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2005年3月31日 メロンパン革命

『おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。』

僕はこの糸井重里さんが魔女の宅急便につけたコピーが好きだ。でもどうして好きなのかとかは考えたことがないので聞かれても困る。

コピーを考える上で「当たり前のこと」を書くのが一番難しいと聞いたことがある。僕なんかは結構他人からの情報を、ふーんそうなのかと手放しに信じてしまう節が多々あるけれど、これも例に漏れず、ふーんそうなのか、と信じてしまっている。なにせ僕はコピーを考える仕事をしたことがないんだから、それが本当に難しいかどうかを検証することはできない。

落ち込んだりもしたけれど私は元気。

そりゃあ誰でも落ち込む事だってあるだろう。でもいつまでも落ち込んではいられないから、よし頑張るぞと自分に鞭を入れ元気を無理矢理にでも取り戻さなくてはならない。そうしなくちゃなんにもできない。

どうやら『おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。』というコピーは当たり前のことを言っているようだ。きっと作るときはものすごく大変だったんだろう。

にゃんだすさんのという記事を読んで、僕はうーんと考えさせられた。ここにほぼ全文を勝手に記してみる。


     ローソンのメロンパンを食べた。
  ちゃんとメロンパンの味がした。結構美味しかった。


僕は普段パンを買うときに、パッケージというか包装袋に何が書いてあるかなんて特に見ていないんだけれど、もし実際にこのにゃんだすさんの文章がローソンのメロンパンの袋に書いてあったら「ふーん、ちゃんとメロンパンの味がするのか、すごいな」とぶつぶつ言いながらひょいと手に取り、お茶かジュースなんかと一緒にレジに持って行ってしまうと思う。

いやもちろんメロンパンがメロンパンの味がするのは当然なんだけれど、改めて「僕メロンパンの味がしますよ」と言われると、なんだか新鮮な気持ちになる。結婚して結構時間が経ち、もうお互いわざわざ好きだとか愛しているだとかを言い合ったりはしていなかったんだけど、ある時にボソッと好きだよと言われた時の感覚に近いんじゃないかと思う。もちろん僕は結婚をしたことは無いので、自分勝手な想像、妄想に過ぎない感情なんだけれど。

今の当たり前がいつまでも当たり前ではない。僕が今21歳なのは当たり前だけれど、いつまでも21のわけじゃあない。「当たり前」の風景をコピーとして切り取るということは「今」を必死に見ていなくちゃあできないんじゃないの、と糸井重里さんのコピーとにゃんだすさんの文章を読んで考えさせられた。

でも明日いきなり当たり前が当たり前ではなくなって、メロンパンが辛くなっていたりしたら僕はものすごく驚くけれど、それは「今の当たり前がいつまでも当たり前ではない」ということが当たり前なんだからきっとたいしたことなんじゃあないんだろう。

それはそうと辛いメロンパンってちょっといいと思うんだけど。良くないか。



2005年3月30日 八方美人の方がやっぱり便利

僕は低反発枕に嫉妬しているのかもしれない。

何事にも一生懸命で、持てる全ての力を使うのだけれど、空回りして、結局成果がでないということはある。必死に好きな娘にアプローチしたんだけれどダメだった、テストのために苦手教科を必死に勉強したんだけれど5教科トータルで考えたら失敗だった、なんてことは珍しくない。

適度に力を抜くことは大切なのだろう。

気があるのか無いのかよくわからないようなアプローチをしてみたり、1教科集中して勉強するのではなく5教科を広く浅く勉強した方が良い結果にはなりやすいと思う。

そう考えると低反発枕が今ちやほやされていることに納得がいく。

反発しすぎてもダメ。全く反発しなくてもダメ。適度に、低反発だからこその低反発枕の優等生っぷり。

力の限り、持てる全ての力を駆使して「寝ている人にふかふか感を味わってもらうぞ」と必死に反発させ、反発させ、反発させても『なんだよ、反発しすぎだよこの枕。ダメだな』となる。
また逆に僕の使っている枕のように「はんっ、反発するのが嫌なんだろ。じゃあまったく反発させないよ。めんどくさいし」と諦めきっている全く反発しない枕もあまり快適だとは言えない。

そんな中現れる救世主。
「めんどくさいから、一生懸命やっているように見せて、バレない程度に力を抜いとこう」

そう考える低反発枕。彼は世間から一番信用を得ているエリートだ。

僕は根がひねくれているのか、そんな万能な存在よりも、欠点はあるがなりふり構わず一生懸命になる過剰反発枕や、もうだらけきってしまった無反発枕の方に親近感を覚えてしまう。
寝辛いけれど。

過剰反発枕にも無反発枕にも、世渡り上手なんかにならずに今の方向性を貫いてもらった方が、僕なんかは好きだ。
寝辛いけれど。



2005年3月23日 ボナパルトさん

一日に三時間しか寝ていないナポレオン・ボナパルト。

大学は今春休み中なので、就職活動のない日はもうまったく用事がない。なので何時まで寝ていようが問題がない。人としての問題ならある。

僕は睡眠を多くとらないといけないタチで、8時間眠ってもまだまだ眠い。目覚ましがなければ12時間は眠ってしまうだろう。この計算だと僕は人生で40年くらい眠ることになる。眠れる森の美女ならぬ眠れるアパートのバカだ。

それなのにナポレオンさんは一日わずか三時間。
なんだか筋トレグッズのテレビショッピングみたいだ。一日わずか五分。

ああ、ナポレオンすげぇな。ボナパルトすげぇな、と思っていたのだが、どうやら彼はしっかり昼寝をしていたらしい。(wikipedia『ナポレオン・ボナパルト』参照)

そうか、あのナポレオンですら昼寝をしていたんだ。なら僕が昼寝をしたって問題がないな。いやぁこれからは安心して昼寝ができる。

そして昨日は十二時間寝たけれど昼寝を三時間した。

一日に九時間しか起きていない男。彼の名はポップスパ・ボナパルト。



2005年3月22日 情報取捨能力の重要性

冷蔵庫は内側から開かなくない。

友人がさも当然のように言い放つ。「冷蔵庫は内側からは開かないよ」と。僕もなんとなくだが他人からその話を聞いたことがあったために、漠然とその時は信じてしまったが、気になって調べてみた。グーグルに検索ワードを打ち込んだだけだけれど。

どうやら結果は開くらしい。

過去にかくれんぼとして冷蔵庫の中に隠れてしまった子供がいたらしく、その痛ましい事故をきっかけとして「冷蔵庫を安全にしようぜ」となったようだ。事故当時の冷蔵庫はロックが付いていた。しかし今の冷蔵庫のドアは内側からでも開くように想定されているとのことだ。

たしかに冷蔵庫にモノをいっぱい詰めると勝手にドアが開いていることがある。うん、簡単に証明できた。

情報取捨能力はとても重要なものだ。どの情報を信じ、また否定するのかは個人でやらなくてはならない。それによるあらゆる不利益は自分の責任となる。現代はきびしい。

訴訟大国アメリカで、猫を電子レンジで乾かそうとしたら猫が死んでしまって「てめぇコノヤロー。レンジの説明書にはどこにも猫を入れるなって書いてねぇじゃねぇか。賠償金払え!」という裁判があった、という話を聞いたことがある人もいるだろう。

これはウソだ。行き過ぎたPL法を皮肉った話として広まったものである。

また有名なナポレオンの絵があるが、彼はどうやら馬に乗れなかったらしい。実際の彼はロバにまたがり戦場を駆け巡っていたのだという。それじゃあ絵にならないからかっこよく白馬に乗っている姿を描いたのだろう。

ちなみに僕は、冷蔵庫は内側から開かないと思っていたし、猫をレンジに入れておいて賠償金が取れるなんてアメリカってふざけた国だよねと思っていたし、ナポレオンて白馬にさっそうとまたがってかっこいいよなと思っていた。

最後に「僕はとてもピュアなんですよ」ということが言いたかったのだが、バカを露呈しているだけになってしまった気がする。気のせいであってほしい。



2005年3月21日 花見気分には遥か彼方

僕のビール好きは有名なのでいちいち言わないけれど、僕はビールが好きだ。

僕はビールが好きなので、ふとビールが飲みたくなった。僕はとてもビールが好きなので、コンビニへ行き、ビールをもってレジへ行くと、そこにはおでん。僕はとてもビールが大好きなのでおでんも買って家へうきうき気分で帰った。

部屋に着くとおもむろにおでんを開ける。いやしかし待て。僕よ待て。

たしかにおでんはおいしい。それを友にビールを飲んだらうまいに決まっている。しかし風呂上りならさらにうまいのではないか。それもあっつあつ風呂ならもう「クァー、風呂上りにはビールだぜチクショー」とエセ江戸っ子みたくなってしまうくらい美味しいのではないか。

僕はビールのためなら手間を惜しまない人間なので、もうとことん美味しくビールを飲むために、まずこたつを強にして、エアコンをつけて、お風呂を沸かし、おでんも煮なおした。もちろんビールはインザ冷凍庫。

沸いたお風呂に入る。う、熱い。しかしビールのためだ。
風呂から上がる。涼しい廊下が天国のようだ。
部屋に入る。む、蒸し暑い。エアコンが・・・。
ビールを冷凍庫から出して、おでんを器に入れ、こたつに入る。うがー、熱いー!

ビールを開けようと缶を持つ。その瞬間頭がふらっとして缶を手から落としてしまった。ガンッとこたつに当たって、「うわー、おでんがこぼれるー」と必死におでんを守る僕。まだ頭はボーッとしていたが必死だった。

熱すぎて気持ち悪い。おでんなんか見たくもない。涼しい廊下がいい。

ふらふらと缶ビールを手に廊下にでるとそこはまさにヘブンという名の天国だ。ビールも冷たくておいしい。そうだ、おでんも廊下に持ってこよう。

そういう経緯があって、僕は廊下で一人おでんを食べているわけです。皆さんも真似をしたらいいと思います。



2005年3月20日 行き当たりばったり世界王者

数日前、東京に行ってきた。

人間観察が趣味という悪趣味な自分なので、東京はとても楽しい。どこにいても人間が溢れているのできょろきょろきょろきょろしてしまう。もう挙動不審の名をほしいままだ。

あのビル群も大好きだ。コンクリートジャングルと形容されることもあるが、ジャングルにはまだジャングルの秩序があるように思う。しかし東京のビル乱立に秩序があるとはとても思えない。無計画に適当にでかいのを、どーん、またどーん、という風に立てただけだろう。

完全に行き当たりばったり。

僕も結構行き当たりばったりな方だがあそこまで行き当たりばったりではない。せいぜいブログの更新テキストを行き当たりばったりに書いているだけで、人生についてはもう少し慎重に考えている。それでも他人から見たら相当な行き当たりばったりだけれど。

東京というバカデカイ先輩がいる限り「僕の行き当たりばったりはまだマシな方だろう」と思うことができる。うん、僕はまだ大丈夫だ。

一平凡な人間である僕と、都市である東京を比べ始める地点で僕はもう相当な行き当たりばったりだと思う。そして特にオチも考えていないのにこれだけテキストを書き続けてしまった。

うーん、じゃあ・・・はい、テキスト終わり。



2005年3月19日 獅子狛犬

あ、うんの狛犬だったとしたら僕はうんの方がいい。

それが怒りを表しているとか、万物の始まりから終わりを表しているとかいうのはよくわからないが、ずっと口を「あ」と開け続けているのはとても疲れてしまうことはわかる。

ためしにこのテキストを書いている間中、「あ」と口を開け続けてみている。

そろそろあごが痛くなってきた。文章にも集中できない。キーボードを打つだけでも辛いのに「あ」と口を開けたまま神社を守れる狛犬はすごいと思う。僕には無理だ。

「この口を開けているのを万物の始まり、閉じているのを終わりにしよう」
そう考え出した人は、デザインのことばかりに気を取られてしまっていると思う。奇抜なだけで住み辛そうなデザイナーズマンションを思い出してしまう。

僕の口からよだれが垂れそうになってきた。辛い。

「へぇ、これが狛犬か。ふーん」
そう感じるのは悪いことではないと思うが、もうちょっと口を開け続ける辛さを皆、考えたらいいと思う。

完全に口の中が乾ききって下唇からよだれが垂れてしまった男より。



2005年3月18日 良いことなのか悪いことなのかの判断に苦しむ僕の習慣

よくお賽銭を入れる。

僕は結構小銭をこまめに使う人間だと思っているけれど、それでも全部の小銭なんて到底使えない。5円や1円は余ってしまいがちだ。

財布がぱんぱんになるとポケットにも入れづらくなるし、他の100円や10円玉などといった使用頻度の高い小銭まで取り出しにくくなる。その状態はとても不便だ。

僕の家の近くには神社がある。そこには当たり前だがお賽銭を入れる箱もある。

「小銭が多くて不便だなぁ」
賽銭箱の前でおもむろに財布を取り出す僕。
小銭要れから500円玉、100円玉、50円玉、10円玉を取り出して、のける。
賽銭箱の上で財布をひっくり返す。
ザー、チャリンチャリン。
「うん、便利」

これだけバチあたりなお賽銭もなかなかないと思う。



2005年3月17日 エイーゴペラペーラ

英語はわからないのに「あの人英語がうまい」とか感じてしまう。

僕は英語の正しい発音なんてわからないし、文法もわからない。だけど「一見外国人」の人が話す英語はとても上手だなと思ってしまう。

さっぱり聞き取れていないし、文法をチェックしたわけでもないのにそう思う。

例えばドイツ人の男性がいたとして、彼がまったく英語を話せず、しかし英語を適当にべらべら喋っていても僕は「ああ、この人英語がうまいな」と感じてしまうだろう。

多分「何を言っているのかわからない」というのが基準なんだろう。自分が英語を知らないが為に「自分が理解できたら下手くそな発音。自分が理解できない発音こそ正しい」と思い込んでいるんだと思う。

これは結構みんなそうなんじゃないか。

いつか外国へ行く機会があったなら、適当なドイツ語なんかをちょっと大きな声で話したりして優越感を味わおうと思う。僕の会話が聞こえる範囲の人に「アァ、コノジャパニーズ、ドイツ語ウマイワ」とか思われるのだ。

そんな夢を抱き続けている。



2005年3月16日 下町のナポレオン

彼の「通」の基準が知りたい。

僕はビールばかり飲んで、あんまり焼酎とか日本酒は飲まない。あとワインのどの辺がフルーティーなのかを教えてもらいたいと思っている。フルーツワインが甘くておいしいのはわかるけれど。

友人宅でぐだぐだしていると、酒でも飲もうという話になり、友人がいいちこを冷蔵庫から出してきた。男二人、夜中のナポレオンだ。

ビールもなにもなくいきなりいいちこは正直きつい。でも冷蔵庫にはそれしか酒はないし、僕の財布にはなぜかお金がないしで、結局それを飲み始めた。

つまみはサラミが少しあっただけ。それもすぐなくなってしまい、どうしようかと討論すると友人曰く

「塩をつまみに日本酒を飲むのが通だ。でも家に塩はないからのりまたでいこう」

小皿を出してきて、おもむろにのりたまの袋を傾け、さらさらと黄色や黒の粒がこぼれ、小さな山が出来上がった。それを見て友人は満足そうに
「のりたまをつまみに焼酎を飲むなんて、俺達、通だな」

この時の僕の心情を必死に文章で伝えようと努力をしてみたが、僕にそれだけの表現力はない。これを読んでいる人は、いいちこを買ってきて、小皿にのりたまを山盛りにしてもらいたい。食べてもいいつまみはそれだけだ。

上記のものをしっかり用意してくれた人は微妙な僕の心の動きが見て取れたと思う。



2005年3月15日 ゴッホ作ひまわり

絵が表現していることがわからない。

ピカソがすごいのはわかる。ダリもすごいのはわかる。だけど彼らの絵が何を表現しているのかとかはわからない。もしかしたら何にも表現していないんじゃないの?と考えることもあるくらいの芸術感性ゼロっぷりだ。

なんかくねくねしたのを「これが生命の営み、つながりを表してまして」とか言われても、僕にはただのくねくねにしか見えないし、「横顔と正面から見た顔と、後頭部を同時に見た絵」とかピカソの絵を解説されても、わかったようなわからないような、昨日食べた晩御飯がなんだったかな、と考えるようなそんな顔をすることしかできない。

「ゴッホのひまわりが50億円で売れた」

そんなことを言われると、うーんゴッホはやっぱりすごいな、と思うと同時に、50億円を払う人もすごいなと思う。正直ゴッホよりもすごいと思ってしまう。

ゴッホがもし生きていたら
「うそ!50億。・・・いや俺はうれしいけどさ、お前バカじゃね?・・・ウソだろ?」
きっとそんなことを言いつつ半笑いになると思う。


「50億円だと!ふざけんな、安すぎるよ」
そう反応してくれたほうが「手の届かない天才画家」という感じは出るが、おそらく反応は前者であると思う。しかしどっちにしても絵を買った人に対してゴッホはお礼の後、確実にこう言うだろう。

「あの・・・50億はうれしいですけど、その絵が表現していること、わかります?」

次は絵を買ったほうが半笑いになる番だ。結局お互い半笑いのまま絵の商談は終わってしまうと思う。



2005年3月14日 宵っ張りの朝寝坊

やあこんにちは。僕は今、宵っ張りの朝寝坊なので大変です。意味はわからないけど適当に使ってみた。

みんなが待ちに待った「ことわざの意味を勝手に考えてみよう」のコーナーをまたやってみる。読者のニーズに答え、それを一番健全な形で提供するブログ、それがここポップコーンスパだ。ちなみにこれをやるときはネタが思いつかなかった時なので、その点でも楽しんでもらえていると思う。「あ、コイツネタなくなりやがったな」そう思ってくれればいいと思う。

今回のことわざはタイトルにもある『宵っ張りの朝寝坊(よいっぱりのあさねぼう)』だ。張り手を食らわしたくなるほど意味がわからない。宵っ張りの張りと張り手の張りが掛けてあります。きっとわからないと思ったので説明しました。

意味を考えていこうと思う。

まず「宵」だが、これは日が暮れて間もない時間を示す、宵の口という言葉だろう。「張り」は意地っ張りの張りなんじゃあないだろうか。「朝寝坊」なんて考えるまでもなく朝寝坊だろう。

これらを全て踏まえると『宵っ張りの朝寝坊』とは「日が暮れているのに意地を張って起き続けた挙句、結局朝寝坊をしてしまう」という意味なのではないか。

情景を思い浮かべると、それは小学生。
「今日は大晦日だから、僕、朝まで起きてることにするよ」
そんな風に威勢がいいのは宵の口までで、「ま、まだ眠くなんてないよ。大丈夫」と深夜まで意地を張り続けるが結局寝てしまい、朝、寝坊をする。生意気だがかわいくもある瞬間。その瞬間を切り抜いたことわざ『宵っ張りの朝寝坊』

このことわざはそんな子供を見て感慨深くなる両親の心情を表しているのだと思う。

どう考えてもこれで意味が正しいとしか思えない。あーあ、また当たっちゃったか。いつも当たっちゃって結局僕の知的な部分が目立つだけのコーナーなんだよなぁ、これ。

ま、一応正しい意味を見てみるか。そういう決まりでやってきたしね。どうせ僕ので当たっていると思うけどさ。

『宵っ張りの朝寝坊』
夜更かしばかりして、朝起きられないこと。また、そういう人。
(ダイソーミニ事典シリーズ『新ことわざ事典』より抜粋)

「僕が当たってるよフフン」と壮絶に前フリをして、答えを見たらはずれていて「うわーハズカシー!」となる予定が、結局本当に当たってしまって恥ずかしい。



2005年3月13日 アイドルとにらめっこ

松浦亜弥と目が合う日々。

いままで愛用していた置時計の電池がなくなってしまい、家を出ると電池を買わなければいけないことが頭からふっとぶので、携帯電話を時計として使う日々が続いていた。

そこで思い出したのが、数週間前に就職活動の為スーツを買った時にもらった粗品の小さな箱。それを開けてみると中には松浦亜弥がドンとプリントされた目覚まし時計。

「・・・うーん、さすがにこれはちょっと・・・」

そう思いつつ、ちょうど時計に困っていたしと、電池を買うまでのつなぎとしてそのあやや時計を使い始めた。テレビの上に、骸骨フィギュアの隣にポンと置いておくことにした。松浦亜弥もまさか骸骨と坊主大学生に睨まれる羽目になるとは思っていなかったと思う。

それから数日。いまだにテレビの上には松浦亜弥。骸骨と松浦という取り合わせというのも結構カッコイイかなと思い始める感性崩壊っぷり。時計はもうこれでいいか。

毎朝あややに起こしてもらう大学生とは僕のことだ。他人の白い目を気にしないところが僕のいいところだと思う。



2005年3月12日 がんばれ自販機

アメリカには日本ほどジュースの自動販売機がないということを聞いたことがある。

真偽はわからないが、たしかに日本は自動販売機が多すぎるようにも思う。たとえ現状では多すぎないとしても、これ以上増やす必要はなさそうだ。

「コンビニエンスストアがこれだけあるのに、その上に自動販売機がこんなにある意味は?」

そう聞かれたら僕はきっと答えに詰まってしまう。沢山あった方が便利だろうとか、ジュースを買うためだけにコンビニに行くのは少しめんどうくさいとかいうことはあるだろう。でももし今、日本中から自動販売機が半分消えてなくなってしまったとしても、たいして変わらない気もする。

自動販売機はもう必要ないのだ。現状あるだけで大抵のユーザーの欲求を網羅することは可能であると思う。

ここまで書いて頭をよぎる「ホームページ」という言葉。
インターネットが普及し、今やホームページやブログというものが溢れているのだが、はてこんなに数が必要なんだろうか。ニュースサイトはもうあるし、天気予報もあるし、プロ作家が書いているおもしろいテキストサイトだってある。もうネット世界に新しいページなんて、これから設置予定の新しい自動販売機のように、必要ないんじゃないか。そんな見識が生まれてきてもおかしくはない。

現実にそうなったとしたら、真っ先に「ポップコーンスパなんて必要ないから閉鎖ね」とか言われてしまうので、もっと自動販売機は設置してもいいと思う。



2005年3月11日 ごめんなさいと謝ります

空気中の酸素濃度はおよそ21%程度だ。

これは東京のど真ん中だろうが、緑多いリゾート地だろうがほとんど変わらない。もし都会と田舎で酸素濃度がたった1%でも違えば、都会に行くたびに頭痛を引き起こすこともあるし、また失明する可能性すら出てくるのだ。

人間は生きるために酸素が必要であるがしかし酸素は人間にとって毒でもある。

勉強もしないで、他人からすればどうでもいいようなことにばかり熱中する人がいるだろう。ゲームばかりしていたり、漫画ばっかり読んでいたり、どうでもいいテキストばかり書いていたりするのがその典型例だが、ちなみにこの三つの例は僕の小学生時代と、中学生時代と、今を表している。高校生のときは漫画を読みながらゲームをしていた。アイムハイブリッドヒューマン。

しかし非生産的でどうでもよい、そんなことだって生きるためには必要なものである。緊張感は重要であるがしかし常に気を張り詰めて生きていくことなんか不可能だ。必要なだけ緊張をし、必要なだけ息抜きをすることが生活を楽しむコツなんじゃないかなと思っている。

しかし息抜きばかりではどうしようもない。息を吸わずに息を吐き出すことが不可能なように、息抜きばかりしていたってプラス面はなにもない。そんな息抜きは毒としての存在になってしまっているだろう。

僕のテキストは完全に「息を抜きすぎている存在」であるのでそれは高濃度酸素のようなものだ。読みすぎるとくだらなすぎて頭痛がしてくるし、「もうこんなくだらないテキストを見たくない」と体が拒絶して失明してしまうかもしれない。

頭痛、めまいが発症した際には閲読を中止し、医師または僕に御相談ください。



2005年3月10日 ○+○=3

人の数だけ答えがある。

中央出版のテレビCMでの一言。このCMの中で、日本は「3+3=○」という問題だけれどイギリスは「○+○=3」というように、自分で答えを見つけ出していく形式なんですよと紹介している。

確かに生きていく上で、これが正解、という選択肢があるケースは少ない。いや、ないと言っていい。最善の方法はあるだろうが大抵はそれすらも選ぶことができず、自分の選んだこの道は最善なんだ正解なんだと言い聞かせるだけで精一杯だ。

一つの事実に囚われず様々な角度から物事を見て、なるべく最善の方法を模索する。このトレーニングとしての「○+○=3」。この例題にも絶対的な正解は存在しないが、ある程度の答えなら多数存在する。このイギリスの算数例は、そんな現実世界の選択の難しさを養うことができるだろうと思う。

また逆に、この問題をやることで自分が現実世界でのどのような選択をしがちなのかもわかるかもしれない。1+2=3と書く人は無難であるが堅実な選択をすることが多い気がするし、また−15+18=3と書く人はひねくれてはいるが、他人の思いつかないような発想をすることが多い人かもしれない。

自分の場合なら『√7+√2=3』と書くだろうな。どうだ、思いもつかない角度から僕は物事を見ているだろう。ルート7とルート2を足したらルート9で、これは3だ。ふふん、俺すげぇ。

ちなみに今回のオチはわかりづらいですが、僕の計算が間違えているという点です。ルート7とルート2を足しても3ではありません。答えは約4.0599です。完全に間違えています。

つまり必死にいろいろな角度から見て「他人を出し抜いてやろう」と考えて出した結論は、認められることもあるが、間違えていた場合は身の破滅をもたらすことがあるということを示唆している。現実世界で「俺は一発当ててやるぜ。金持ちだ」と目指すよりも、サラリーマンで安定志向のほうが幸せになりやすいということなのかもしれない。

人の数だけ答えがある。間違いもある。



2005年3月9日 国家機密交換

『中古の浴槽を譲ってください』

家に勝手に入っているような情報誌の中の一文。他にはオレンジレンジのチケットを譲ってくださいとか、ノートパソコンを安く譲ってくださいというようなものの中で、それは浴槽を欲しがる人の叫び。魂からの叫びであるかもしれない。

「あー浴槽欲しい。そうだ、雑誌に『浴槽欲しい』って載せてもらおう」

こういう思考回路が形成されたことになるが、いったいどういう思考回路だ。しかも雑誌に載せるのはタダじゃあない。千円くらいなのかどうかはわからないが、それほどの手間を掛けて、お金を掛けて、他人の浴槽を欲しがる誰か。

一体なにが彼(彼女)をそこまで突き動かすのだろう。浴槽にどれほどの愛を込めようというのだろう。過去どれほどの浴槽を愛し、そして捨ててきたのだろう。話が逸れてきた。

なにかの教材にでも使うのだろうか。それとも純粋に自宅のお風呂に置くのだろうか。いや浴槽コレクターの可能性も考慮しなくてはいけないだろう。趣味も人種も多種多様だ。皆の理解がなくては人間社会は成り立たない。

でもきっと誰も「あ、私浴槽譲りますよ」とはならないと思う。受け渡す手間も面倒くさそうだし、なにに使われるのかわからないし。浴槽コレクター同士なら交換も考えられるが、日本にどれほどの数の浴槽コレクターがいるだろう。この可能性も廃棄だ。

『中古の浴槽を譲ってください』
この一文は、僕に意味はわからないが、暗号なんだと思う。『レイノオトコヲアスゴゴサンジソゲキセヨ』とか。また一週間後くらいに
『半年間使用した、便器を譲ります』
とか書いてあったら、これはきっと先の文章に対する返信としての暗号なんだと思う。
『ソゲキセイコウセリ・ホウシュウモトム』



2005年3月8日 おっさん奮闘記

歯医者に行くと込んでいて待合室に座る場所がなかった。

予約していた時間よりも少し早く行ってしまった僕の責任なのかどうかはわからないが、しかし別段気にせずポータブルプレイヤーで音楽を聞きながら、ソファーの横に立って僕の名が呼ばれるのを待っていた。

僕の一番近くで座っている人がそわそわし始めた。50代くらいの男性で、座って新聞を読んでいたのだが、ちらちらと僕のほうを見、なにか急用でもできたのか誰もいない歯科医の受付もちらと見て、また新聞に目を落とす。それは新聞を読んでいるというよりは日本語が読めず、羅列された字の並びをただデザインとして眺めているかのようであり、彼はまだ落ち着かない様子を見せる。

その中年男性はもしかしたら僕に席を譲ろうかどうか迷っているのかもしれない。僕は年相応に見えるから(さすがにおじいちゃんには見えない)、席を譲られた経験なんてないのだが、彼は「立っている人がいるのに自分は座っている」という状況にバツの悪さを感じているのかもしれない。

親切な人なのかなと、彼をちらちら見ていると、急に思い立ったかのように彼はソファーから腰を上げ、新聞を置いて、僕の方を向き、口を開く。
「ちょっと、すみません・・・」

そう言って軽く右手を上げる。僕の後ろにはトイレの入り口への狭い通路。僕が立っていたために通路が塞がり、僕にどいてくれとその男性は言ってきたのだ。

彼がトイレに入った瞬間に「○○さん、どうぞ」と声がかかる。待合室にいた数人は誰もその声に反応しない。おそらくその名は今トイレに行った中年男性の名なのだろう。トイレから出てきた男性は、もう一度呼ばれた同じ名前に反応し、奥へと消えていった。そわそわしていたのはトイレに行きたかったからで、受付をちらちら見ていたのは、自分の名前がもうすぐ呼ばれるかもしれないと危惧してのことだったのだ。

僕は自分の的外れな思考を笑い、また耳元で鳴り続ける音楽に意識を集中した。

今回の内容をまとめると、おっさんがトイレに行きたくてそわそわしていた、ということだけだ。



2005年3月7日 シーチキンは二度とやらない

普通のカレーを作った。

カレーを作るといっても市販のルーを使うので、味はいつもほとんど変わらない。たまねぎとにんじんとじゃがいもを買ってきたら、あとは適当に切って入れるだけだ。僕のカレーは料理とレトルトの境界線に立つような存在だと思う。

出来上がったので食べた。うん、普通。

今回は普通の味を作り出すことに成功したが、一年位前にカレーを作ったときに、余っていた賞味期限ギリギリの100%オレンジジュースを入れたことがある。カレーは野菜が多く入った方がおいしいし、リンゴだって入れるんだから、オレンジでもおいしいだろうと、ドボドボと入れた。そのカレーは水とオレンジジュース比率が1:1程度になってしまったと記憶している。

ジャワカレーの辛口がカレーの王子様になった。

そのまた前にカレーを作ったときは、シーチキン缶が余っているのを思い出し、ぶちこんだ。どうせカレーなんてなにを入れてもたいして味は変わらないだろうという開き直りからの行為だったが、僕はカレーの牙を知ることになる。

というかシーチキンの油ごと入れた僕が馬鹿だった。めんどくさいからと油を落としもせず、缶を開けて、鍋の上で逆さにし、ドボンと入れた。

油プカプカ生臭カレーだ。

普通であることの難しさ、重要性。あなたは普通を見くびってはいないだろうか。今の日常に満足せず、ただ上ばかりを見て、非日常に憧れてはいないだろうか。幸せはもう、あなたの手の中にあるのに、あなたはそれに気付いていないだけなのかもしれないのに。

「ハンッ、普通がいいわけないだろ」と感ずる諸君はカレーをオレンジジュースで作ってシーチキンを油ごと入れてみたらよい。さすれば今までの日常が突然牙を向く瞬間を目撃できるであろう。



2005年3月6日 感動したい人必見のブログ

僕のテキストは感動巨編だ。

悲しくも起きてしまう辛い事実、続く不幸、しかし失わない明るさと希望、ついに訪れる幸せの時。
これらの要素を全て満たしている文章があったとしたらどうだろうか。それが感動巨編であることは疑いようのない事実だろう。ハンカチ片手でなければ読めない、世代を超えて薦めたくなるような文章だ。

「お前の文章のどこが感動だよ。お前馬鹿じゃね?」と思ってしまったあなたはせっかちさん。要素を一つ一つ検証してみたいと思う。

まず悲しくも起きてしまう辛い事実だが、僕のテキストはいつも呪われているかのようにくだらない、ためにならない、意味がない。これを辛い事実と呼ばずしてなんと呼ぼうか。

そんな僕のテキストを読むと必ず訪れる、時間を浪費したなぁという後悔の念。この不幸は続いていく。

しかし明るさだけは失わない。希望だけは抱き続ける。大学生にもなって「宇宙飛行士になりたいなぁ」とか思ってしまうほどの楽観主義。僕以上におめでたい人なんてそうはいない。

そんな僕のテキストにもついに幸せが訪れる。ウソでもなんでも「おもしろかったですよ」というコメントが寄せられるのだ。いつもいつもありがとうございます。

どうだろうか。一つ一つ検証していくことで証明された『僕のテキストは感動巨編』という驚愕の事実。全ての要素を満たしているんだから紛う事なきこれは事実なのだ。

はい僕馬鹿です。



2005年3月5日 日常風景で失笑を買う

会社説明会前日の午後。

僕はスーツを持っていない。翌日は会社説明会。さあスーツを買いに行こう。これはそんな僕の会社説明会に向かうまでのドラマである。これはプロジェクトXのオープニングのパクリである。

外には雨がちらついていたので、友人を呼んで車を出してもらった。そして紳士服店に入る。中には数人のお客さんと店員さんの姿があり、その中に黒や紺色のスーツや白いワイシャツなどが満員電車のようにひしめき合っている。男性用と女性用は区別して置かれているので痴漢被害はなさそうだ。

一人の店員さんが僕を見つけ「どのようなご用件で」と聞いてくる。僕はリクルートスーツが必要なんだと伝え、店員さんに売り場を案内されて、スーツを一つを選んだ。そして革靴も買おうとすると店員さんが「靴をご購入いただけるのなら、ある一定の値段までのネクタイとベルトをタダで付けますよ」と言うので買うことにした。一つ買うと何個も付いてくるテレビショッピングみたいだ。

店員「ではこの中からネクタイをお選びになってください」
自分「別にどれでもいいですよ。似たようなデザインだし」

店員「ではお好きなベルトをお選びになってください」
自分「別にどれでもいいですよ。たいして変化ないし」

そんな決断力を見せつけつつ、一応の就職活動用品一式をそろえた。これで就職は僕のものだ。しかし店員は裾上げなどの都合で後日受け渡しの旨を僕に告げる。

店員「それでは受け渡しは4日後程度でよろしいでしょうか」
まったくよろしくないです。なにせ会社説明会は16時間後だ。

自分「ええと、なるべく早くスーツが必要なんですけれど」
店員「そうですか。それでは2日後などではどうでしょうか」
自分「会社説明会は明日なので今ください」

ストレートに思いの丈を口に出せる勇気満点の僕に対して、店員さんは「コイツアホだな」という思いを顔には出さず「かしこまりました」と一言。目は完全に僕を馬鹿にしていた。被害妄想というか自業自得だ。

一部始終を傍から見ていた友人が一言つぶやく。
「お前就職する気ないだろ」

しかも「お前の買い方はやる気がなさ過ぎておもしろい」とも言いやがるので、そのスーツ購入プロセスをテキストにおこしてみた。スーツはその場でもらえ説明会には間に合ったが、友人の、僕のただの買い物風景がおもしろいと言い放った一言はいまだに腑に落ちない。



2005年3月4日 カゴメさん好き好き

僕の体の大黒柱は野菜生活

普段の食事はインスタントやレトルト中心なので、栄養価なんてゼロに等しい。しかし僕は健康志向なので、野菜生活を摂取することによりその不足部分を補っているのだ。エセ健康志向の名をほしいままにする僕。

一年の計は元旦にあり。僕の一生の計は野菜生活にあり。いやホントに栄養失調になりそうで怖い。

でもいつも同じものばかりだと飽きてくる。たまにトマトジュースや野菜比率の高いものを買って飲んでみるのだが、あんまり美味しくない。野菜の苦味や酸味が強すぎてきついのだ。「うーんまずい。もういっぱいいっぱい」

その点野菜生活は飲みやすい。まさに野菜と果物のコラボレーション。野菜だけだとおいしくないし、果物だけだと栄養価が不足する。まさにお互いがお互いを助け合い、高め合っている理想の関係だ。

こんな美味しいものを作るカゴメさんはすごいですね。野菜生活すごいですよ。日本の誇る食品の一つなんじゃないですかね。スシ、テンプーラ、ヤサイセイカーツ。

もしカゴメの人事部長さんあたりがここを読んだらどう思うだろうなぁ。「お、こいつはカゴメに対する情熱がすごいぞ。ちょうど就職活動中みたいだしウチで雇ってみようか」とか思っちゃうかなぁ。

僕がカゴメの人事部長ならそう思っちゃうだろうなぁ・・・。



2005年3月3日 リスペクトザアンジャッシュ

くだらないですよ。

男A「俺、レース好きなんだよね」
男B『へぇ、僕もだよ。めずらしいね』
男A「そうか?レース好きなんて結構いるだろ。かっこいいしさ」
男B『そうだよね、そうだよね。うわぁ始めてだよ僕と趣味が同じ人』
男A「お前の友達でレースが好きなやついなかったのか。あんなに魅力的なのにな」
男B『なんで皆わからないんだろうね。芸術だよねもうあれは』
男A「お前わかってるな。そうなんだよ。あの形とディテールなんて芸術的にかっけーよ」
男B『そうそう。うっとりしてくるよね』
男A「動く様が目に焼きついてるよ、俺なんてさ」
男B『動きを見せるってのがプロだよね。実は僕、プロを目指したりしててさ』
男A「俺もだよ。技術は努力してさ、そして俺は記憶に残る存在になりてぇな」
男B『すごい夢大きいね。僕はもう諦めかけてて趣味のままでいいかな、なんてさ・・・』
男A「そうだよなぁ。やっぱり小さい頃からやってないと無理だよなぁ。英才教育でさ」
男B『英才教育ってほどじゃないけど、僕小さい頃からやってるんだよ』
男A「うそ、まじで!」
男B『うん。他人のを手伝ったりしててさ』
男A「お前、知り合いにレース関係者がいるのか!」
男B『う、うん。関係者っていうか、叔父さんが実際にそれで生計を立ててるからさ』
男A「すっげぇな。俺を紹介してくれよ。絶対がんばるからさ」
男B『いいよいいよ大歓迎だよ。絶対喜ぶよ』
男A「本当かよ。ありがとうな。やった、俺もこれで夢が叶うかもしれないんだ」

二人の男が出会い、そして夢を叶えるまでのサクセスストーリーはここから始まる。
ちなみに男Aがカーレースで男Bが編み物のレースです。



2005年3月2日 うんちく披露

光は波であり粒子だ。

そう結論されるまでには多くの議論を必要とした。光が波なのか粒子なのかの論争はニュートンの時代、西暦1600年頃から始まっている。

ニュートンは粒子説であったし、フックは波説を説いていた。お互いの理論は実験的には正しく、しかし「じゃあどっちなんだよ」と物議をかもし出していた。

結局「学問の神様であるニュートンが粒子だと思うなら粒子だろう」という最悪の結末を迎えることとなる。光が粒子であると考えると説明ができない現象があるにも関わらず、学問の分野でさえ肩書きに縛られていた。

時間は経ち「ニュートンだから正しいってことはないだろう。実験結果を見ろよ。どっちも正しいじゃん」と言う真っ当な意見が出てくる。

そしてついに結論「光は粒子であり波でもある」が導き出される。全く相反する二つの事象が重なっているにも関わらず、それで正しいのだ。

ちなみに電子も原子も分子も「粒子であり波」だ。貴方の体も、パソコンも、飛行機だって「粒子であり波」であるものからできている。世界は不思議だ。

固定観念に縛られてはいけない。あれがこうだから、こう。それがどうだから、どう。そんな風に「絶対的に一つ」である結論は間違えていると思う。ある部分ではこうだし、またある部分ではこう。それらが重なって、一つのものなのだ。

なのでカルーセル麻紀が男か女かなんてのは見当違いな討論なのだ。意味がない。相反する二つの事象が同居するなんてことは当然のことなのだ。たまにいるだろう。「カルーセルって結局男なの?」とか言う人が。

どうでもいいこと山の如し。このテキストの無駄に長いこと海の如し。



2005年3月1日 本当に言いそう

車高がものすごく低い車があるだろう。

僕の友人も、赤いスポーツカーで、無駄に車高を低くして、エンジンもボボボォォォォ!と正直近所迷惑な音がする車に乗っている。

あの車高の低さが理解できない。

友人「エアロパーツつけたほうがかっこいいだろ。車高低い方がさ」

うんたしかにそうかもしれない。でもあまりに車高が低すぎて、店の駐車場や立体駐車場に入るときにあるような小さな段差でも擦ってしまう。ガリガリと音を立てて削られるエアロパーツ。

友人「ギャアアァアァァ!」

エアロを擦るたびに絶叫する友人。なら外せよ。

友人「あの店に入ろうとするとエアロを擦るからもう行かない」
友人「あの店も擦るからもう行かない」
友人「あの店は正面から入ると擦るから裏から回って入る」

見た目と引き替えに存在意義が薄れていく彼の車。車を心配しすぎるあまり、しまいには家の前に飾るだけになってしまう可能性すらある。

友人「だって車に乗ったら汚れるだろ?」



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