。少し驚いたような様子を見せた彼だったが、特に謝ることもなく、ドアを開けて出て行った。

数分後、ドアが再び開かれる。さっきの男の顔が覗いた。トイレから帰ってきたらしい。

大きな足音を警戒して少し身構えると、全然足音が聞こえない。講義が面倒くさくなって帰ったのかなとドアの方に目を向ける。そこには異常なまでにゆっくりと、静かに歩く彼。漫画に出てくるような泥棒がやる、抜き足差し足忍び足という状況になっている。そこまでしなくていいだろう。

まわりも同じように思っているのか、彼を見ている。彼はその視線に気付かないほど足音を消すのに必死だ。部屋には講義をする教授の声だけが響いている。もしかしたら教授もそれはやりすぎだと思いつつ話しているのかもしれない。

とても楽しいものを見れた講義だったのでよかったよかった。さて僕は大学生としてどうでしょう?



2005年2月21日 走れプリンセス

あまりに体力がない。

高校の頃の授業の長距離走も限界ギリギリまで体力を使ってやっと完走だった。それから3年以上も経ってしまった今ではもっとひどいことになってしまっているだろう。

ためしに家の近くのコンビニまで走ったら息が切れた。100m程度しかないのに。「私お箸より重いものなんて持ったことがないのよ、フン!」と怒るお姫様よりもまずい。

体力、持久力をつけるために毎日少しずつ走ろうと決心をした。

それが早一週間程度前。決心はした。しかしいつ走り始めるのかを考えていなかった僕の作戦ミスだ。言い訳ではない。

よし、暖かくなる春からはじめよう。決心した。

僕はダメ人間なんかじゃありません。
「私コンビニより遠いところまでなんて走ったことがないのよ、フン!」



2005年2月20日 ポップコーンアタックNO.1

だけど涙が・・・。男の子だもん。

ポッカリと暇な時間ができてしまい、ゲームセンターに行って時間を潰すことにした。久しぶりなので僕の知らない新しいゲームも多く、結構楽しんでいた。

僕は格闘ゲームにコインを入れた。新作だが昔かなりやっていたゲームの続編なので、少し操作すると感覚を取り戻し、一人悦に浸っていた。俺を倒せるヤツなんていないぜ。

そこに乱入してくる高校生風の男。僕と彼の対戦だ。

とくに接戦になることもなく僕が勝利した。フフフ、俺を倒せるヤツなんてこの世にいないぜ。

また誰かが僕に対戦を挑んできた。相手を見ると小学生の男の子。脇に黒いランドセルを置き、椅子をゲーム台に近付けて、自分が操作しやすいポジションを作り出している。

「ああ、俺は小さな子供の夢までも摘み取ってしまうのか。彼は数分後思い知るだろう。現実は厳しいのだと。しかし彼はそれを受け止め大きくなっていくのだ」

そんな手加減を知らない大人気ない僕は、本気で倒しにかかった。
そして瞬殺された。

相手の顔を見る。「ハン?」という顔。く、くそー。大人をなめやがって。もう一度対戦だ。

負けた。相手が強すぎて勝負にならない。

現実は厳しい。僕はこの事実を受け止め、また一つ大人の階段を登った。
ちなみに僕は今21歳だ。だけど涙がでそうだ。相手が男の子だもん。



2005年2月19日 受験生閲覧禁止

貴方は今受験生ですか?
「はい」 →自己責任でテキストを読みましょう
「いいえ」→下の文章へ進め

僕はセンター試験を地元で受け、二次試験は志望校へ行き、受験をした。今から3年前の大学受験の時の話だ。二次試験会場に到着すると、多くの人が参考書やノートを開き、最後の追い込みというか悪あがきをしていた。

僕はもうやるだけのことはやっていたので、焦ることなく、自分の席を見つけ出してただ座っていた。しかし周りは熱心に勉強している。僕は座っているだけ。周りは勉強。

まぁ仕方がないので僕も勉強するフリでもしていようかなと、参考書を開き、必死に勉強している風を装っていた。フリだけです。本当です。

ふと僕の隣の席に座る男を見ると、一切勉強をしていない。それどころか音楽を聞き、ガムでも食べているのか、口をもごもごしている。ポケットに手をつっこみつつ、椅子を後ろに少し倒すようにして彼は座っていた。

まぁ僕は勉強に忙しいので彼になんて構っている暇はない。公式を覚えきらないと。もちろんフリだけです。
そしてテストが始まる。

テスト終了の時刻になり、テストは終わった。僕も終わった。

最大級へこみタイムの中、隣に座る彼の答案をチラッと見ると、全問を解いたのか答案用紙一杯に書いてある。僕はせいぜい半分。

できる人はできるんだな、外見は関係ないなと実感した高校三年生も終わる初春の出来事。もちろんその大学は落ちた。

この時期に一番書いてはいけない不吉なテキストを更新しつつ、受験生の人は最後までがんばってください。追い込みです。勉強した人が最後には笑うのです。僕はもうあの時笑うしかなかったので、その意味では勝ち組だと思います。そう思わせてください。



2005年2月18日 ゴムゴムのポップコーン

大人と子供のボーダーラインはどこだろうか。

僕は結構本を読む。活字もそうだし漫画もそうだ。大学生だけれどジャンプは毎週買っている。体は大人、頭脳は子供、その名はポップスパ。

そんな子供心を忘れず純粋無垢で母性本能をくすぐりすぎてうっとうしいと言われがちな僕だが、ちょっと難しい問題を考えてみたりすることもある。それは大人と子供の境界線はどこか?というものだ。

ある人は「成人式」だと言うだろうし、ある人は「二十歳の誕生日」だろう。
また「初体験」と考える人もいるだろうし、「酒を美味しいと感じた時」という人もいると思う。

僕にとっての大人と子供のボーダーは、一つの指針として程度なら、持論がある。それは
「将来の夢を聞かれて、やりたいことを答えるか、会社名を答えるか」だ。

僕は今就職活動の渦に飲み込まれっぱなしだが、同い年の友人に将来の夢を聞くと 「○○に就職したい」「○○に入れたらいいな」と答えられることが多い。

まさに彼らは大人だと思う。もう宇宙飛行士だとか、プロ野球選手とは答えない。冗談として笑いながら言うことはあっても、真面目な顔で言うことはない。
「自分の力じゃあ無理だよ」「現実を見ろよ」

しかし僕はいつまでも子供の心を忘れない大人になりたい。夢を諦めることが大人であるということなら、僕はそんな大人になることを放棄する。新しい大人像を自らの手で創造するのだ。

だから僕は今でも毎週ジャンプを買っているのです。新しい大人像、子供が憧れるような大人像を作り出すためなのです。

うわー、ワンピースおもしれー。ルフィかっこいいー。

子供のみんなは、大学生にもなってジャンプを必死に読む僕の姿に憧れたらいいと思います。これが新しい大人の定義です。



2005年2月17日 スノーカラオケ

昨日書いたボーリングをした日、雪が降った。

空から宝石の贈り物、と形容したとしてもまだ有り余るほどの魅力を持つ、雪。
しかしああ綺麗だなとか、ロマンチックだななどと思おうにも男四人で集まったままなので夢も希望もない。僕には一握りの幸せをこの手にする権利すらないのだろうか。

しかもその空からの宝石に対して
「雪なんて降るなよな。積もると邪魔だしさ」
「バカ早く雪止めよ。もう十分降っただろ今年は」
「冬なんていらねぇんだよ。夏になれよ夏」
「本当だよ。雪解けろバカ」
などと罵倒する友人達。ロマンチックの欠片もないリアリストな彼ら。ちなみに三つ目のコメントが僕だ。

少し酒が入っていたこともあり友人の一人が言う。
「自転車に乗ってカラオケ行こうぜ」

アルコールが入ると判断力が鈍る。このときの僕達がまさにそうだった。
常識的に考えれば雪が降る中に自転車で行くのはばかげている。しかし友人曰く

「この雪の中、カラオケに行くためにはかなりのテンションが必要とされる。つまりカラオケボックスについた頃にはかなりのテンションを保持しているため、盛り上がるんじゃね?」

説得力の欠片もないこの演説に、僕らは心打たれた。
かのアドルフヒトラーが聴衆に対する演説を事細かに研究し、かなりのテクニックを持っていたことは有名だ。彼は言う。「聴衆はバカだ」と。「聴衆はすぐ言われたことを忘れてしまう。重要なことは何度も何度も何度も繰り返すのだ」と。

そんなテクニックを一切必要としない僕ら。理論構築もなにもできていない友人の演説で感動した。僕は言う。「僕達はバカだ」と。

雪は一層強くなる。その中で自転車を漕ぐバカ四人。
カラオケボックスにつく。その中で寒い寒いと凍えるバカ四人。

カラオケが盛り上がってくる様子もなく、むしろ「この雪の中をもう一度帰っていかなくてはいけない」という現実が襲い、テンションは垂直落下を繰り返す。地面にぶつかりテンションが大破した頃、カラオケボックスを出た。

僕は今大学四年生です。これからの社会はそんな僕らが支えていきますので、どうぞ安心してまかせていただきたいと思います。



2005年2月16日 狼少年的な出来事

友人が服を裏返しで着ていた。

数日前にボーリングをしようぜということになって、車を出してもらい男四人で行くことになった。外は寒く四人ともコートやダウンベストなどを着込んでいた。

ボーリング場に着き、友人の一人がコートを脱ぐと、服が裏返し。首のところにタグが見えるし、腰らへんには「洗濯は手洗いで」みたいな紙もひらひらしている。完全に裏だ。

普段から気付きにくいボケや、ちょっとした笑いをとりがちな彼。

シュールな笑いだと思いつつ、僕を含め男三人、彼のその体を張ったボケに笑い、感心していた。そんな彼につっこむなんて野暮なことはしない。ただ彼の行動を賞賛していた。

ボーリングも1ゲームが終わり、2ゲームが終わり、次を最後にしようかということになる。
彼はもちろんその間も服が裏返りっぱなし。いつもならそろそろリアクションを期待し、「つっこめよ!」とか言ってくる頃合なのだが、その様子はない。服が裏返ったまま、ボーリングのスコアを気にし、雑談をしている。

ここにきて生じる、本気で服が裏返っていることに気付いていない可能性。
パーカーなどなら表裏を間違うはずはないが、彼が着ているのはセーター。間違えていてもわかりづらい。僕達にはタグが見えているので彼が裏返しで着ていることはわかるが、彼が自分の首後ろのタグが見えているはずはない。

もはや「お前裏表間違えてるじゃねぇか!」とつっこむタイミングは完全に外している。

「ボケだろ?」 「いや、本気で気付いてないんじゃないか?」
悶々としたままボーリングは終了し、結局彼が笑いを取っていたのか本気で間違えていたのかはわからないままだった。

確実に言えることは、ボケにしろ本気にしろ彼にとっては笑いがとれたことに違いはないので、本望なのではないかということだけだ。



2005年2月15日 内容ゼロ

仲間由紀恵さんが好きです。

道を歩いていて美人が通るとつい目がいっていしまう人は多いことだろう。これは男の本能だと思う。しかし僕は美人には特に目がいかない。歩く人の顔なんていちいち見ていないからだ。
しかし髪が長い女性には、つい目がいってしまう。歩く人の髪の長さはいちいち見ている。結果、女性が美人だったらムフンとなってさらに凝視してしまうが、そこは大きな問題じゃない。

ただ髪が長い人に憧れる。でも僕は坊主だ。

恋愛相手には自分のないものを求めるという。背の低い人は背の高い人に憧れ、おとなしい人は少し強引な人に憧れ、一般人は金持ちに憧れる。最後のはちょっと状況が違うかもしれない。

「だから坊主のお前は長い髪の女性に憧れるんだろ?」

それは違う。確かに今は坊主だが、高校生までは髪を伸ばしていたし、肩まであった時期もある。それでも当時から髪の長い人をつい、見てしまっていた。
きっとなにか、感覚的にというか、芸術的興味というか、そういう理由が自分の精神の根底にあるんじゃないかと思う。

「単純にお前が髪の毛フェチだって話だろ、これ」

そうです。



2005年2月14日 外見で判断する小物

人を外見で判断する人に大物はいないんじゃないかと思う。

近年ではさすがに金髪だから不良、茶髪だからどうだという概念はほぼ消滅したが、それでも外見で人を判断する人は多いように思う。

外見がどうだから、アイツはこれこれこういうやつだろう。

その人と話して見なければなにもわからないのに、自分で勝手に決め付けて導き出した結論なんてゴミだ。テスト問題を解けるだけ解くだけで、どこをどう間違えていたのかを確認しないようなそんな意味のない行為だと思う。そこから得られるものは何もない。

酒の席で好みのタイプの話になった。
「自分と話が合う人」とか「お金のある人」や「安心できる人」などな意見が出る。そして質問の矢が僕に向けられる。

友人「ポップスパの好みってどんな人?」
自分「髪の長い人」

外見で人を判断する男、ポップスパです。テキスト一行目が証明された形となったところで、本日のお付き合いありがとうございました。



2005年2月13日 日光を見ずして結構と言うな

お待たせしました。大人気シリーズことわざ勝手に解釈です。
前回はこちら(昨日)

「日光を見ずして結構と言うな」
もちろん僕はこのことわざの意味を知らない。だから勝手に意味を考えてみようというテキストなのだが、自分の無知を他人に笑わせるという自虐極まりない企画だ。

正直検討もつかない。日光を見ずして結構と言うな。

日光・・・結構・・・ダジャレか?ダジャレか?

まさか世間に浸透しているであろうことわざがダジャレの先制攻撃をしてくるとは思わなかった。やはり戦いの基本は先制攻撃か。笑いも先制攻撃か。

しかしたいしておもしろくない。日光と結構がかけてあるからなんなのだろう。笑いは先制攻撃ではないらしい。むしろことわざは笑わそうとなんてしてない。ダジャレではなさそうだ。

「日光を見ずして」というのは、お日様に当たらないでということだろうか。
「結構と言うな」とは、満足するなということか。

お日様に当たらずに満足するな。
これは、刑務所から出るときの看守と出所者のやりとり、「もうこんなところにくるなよ」「へい」というあのドラマチックなやつなのではないか。
いや、この会話に至るまでのプロセスを表すことわざだ。

看守「おい、お前も明日でようやくシャバだな」
囚人「へへ、俺なんてもうお天道様を拝む権利なんてねぇや。ずっと今のままで・・・」 看守「ばかやろう!お天道様はきっと許してくれる。お前は誰よりも必死に罪を償ったじゃないか。日光を見ずして結構と言うな!」
囚人「・・・はい、ありがとうございます」

そんな中途半端な人間ドラマを表すことわざ「日光を見ずして結構と言うな」
本当の意味を知っている人は、おおいに僕の無知を笑ってもらえたと思う。このまま終わるとこのブログが有害指定とかされそうなので、本当の意味を記しておこうと思う。

「日光を見ずして結構と言うな」
日光東照宮のすばらしい建築美をほめたたえた言葉。
日光東照宮を見ないうちは「結構」という褒め言葉を使うなの意で、「日光」と「結構」を語呂合わせにした表現。
[類]ナポリを見て死ね
(ダイソーミニ事典シリーズ『新ことわざ事典』より抜粋)

当たるわけない。しかもダジャレだ。ことわざも先制攻撃は重要らしい。



2005年2月12日 鹿を指して馬となす

僕らの味方ザ・ダイソー(百円ショップ)で『新ことわざ事典』というものを買ってきた。

あなたはタイトルにもある「鹿を指して馬となす」ということわざがどういう意味かご存知だろうか。僕は恥ずかしながら知らない。

だから勝手な意味を考えてみようと思う。

「鹿を指して」とは多分単純に鹿を指差すんだと思う。これは僕にも容易に想像がつく。
問題は「馬となす」だ。鹿は馬じゃない。無茶苦茶だ。

多分これは「親分が白といえば白、黒といえば黒なんだよ」という理論を表したことわざなんじゃないかと思うのだ。つまり、こういうこと。

親分が鹿を指差して
親分「おい見ろ、あれが馬という動物だぜ」
子分A「・・・は?アレは鹿で・・・」
子分B「ばかやろう!あれは馬だろう馬。へへへ親分スミマセン、こいつには後できつく言っておきますので・・・」

そんな無知な親分とへりくだる子分を表す「鹿を指して馬となす」
現実を直視せず、権力に屈する様を表している、社会派なことわざだ。ぜひ明日から活用してもらいたい。

・・・などと勝手な意味をだらだらと述べたが、これを本気にして明日使うとバカにされます。本当の意味を『新ことわざ事典』で調べたので最後にこれを記しておきます。

「鹿を指して馬となす」
明らかな間違いや理屈に合わないことを無理に押し通すこと。

当たっていたので悔しいです。ボケ殺しです。



2005年2月11日 峰不二子になりたい

僕は小説を読むし、映画もアニメも見るし、漫画も読む。

ファンタジーから恋愛、アクションでもホラーだっておもしろければなんでもいい。なんでも観る。しかしそんなミーハーな僕にも三つだけ「これがあったらいいなぁ」という要素がある。

それは「渋い男」と「普段はユルユルやるときゃやるぜ」、そして「裏切り」だ。

この要素が全て入っているのがルパン三世なのだ。僕にとってルパン三世は、娯楽に求めるほとんど全てが入っている。いや、ルパンさえあれば他になにもいらないとまで言えるかもしれない。

まず次元大介は「渋い男」だし、ルパンは「普段はユルユルやるときゃやるぜ」だし、峰不二子の「裏切り」なんて日常茶飯事だ。ルパン曰く「裏切りは女のアクセサリーさ」らしい。

このおもしろ三要素の中で一番重要なものは「裏切り」だ。

ある漫画のワンシーンを記す。

男と女がいる。男は今いる田舎を飛び出して行きたい、こんなところにはいたくないと言う。女は私とここで一緒に暮らそうと言う。
二人はこれまでの楽しい思い出を振り返り、愛を再確認する。女は、これで男はここに残ってくれるのだと思う。

しかし次の瞬間男は女を殺す。

うん、これが現実だったら最悪の男だ。それはわかってる。だけれど「これはフィクションなんだ、作り話なんだ」と自分に言い聞かせているからなのか、僕はこの男が好きになってしまう。もちろん殺された女にかわいそうだなとは思う。

しかしそれ以上に男に対して「よくあそこまで愛されていることを認識しておいて殺せるなぁ」と妙な感心をしてしまう。

こんなことを書くと「殺人犯を好きだなんて、この人あぶない」とか思われてしまいそうなので、例を先にも述べたルパン三世にする。

ルパンと一緒に行動する峰不二子。
彼女はルパンと共謀して、ある場所に盗みに入る。盗みは見事成功し、あとは逃亡するだけだ。峰不二子の運転する車にルパンが乗り込むと、そこには銭形警部の姿がある。

そしてルパンは逮捕される。峰不二子はルパン逮捕の協力をする代わりに「自分の今までの犯罪の無効」を要求し、契約していたのだ。

そんな裏切りが当然の峰不二子。好きだ。

「相手を信頼しているとしか考えられない場面での裏切り」
こんなシーンを目撃すると僕は「ええー」と思うし「なんでだよバカ」とも思う。心の表面では「裏切るなよ」とも思っている。でも内心では「へえここで裏切るなんてすごいなぁ」と感心をしているのだ。

もちろん現実世界で裏切られるのはイヤだし、信頼してくれている人を裏切りたくもない。
しかし「娯楽」という視点から見ると、裏切りほど面白いものもないんじゃないかと思ったりするのだ。これを超えるインパクトのある行動というものはなかなかないと思う。

僕も「なんだこいつ」と思われつつも印象に残り、また読んでみたくなるような、そんな文章を書いてみたい。

めざせ峰不二子だ。



2005年2月10日 らくらくフェイマス情報

目が覚めたら午後5時ということもある。

前日の徹夜がたたってこうなってしまうわけだが、徹夜の理由も友人との飲み会だったりするので、特に胸を張れる理由ではない。

自分は雨が降ると家から出ない人間だ。ハメハメハ大王の生まれ変わりかもしれない。
しかも今は冬。雪が降ったり、積もっていたりと家から出たくなくなる要素は満載だ。そうなるとタバコを切らすか、食べるものがなくなったりしない限り家からはでなくなる。

そして寒いのも苦手だ。

夏が大好きな自分は、それに反比例するかのように冬が大嫌いだ。寒い。
引き替え家の中はぽかぽか。コタツを考え出した人におこづかいをあげてもいいくらい、愛している。

そんな自分の冬の過ごし方。

雨。家から出ない。寒い。家から出ない。前日に食いだめをして家で寝続ける。

すごい。人間も冬眠をするように進化をしたらしい。
今度この事実を学会に発表しようと思う。自分は一躍時の人だ。

「会場一時騒然。学会に不審者乱入。警備員が確保する緊迫の瞬間。容疑者はブログブログと意味不明な発言を繰り返し・・・」



2005年2月9日 日本代表対ドイツ代表

インドアな自分も意外とスポーツに詳しい。

サッカーだってルールを比較的知っている。なんとオフサイドの意味も説明できる。フォワードは今勉強中なのでしばらく待って欲しい。

所詮その程度の興味なのでワールドカップは全く見たことがない。正直に告白すると別に日本が勝とうが負けようがどうでもいい。これを日韓ワールドカップ開催中に口にして、どれだけ反感を買ったことやら。

世間はサッカーが好きらしい。

自分の価値観で物事を判断してしまいがちな自分。やはり他人の価値観も考慮して発言をしたほうがいいと思い直した、ワールドカップでの自分の「興味ないよ」発言。

ワールドカップの思い出が「他人を思いやる」という教訓。

自分にとっても他人と同じく日韓ワールドカップは心に残った。多少ベクトルは違うが。

ワールドカップはやはり偉大であるので、次の大会では何を教訓として残してくれるのだろうか、今から楽しみにしている。
ちなみに次回開催国がどこなのかは今勉強中なのでしばらく待って欲しい。



2005年2月8日 初恋テスト

背後から忍び寄るテストの影。

「早く終われ消えてなくなれ」
といつもは願い続けるテストだが、今回は少し趣が違う。なにせこのテストが終わってしまうと自分は大学四年生になる。すると就職活動、そして社会の荒波に飲み込まれてしまう。正直イヤだ。

「くるな。もうずっとテスト来るな」
そう願い続けているのだが、現実は厳しい。テストは訪れる。願いを想い続けていても叶わないということが証明された。初恋だって実らないし。

ここはもう正面からテストに向かうことにせざるを得ない。
当たって砕けるかもしれないし、自分のこの熱意は伝わり切らないかもしれない。しかしそれを恐れてはだめだ。自分の最善の方法を模索し、そしてそれにすべてをかける。ちなみに自分はこの方法で初恋は実らなかった。

テスト対策としては、他人のレポートをコピーしたり、過去の問題を入手してみたりするのが一番効果的だろう。「正面から取り組む」ということは個人個人違っていてもいいと思う。

でもいままでのテストも何とかなってきているので、今回も何とかなるんじゃないかなと思う。社会の荒波も意外とスルリスルリと避けられたりするかもしれない。

うんきっとそうだ。なんとかなる。

友人「初恋はなんともならなかったんだろ」

現実は自分が考えている以上に厳しい。友人も厳しい。



2005年2月7日 レポートはコピー派

比較的社会派。

面倒くさいレポートをやっと仕上げ、しばしの開放感に浸る。この瞬間を楽しむためにレポートをやっていたと言っても過言ではないが、特に内容は覚えていないので勉強にはなっていない。

これを仕上げるに当たっては様々な苦労があった。

家に帰ってくるとやる気が失せてしまうので学校でやることにした。しかも無駄がないように講義の時間にやることにした。時間の有効利用だ。どうせ講義なんて聞いていてもほとんど覚えていないし。

また自分で一から作り出すよりも、先人の残した偉大なる功績を活用した方が効率、質、共に向上することは明白だ。それは手塚治虫の残した「漫画の基本」というものを使い続ける現代の漫画家からも読み取れる。

なので先輩の過去に作ったレポートを拝借してきた。
ちなみにこの先輩のレポートもさらに先人の知識をふんだんに使い作製されたものだ。受け継がれていく偉大なる意思。

そんな風に「どうせ覚えていない講義」を犠牲にして「もらったレポートを写し」つつ、「勉強にはならないレポート」を仕上げた。

この問題の根本はどこにあるのだろうか?大学か、各個人なのか?

その答えは未来の大学生に委ねるとして、自分は残りの学生生活を思い切り楽しもうと思う。これこそ自分のできる最善の方法だ。受け継がれていく偉大なるダメ意思。



2005年2月6日 するなら金をくれ

駅のポスターに「NOポイ!」と書いてあった。

NOポイ捨て、ということが言いたいのはわかる。ポスターの絵も「タバコに大きく×」がついたものだ。ポイ捨てするな、という意味で間違いないだろう。

しかしなぜ「捨て」の部分を捨てたのかわからない。あとたった二文字だろう。書いてしまえばいいのに。

二文字を捨てたプロセスを順を追って考えてみる。

何に対しても略して言いがちな現代。
モーニング娘。はモー娘。であり、吉野家の牛丼は吉牛であり、藤岡弘は藤岡弘、だ。最後のは違う気がするが気にしない。

しかしこの方法を駆使すると「ポイ捨てするな」は「ポイする」となってしまい意味が反転してしまう。なので「するな」という意味をNOとして「ポイNO」

あとは語呂を良くするために「NOポイ」となる。

ついに納得にいたる「NOポイ!」

まもなくテストも始まるというのにこんなことを真面目に考えてしまう自分。 しかし学生といえど紙の上の勉強だけではダメだ。社会の構造を理解し、自分の理論を構築、表現できなくては、一人前の社会人とはいえないだろう。

自分は一人前の学生にすら遠い気がするが気にしない。NO気遣い!(同情するな)



2005年2月5日 トラック増幅器

路肩に止めてあるトラックが怖い。

自分が小学校低学年の頃、友人と遊んでいた。なにをしていたのかは忘れてしまったが、道路を走り、騒いでいた。道の端にはトラックが止めてある。
友人がその横をトラック前面部から走りすぎようとした、その時

バーンとトラックのドアが開き、ドーンと友人はドアに当たって、ゴロゴローッと地面にふっとばされた。自分は擬音表現のカリスマだ。

トラックからオッサンが出てきて「大丈夫か?」と聞くと友人は少し痛いと言いつつも「大丈夫だ」と返事を返す。
そのままオッサンは安心してトラックでどこかへ行った。

それ以来路肩に止めてあるトラックの横を通るのはビクビクものだ。もはや大人になり視界も高くなって、トラックに人がいるかどうかも確認できる。しかし怖いのは治らない。別に自分が当たったわけでもないのに、トラウマになってしまったようだ。

テクテクと大学へ歩き、ドドーンとトラックが止めてあると、ヒィィィとビクつきつつ、コソコソコソと横を通り抜ける自分。

普段から比較的不審人物オーラをかもし出しているが、トラックの横では倍増されてしまう、自分という人間の持つオーラ。



2005年2月4日 ビーリングヒューマン

一杯目はビール、二杯目は発泡酒がうまい気がする。

一杯目に発泡酒を飲むと、なんかちがうなぁ、と思ってしまう。やはりスタートは大切だ。けちけちせずビールを飲みたい。

しかし二杯目になると今度はビールが少しずつ少しずつ苦くなる。
二杯目は発泡酒がいい。ビールよりも飲みやすく、スルスルと飲んでしまえる。

これが毎日一人でビールを飲む男が出した結論だ。俺は違いのわかる男に一歩近づいた。

毎日一人というのも味気ないので、友達なんかを誘って飲むことにした。
そこでこの「違いのわかる男」っぷりをズバッと披露したのだ。てっきり羨望の眼差しが自分を包み込むのかと思いきや

友人「お前毎日一人でビール飲んでるのかよ。もうダメだな」

これが毎日ビールを飲まない健全な大学生が出した結論だ。俺はダメ人間に一歩近づいた。



2005年2月3日 片思いのように純粋に

今日は大岡越前の日だ。

1717年の2月3日、大岡越前守忠相が南町奉行に就任した。なので今日は大岡越前の日らしい。無理矢理感が否めない。
そして少し彼の情報を読むと、在任中19年間の裁判は3回であり、そのうち彼が執り行ったのは1回だけらしい。

俄然盛り上がってきた。

調べると、大岡越前TVシリーズは第15部までやっている。しかし彼の裁判は3回。
第15部合計402話あるTVシリーズ。しかし彼執行の裁判は1回。

す、すごい。たった1回の裁判を402話に引き伸ばすとは。

次回の大岡越前TVシリーズがいつ放送されるのかはわからないが、テレビの前で無駄に興奮しながらその日を待とうと思う。しかし裁判シーンはないだろう。なにせ1回だけなのだ。

自分としては第20部当たりであきらめて裁判シーンをやってしまうと睨んでいる。

その日が来ることを待ち望みつつ、来てしまったらなにか物悲しさが漂ってしまうだろう、大岡越前の裁判シーン。恋愛のような高揚感と、祭りの後の寂しさを同時に与えてくれる大岡越前執行の裁判シーン。

節分の日という隠れミノの中でじっとそのタイミングを計り続ける町奉行に、密かな想いを寄せる自分。



2005年2月2日 無事故無通報

昨日のテキストのような格好をして、昼間からうろついている。

ダボダボズボン。坊主。ヒゲ。これだけでも怪しいのに、若い男の昼間の徘徊。決定的に怪しい。真冬にサンダルをぺたぺたさせて歩いたりもしている。

しかも結構他人をじろじろ見がち。ブログのネタになるかなぁと思ったり、単純におもしろいなぁと感じたりして、見てしまう。
しかし気が弱いためか後ろめたいのか、相手がこちらをみたら、サッと視線を外してしまう。

怪しすぎる。

どこかに座ってタバコを吸ったりもしている。携帯灰皿を横に置き、ぷかぷかタバコを吸う自分。手には携帯電話を持ち、おもしろかったことなんかをメモしている。

こうして書いてみて改めて実感する自分の不審人物オーラ。

普段「笑い」というものを心がけてここのテキストを書いているが、現実の世界では一切笑えない自分の姿。通報だけはなんとか免れて現在に至っている。



2005年2月1日 管理人の外見想像結果

よく他人から「パチンコ屋に行くファッションしてるよね」と言われる。

上着はパーカーやセーターなどと、比較的様々な服を着るのだが、下はもう完全にダボダボジーンズだけ。そしてサンダル履き。
タバコを吸いつつコーヒーを飲んだりする。

そう客観的に書いてみて感じる自分のパチンコファッション。そんな言葉があるのかないのかわからないが、なぜか納得してしまうパチンコファッション。
実はあごヒゲも伸ばしがち。これぞ無精ヒゲというヒゲだ。

「この格好で就職面接行ったら、100%落ちるよな」と友人に言わしめる自分という人間の普段の外見。このブログを覗いていただいている方たちは、私ポップスパをどんな外見だと想像していたのか気になりますが、自分はそんな姿です。

しかも自分は坊主頭。親戚一同が集まる席で言われた一言は衝撃的だった。

親戚「やくざの鉄砲玉みたいだね」
(注:鉄砲玉「下っ端の使い捨て構成員」)



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