マクドナルドは学生の味方。 時間をつぶさなくてはならず、なにをしようかと考えていると目の前にマクドナルド。今の時間は朝の九時。ちょっとお腹も減っているし、持っている本でも読めば時間もつぶせて理想的だ。 朝マックを注文し、テーブルに置く。少し本を読んでいると眠気が襲ってきた。 気がついたら12時半。 僕だけだったはずのお客さんも、いつの間にやら店中にいる。美味しそうにハンバーガーを頬張るサラリーマンから、何か書類作業をする女性まで。僕の机上には一口も食べてない朝マックと文庫本。コーラに入っていた氷は跡形もない。 「俺・・・朝マックという名目で売られているのに・・・。なんでこいつ昼に食べてんだよ」 そんな疑問を朝マック自身が持ったとしても、僕にはなにも答えることはできない。 毎日腹筋をせこせことやっている。 回数は最低30回ということでやっているのだが、最近なんだか腹筋が鍛えられてきたような気がしている。うーん、もしかしてこれちょっと腹筋割れてんじゃないの。 部屋で一人、上半身裸になり腹に力を入れる。 おお、すごい。 元々ビール腹解消のための腹筋だったのだが、筋トレが楽しくなってきた。 これからは毎日腕立て伏せもやろうか。 やはり良質なたんぱく質は多く摂取した方が良いだろう。鶏肉をメインに食事メニューを組み立て、プロテインも適宜摂取していこう。少し走り込みをし基礎体力も向上させた方が筋肉トレの効率もアップして良いかもしれない。休息も新陳代謝力向上には欠かせないだろう。 これで僕もムキムキマンだ。 そんな夢を見つつ頬張る、コンビニ弁当。 体に悪い食生活の見本市。 最近またカップラーメンばかり食べる生活になってきた。この食生活じゃいつか身を滅ぼす、と思い絶カップラーメン計画を発動したのは今年。もはや破綻している。 それでもカップラーメンに玉子を入れてみたり、ネギを刻んで入れてみたりと、栄養価を少しでも向上させるためにちょっとした工夫なんかをしてみている。 いや、やはりカップラーメンではだめだ。ネギなんて入れても誤魔化しに過ぎない。 でも最近まとめてお金使っちゃったし。就職活動の移動費とか滞在費とかも結構するしな。 それでもカップラーメンはだめだ。体を壊したらなんにもならない。カップラーメンくらい安くて楽で美味いものを食べるようにしなくては。 赤いきつねうめー。 靴を買おうと思って靴屋に行った。 歩きやすそうなスニーカーや、テニスシューズや、今の季節ではないけれどブーツもあるし、トイレで使うようなスリッパまで置いてある。 一足390円というものから2万円や3万円のものまで様々だ。 お、これかっこいいな。あ、これ履いていたら楽だろうな。そんな感想を抱きながら僕は靴屋を物色する。この靴を履いてジョギングでも始めようかなとも思う。 そんな僕の足元を見ると、そこには700円で買ったユニクロのサンダル。 ちょっと考える。最近僕は就職活動で履いた革靴以外に、このサンダルしか履いていない。ここ一ヶ月、本当にこれしか履いていない。ジョギングをする予定もないし、テニスをする予定もなければバスケットシューズを履く機会なんてもっとないだろう。 僕はペタペタと足音を鳴らしながら、靴屋を出た。 焼酎のウーロン茶割り。 平たく言うとウーロンハイなんだけれど、僕はそれを最近良く飲む。もともとビール一辺倒だったのだが、正直ビールなんていくらでも飲めるとまではいかないまでも、結構な量を飲まないと良い気分にはならない。 そこで考えたのが、1リットル百円のウーロン茶と、安い焼酎を組み合わせて飲むという方法だ。これなら結構飲んでも缶ビールを飲むよりも安く酔えたりする。 二杯目以降はウーロン茶比率を増やしていって、どんどん焼酎を薄くする。そうすれば安上がりだし、飲みすぎ防止にもなる。うん、完璧な飲酒計画だ。 ・・・僕が今ウーロン茶をそのまま飲んでいるのはそのためです。 五杯目にして焼酎とウーロン茶比率は0:10。 クール宅急便という定義。 冷凍されたものをそのまま送り感謝され、喜ばれたりする、クール宅急便。 しかしもしかしたら、冷たいとか冷たくないとかじゃなくて、配達してくれる人がものすごくクールであるだけの宅急便かもしれない。 ピンポーン。 家の人「はい、どなたですか?」 配達人「届けものだぜ・・・・・・」 家の人「はーい、ちょっとお待ちください」 配達人「・・・・・・・・・」 家の人「ええと、ハンコはどこに押せばいいですか?」 配達人「おいおいよく見ろよ。ここだろ。いったいどうしたってんだ」 家の人「・・・・・・すみません」 配達人「まぁそんなこともあるさ。これからは気をつけな。じゃあな」 そんな、一部のコアな人にのみ受け入れられる、クール宅急便。 もちろん配達するのは、黒いスーツを身に纏い、黒い帽子を深くかぶって、無精ひげを生やして煙草を吸っている、そんな男。 要は次元大介だ。 「クール=次元大介」という僕の思考回路。 僕はよく忘れ物をする。 傘を店先に忘れることなんてしょっちゅうだし、財布や携帯電話を家に置いたまま外に出てしまうことも多い。洗濯をしたことを忘れ、一日中洗濯機の中に残したままということもある。 普段から僕はそんな状態なので、なにかを忘れたことで驚くことなんてない。ああまたか、と思う程度だ。 先日ゴミを出そうとアパート専用のゴミ捨て場まで、着替えもせずに家のままの格好でサンダルを履いて出て行った。そしてゴミ捨て場の前で気付く。 ゴミを持って来るのを忘れていた。 手ぶらで呆然としたままゴミ捨て場の前に突っ立っている僕。 最近僕が一番落ち込んだ出来事が、これだ。 もし変身できるとしたら馬になってみたい。 馬は馬でも競走馬だ。GTレースの一番人気の馬に変身をする。そして僕がレースに出る。 もちろん馬に変身したって体力は僕のままだ。人を乗せるだけで限界なのに、ましてや走れる道理なんてない。ヒーヒーと声を上げた挙句、バタッと倒れ込むに決まってる。 一番人気馬の落馬。 もし変身能力を持った友達が数人できたとしたら、その数人が皆、一番人気、二番人気、三番人気の馬という風に変身していって、レースに出てみたいと思う。 人気馬がどんどんへこたれていき落馬が相次いだら、そういうことです。 そのときはよろしくお願いします。 何か一つ超能力が使えるなら変身がいい。 僕は間違いなく有名なハリウッドスターに変身するだろう。キアヌリーブスあたりがいいと思う。 そして街中を闊歩したり、満員電車に乗ったりするのだ。 通勤者の中で一緒に揺られるキアヌリーブス。棚の上に置いていかれた雑誌を読み始めるキアヌリーブス。間違えて女性専用車両に乗ってしまいうつむいたまま出て行くキアヌリーブス。 英語で話しかけられると、もごもごした挙句、逃げ出すキアヌリーブス。 サインを頼んだらカタカナで「キアヌリーブス」と書かれたら、要注意だと思っていただきたい。 首都東京へ行ってきた。 世界三大経済都市のひとつであり、またもちろん日本の首都でもある東京。そこにそびえ立ちまくる、高層ビル。 クフ王の大ピラミッドがすごいとか、黄金比率や当時最新の建築法を用いられて建設されたパルテノン神殿がすごいとか言いがちな現代人。 でも東京の建築物の方がすごいと思う。 東京のビル群はピラミッドよりも高いし、東京ドームはでかいし、当時のローマ帝国なんかよりも今の建築法はすごい。例えばエレベーター1つ見てみても、あれだけ何百メートルも一気に上昇したって、誤差が全然ない。もし30階までエレベーターで移動すると、エレベーターの床面とフロアとに10センチの段差があったらとても怖いと思う。 世界七不思議のひとつに数えられるバベルの塔だって、高さが90メートル程度だったと言われている。東京タワーの3分の1にも満たない。 海外や歴史建造物に目がいきがちな今だからこそ、東京のビル群見学ツアーとかやってみたらどうだろう。特にどこに滞在するでもなく、ビルを眺めて感想を言い合うだけのツアー。 「このビルの高さは296メートルでね、窓が1200箇所あるんだよ」 「ここの地盤はちょっと不安があったんだけど、現代建築の力で安定させたんだよ」 「このビルのコンクリート強度も魅力的だよね」 そんなツアー。 このツアーにかかれば、スフィンクスなんてただのデカイ石のマスコットにすぎない。 東京ビル観察ツアーの人気が高まれば、たぶんエジプト旅行とかは安くなるので、僕としてはとてもうれしい。ピラミッドとスフィンクス超見てぇ。 僕は比較的本を読む。 でも全然今話題の本とかは読まない。別に話題の本が嫌いとかそういうことじゃない。 ブックオフで百円で売っていないというのがその理由だ。 これをいうと大抵「なんだよそれ、新しい本も買えよ」みたいなことを言われる。うーん、印税が一円も入らない作家先生達には悪いとは思うけれど、別にわざわざ新しい人気の本を読まなくたって、ブックオフの百円には夏目漱石もあるし、川端康成もあるし、ヘミングウェイも過去の人気作もある。 新しい本イコールおもしろくて立派な本ではないけれど、ブックオフ百円コーナーからなら過去の偉大なおもしろい作品が山のように見つかる。日本最高の文豪と言っても過言でもなんでもない夏目漱石が百円なんてちょっと信じられない。 もちろん別に百円しか買わないわけじゃない。一冊読んでその作家が好きになり新品で買うようになることだって多いけれど、きっかけとして、間口としてとても広い「百円」というのを利用しない手はないと思う。中古本が著作権的に少し問題があるんじゃないのという考えがあることも承知しているけれど、作家サイドから考えてプラス面もあると思ったりするのだ。 などといろいろ正論臭いことを述べてはみたけれど、お金がない、という現実が僕をブックオフに走らせている一番の原因であることは一切の否定の余地がない。 僕も「新品の本しか買わない」とか言ってみたい。 レコードショップで開く悟り。 僕は、ギャーギャー喚いてウォーウォー叫びドラムがドゴドゴ鳴り響くだけのような音楽が結構好きなので、よくCDを買う。 しかし、衝動買いはしない、というポリシーを僕は持っている。衝動的に「あ、これほしいな」と思ってもすぐにはレジに持っていかず、考える。しかも一度に三枚も四枚も欲しいものがあることも多いので良く考える。 そして考えた末に、全部レジに持っていく。 「うーん、これはあんまり売っていないな。今買わないとしばらくチャンスはないだろうな」 「このCDとこのCDはお互い影響を受けている音楽なんだよな。聞き比べられるな」 「ちょっと値段が張るけど、ごはんを何食か節約すればOKだな」 全然「買わないようにしよう」という方向には考えない。むしろ「これを買う理由付けと購入後の身の振り方」を熱心にやっているだけだ。 結局衝動買いをしているだけな僕。 むしろ「考える行為をやめれば時間の節約になるなぁ」という悟りを開きつつある。 雑草のように強くあきらめない。 踏まれても踏まれても、あきらめない雑草。そんな姿を見て「雑草はすごい。俺もあきらめないで、雑草魂を持ってがんばろう」という決意をする人もいたりするだろう。 しかし本当に雑草はがんばっているのだろうか。 路上に生えている雑草。今その雑草が人の足に踏まれてしまった。 雑草「ううー、もうちょっと右を強く踏んでもらいたいなぁ。さいきんなんだか体中が凝って凝って仕方がないんだよなぁ」 雑草にとって踏まれやすいところは娯楽だったりするかもしれない。 道の隅っこに生えている雑草なんかに「あいついいなぁ」とか思われているかもしれない。 道端にチューリップが咲いていた。 ぶらぶらと散歩をしていると、道端に咲いているチューリップ。おそらく誰かが丹精込めて育てたものだろう。道なりに並んで咲く数十本のチューリップは壮観であると同時に、心に一瞬だけれど新しい息吹をくれる。 そして僕はチューリップを覗き込む。中にはやっぱり黒い部分。僕の頭の中に思い描かれるチョコレート。 あの黒い部分がおしべとかめしべとかそれはわからないけれど、ものすごくチョコレートに似ている。いや本当にチョコレートかもしれない。チョコレートの原料はカカオ豆とかじゃなくて、実はチューリップなんじゃあ、とまで考えてしまう。 道端に咲くチューリップに心を乱されまくる、大学生。 もんもんとした気分のまま家路についた。 落書きから知る、当時の生活の様子。 例えば、火山で街ごと埋まってしまったことで有名なポンペイ。こういった遺跡では「落書き」というものはとても重要なのだということをテレビで言っていた。落書きというものからは当時の暮らしぶりが良くわかるということらしい。 また有名な話で、エジプトのピラミットには「まったく、今の若い者は・・・」という嘆きの落書きがあったという。今と言っていることが全く一緒だ。当時の生活の一端が見て取れる。 じゃあ例えばもし今、世界が全部埋まってしまい滅んでしまったとする。全ての文明が失われ、また人間の進歩も一からやり直しだ。 そしていつの日かまた文明が生まれ、今僕らが暮らすこの世界が遺跡として発掘されたとしよう。そしてその発見された遺跡が、落書きまみれの小学校の机とかだったらどうなるだろうか。未来人はそれを解読して当時の生活を知ろうとするだろう。 「ええと、なになに・・・ドラ・・・えもん・・・ドラえもんか。この隣に描かれている丸い顔がもしかして『ドラえもん』ってやつなんじゃないのか?」 「おい、こっちにも同じ顔が描いてあるぞ。ここにもドラえもんと表記してある。もしかしてこれは当時の人が崇拝していた神かなにかじゃないのか?」 「そうか、そうだよ。そういえば当時北海道と呼ばれていた地方でも同じような顔が描かれた木版が発見されている。かなり広い地方で信仰されていたんだろうな」 こんな状況になってしまうと思う。 しかし発見されるのが小学校の机程度ならまだマシだ。 公衆トイレの落書きとかが遺跡として発掘されて、当時の生活を表しているとか解釈された日には、もう最悪だと思う。 タバコなんてなくなってしまえ。 僕がタバコを吸い始めて久しいけれど、実は今でも一本のうち半分くらいはふかしているだけだったりする。僕は煙を見るのが割と好きだ。 タバコの先端から立ち上り続ける煙。上をただひたすらに目指し、風という力に押されることはあるけれど、上を目指すことは諦めない。たとえすぐ散ってしまう身だとしても、広がり続ける空までたどり着くという夢を決してあきらめない、そんな姿に見える。 僕の口から吐き出される煙は、風の赴くままに漂っているだけだ。上を目指すこともなくその場に留まり、今を大切に、自分の置かれた立場で精一杯もがくようにして、消えていく。 相反する存在のような二つの煙だけれど、大切なものを見極めている、という視点から考えると、二つは同じもののような気がする。諦めないことが大切であり、今を必死になることが大切なのだ、と。 タバコから生み出される二種類の煙が、僕の憧れなのかもしれない。 つまり僕の目指している姿はこういうことだ。 夢を描く。今を大切にし、夢に向かって努力をして、努力をして、努力する。 そして夢半ばで散る。 所詮タバコなんて百害あって一利なしです。タバコの煙なんかに憧れた僕が馬鹿だった。 末代まで後悔できる。 「俺、昔の彼女の名前を腕に刺青で入れちゃっててさ」 なんていう笑い話があるけれど、たぶんこういう人は実際にいると思う。 もうご愁傷様としか言いようがない。 そりゃあ、後先を考えてなんていられないくらいその女性を愛した、という事実はうらやましいと思うし、良い思い出なんだろうけれど、刺青はやりすぎだと思う。愛されていたはずの女性も「うーん、そりゃあやりすぎでしょ・・・」と思いつつ口には出せなかったんじゃないだろうか。 ここポップコーンスパも実はもうすぐ一周年だったりする。一年間ほぼ毎日更新し続け、たぶんテキストは400くらいあるだろう。内容の進歩はまったくないとはいえ、我ながら良くやったと思うし、できる限り一生懸命やったことも事実だ。 ここは思い切って腕に刺青で『POPCORN−SPA』とか入れてみようか。 「俺、昔一生懸命やってたブログのタイトルを腕に刺青で入れちゃっててさ」 この世にこれほど笑えない話があるだろうか。いや、ない。 三日連続うんこの話です。 結構昔だけれど、僕は犬のフンを踏んだことがある。 さてここで問題。悪いのは犬のフンでしょうか、僕でしょうか。 結果は原因がなければ起こらない。今回は「犬のフンが道端にある」という原因の末に「僕がフンを踏む」という結果になったわけだ。くそっ、犬のフンめっ。 でもちょっと考える。例えば、風船を膨らます、という行為の原因と結果を上げてみると、「風船に空気を吹き込まれた」という原因があって「風船が膨らむ」という結果になるだろう。これは普遍的なものだ。風船に空気を吹き込めば、何時、誰がやっても風船は膨らむという結果になる。 でも「犬のフンが道端にある」のに踏まれていない、綺麗な形をしたフンというものは確実に存在している。おかしい、原因はあるのに結果がない。もしかしたら僕が犬のフンを踏んだ原因は「犬のフンが道端にある」ではないのかもしれない。 なら僕のほうに原因があるのだろうか。 つまり「犬のフンが道端にあることに気付かない僕の注意力の散漫さ」という原因の末の結果「僕がフンを踏む」となったのではないだろうか。これなら普遍的だ。注意力が散漫ではなく、道にうんこがあると気付いたときはわざわざ踏んだりはしないのだから。 どうやら犬のフンを踏んだのは僕が悪いらしい。 フンよ、ごめん。君のせいじゃなかったよ・・・。 この理論を当てはめると、世の中全ての嫌なことの原因は自分にある、という結論が出ます。 考え方一つで物事は、良い方にも悪い方にも取れる、ということを言いたいがために犬のフンを例に出すのは、世界広しといえど僕ぐらいだと思います。 恥ずかしいけど大胆なタイトルにしてみましたパート2。 今回は本当に下品な話です。その辺を考慮して読むか読まないかをお考えください。 下痢の次は便秘の話で申し訳ないのだが、僕は便秘になったことがない。男はあんまりならないと聞いたことはあるし、そうかもなとも思う。ちなみにリアルな話、僕は一日平均二回だ。快調快腸。 でも便秘というものはいったいどういう状態なのだろう。もちろんうんこさんが出ない状態ということは理解している。しかしそれでも可能性として二つ考えることができるだろう。 僕の考える便秘状態可能性1 「便意はなく、うんこがでない」 もし便秘というものがこの可能性1の状態であるならば、僕はちょっと便秘になってみたい。そして「やったー、3日ぶりの快便だぜ」とか言ってみたい。うん、これは本当にうれしいと思う。 僕の考える便秘状態可能性2 「便意があるのに、うんこがでない」 これはもう最悪だと思う。絶対に便秘になんてなりたくない。「うんこ出そうなのに・・・・・・でない」なんてそんなの耐えられないと思う。うんこと格闘する時間なんてとても嫌だ。 便秘という未知なる世界に一歩足を踏み入れてみたい気持ちと、そこにあるだろう恐怖に足が震えてしまう僕。 未知を恐れず踏み出すのが本当の偉大な人物なのだろうが、踏み出したその先にあるものは所詮便秘なので、今ここで無理をする必要はないように感じている。 恥ずかしいけど大胆なタイトルにしてみました。 僕は高校生の頃、それも受験戦争という渦に抗うこともなくただ身を任せていただけの頃は、毎日のようにブラックの缶コーヒーを飲んでいた。 大学生になっても結構コーヒーを飲んでいたし、紅茶だってたまにだけれど飲んでいた。だけどなぜか大学2年生くらいからあまりコーヒーも紅茶も飲まなくなった。理由はよくわからないけれど、そうだったんだから仕方がない。 そして一ヶ月くらい前にコーヒーを飲んだ。インスタントだけれど久しぶりだったし、もともとブラックが好きだったので、砂糖もミルクも入れずに飲んだ。 下痢になった。 コーヒーを飲んでからというものは、何度もトイレに行った。しかしもちろんコーヒーが原因だとは思わなかった。そして次の日に缶コーヒーを飲んだらまた下痢。数日後にインスタントを飲んだらまた下痢。毎回ブラックというわけではなく砂糖を加えたものやミルク入りも飲んでいるが毎回下痢。 一体僕の体の中で何が起きたのだろうか。コーヒーが飲めない。 しかたない、紅茶を飲もう。 そして紅茶を比較的多く飲むようになった。うん、うまい。うん、うまい。 少し時間は経ち、今から二週間くらい前。もはや日課になっていた紅茶を飲んだ。そしたら下痢になった。しかしもちろん紅茶が原因だとは思わなかった。なにせそれまで毎日飲んでいたのだ。そして次に日にまた紅茶を飲んだら下痢。翌日も飲んだけど下痢。 僕が最近ホットココアばかり飲んでいるのはそういう理由からです。 まだ少し冷える夜、寒い寒いと凍えながら、ぶるぶると震え、両手で掴む暖かいココア入りのカップ。さっきまでは強張っていた顔も緩み笑顔になる。 「・・・うん・・・・・・おいしい・・・」 そんなヒゲ面の坊主の21の下痢をしがちなオッサンが送るポップコーンスパを、これからもよろしくお願いします。 他人の魅力を感じて浮き上がる自分のダメさ加減。 先日バスに揺られていると、僕が乗ったときはそれほどでもなかったのだけれど、時間が経つにつれ結構混んできた。僕はシートに座れていたし、ポータブルで音楽も聴けていたし、外も天気が良くて窓の外の景色を見ているのが楽しかったから、あとはタバコさえ吸えるなら何も文句は無いなとのんきに考えていた。 僕は2人用のシートの窓際で、隣には知らないおっさんがこれまたのんきに座っていた。そして僕の一つ前の2人用シートには、少し茶色掛かった肩まである髪の女子高生が制服を着て座っていて、となりにはでかいバックをドカンと乗せていた。彼女は僕がバスに乗ったときにはもうそこに座っていた。 あるバス停で大勢の人が一気に降りた。普段からそこは大勢が降りる駅である。でもなぜかあまり大勢の人がそこから乗り合わせるところを僕は見たことが無い。今この話は関係ないんだけれど、こういうことってすごく気になる。 そのバス停で5歳程度の男の子とその子の母親らしき人が乗ってきた。母親はバッグを一つ重そうに持ち、子供は落ち着きなくなにかしら喋りながら2人で立っていた。先ほど大勢降りたために立っている人はほとんど居なくなったが、シートが空くほど人が少なくは無い状況だ。僕はずっとそんな情景をボケッと眺めていた。子供は今乗ってきた彼一人だけだった。 すると目の前に座っていた女子高生がでかい荷物を持ち上げ席を立つ。近くに立っていたその親子連れは空席となったその場所に腰掛けた。彼女はバスの前の方に行き、でかい荷物をボスッと床に置いて、財布の中を少しチェックし、つり革に掴まりながら窓の外を眺めている。どうやら次のバス停で降りる準備をしているらしい。 しかし彼女は次のバス停でも、その次のバス停でも降りる事はなかった。彼女は相変わらずつり革に掴まって立っている。親子連れも僕の前で座りながら、彼女が降りていかないことに気づいたようだ。彼女は、恩着せがましくではなくとても自然に席を譲っていたようだ。そのとき母親が何かしら子供に言っていたのだが、音楽を聴いていた僕には、彼女の話を聞くことができなかった。それはもしかしたら席を譲ってくれた女子高生に感謝しろ、というような内容だったのかもしれないし、全然関係のない話だったのかもしれない。 でも僕はその高校生の女性をとても素敵だと感じた事は事実だ。確実に年は僕よりも下なのだけれど、彼女は僕よりも大人であるらしかった。大人という表現は漠然としすぎている気がするけれど、僕に彼女の魅力を正確に推し量ることができないということを考えると適切なんじゃないかと思う。 僕の隣では相変わらずおっさんがのんきに座っていた。 飲まない、という選択肢はない。 僕はビールが大好きだし、お金が許してくれるなら毎日だってビールを飲むだろう。実際は許してもらえないので発泡酒や水で我慢しているという忍耐強い男だ。「発泡酒や水で我慢している人が好き」という女性はご一報ください。 僕の父親の腹はすごい。 ボデーン、という表現が適切だろうと思われる、それくらいのビール腹だ。 身近に潜む陰惨な現実と筆舌に尽くしがたい恐怖がそこにある。 ビール腹候補生から脱退するために僕は毎日腹筋をすることにした。これで恐怖から開放されるし、「腹筋を毎日している人が好き」というマニアックな女性にもモテて一石二鳥だ。 よし、1・・・2・・・、3・・・・・・、・・・・・・4・・・・・・・・・・・・。 僕の小さな努力は続く。 セルフ式のガソリンスタンドに店員さんがいた。 これは事務所に人がいたとかガソリンスタンドにスーパーの店員さんがいたとかいう話ではもちろんなくて、そのガソリンスタンドの制服を身にまとった店員さんが、ガソリンを入れる機械の隣に立って、お客さんを待っていたということだ。 僕は友人の車の助手席に座ってこの様子を見ていたのだが、あれっ、と思って店の看板を見る。そこにはでかでかと「セルフ」の文字。 友人が当然のように、その店員さんに向かって「レギュラー満タン」と言っている。もう一度看板を見直すも、そこにはやはり赤いでかいカタカナで「セルフ」と書いてある。もしかしてこのガソリンスタンド自体の名前がセルフなのだろうか。カタカナが読めないという可能性も考慮したほうがいいかもしれない。 「あの店、セルフなのにたまに店員がいるんだよ。楽で安くて得だな」 友人は僕にうれしそうに告げた。 「いつもガソリンばっかり入れてるのも退屈なんだよなぁ。たまにはテレビも見たいし本も読みたいよ。そうだ、セルフにすれば俺、テレビも本も見放題じゃん。そうだよそうだよ、すげぇアイデア。よし、セルフにしよう。そして暇になったらたまにはガソリンでも入れよう」 たぶんこんな思考回路をもった店長がいるんだと思う。 彼に抱く憧れの感情を僕は隠すことができない。 ロッキード事件やリクルート事件、そしてウォーターゲート事件。 もちろんこれらの事件についての僕の所感を述べ政治家とはいかにあるべきか、ということを言いたいわけじゃあないし、言えもしない。 じゃあこれらについて何が言いたいのかと聞かれるなら、僕はこう答える。 「名前がかっこいい」 ウォーターゲート事件はとても響きがいい語感だと思う。なんたってウォーターゲート事件だ。ロッキード事件は一瞬にかける花火のような響きがあると思う。その点ウォーターゲート事件は映画マトリックスのように見せ場だらけで常にかっこいいだろ、という響きだ。リクルート事件はこの三つの中では比較的地味めだが噛めば噛むほど味が染みるスルメ的な響きといったところだろうか。 こんなことを考えて失われていく、僕の20代の貴重な時間。 結局。 あなたがもし誰かと一緒に本屋に行ったとして、たまたまその人の足を踏んでしまったら何と言うだろうか。 ごめん、は妥当なところだろう。ちょっと考え事をしていて、などと言ってもいいかもしれない。しかし僕が先日遭遇した姉弟は違っていた。姉は10代の中盤、弟は10歳前後というところだろう。弟が姉の足を踏んでしまった後の一言だ。 「踏まれるところに足を置いておくお前が悪いんだろ」 逆切れという言葉もあるが、まさに彼のためにある言葉ではないだろうか。彼の言動からは一握の謝罪の意も読み取る事はできない。正直に謝る事が恥ずかしくてつい悪口を言ってしまった、という風にも受け取れない。足を踏んで、姉が痛いと言った刹那の瞬間、彼はこう口にしたのだから。 他人事ながらどきどきしつつ僕は事の顛末を観察したのだが、これ以上もめる事も無くまた二人は仲良さそうに並べられた本を見つつ、話をしつつ手に抱えていた雑誌をレジに持っていった。 悪い事をしたら謝る。不注意からミスを犯してしまったら謝る。そんな常識に縛られていた自分。 これからは悪い事をした瞬間に、ミスをした瞬間に逆切れしてみようと思う。もしかしたら意外と物事はうまい方向にいくかもしれない。 つまり昨日更新できなかったのは酒が悪い。いいちこのアルコール度が強すぎるのが悪い。つまみでお腹いっぱいになって酒を飲んだら眠くなった僕が悪い。 本当にごめんなさい。これからまたよろしくお願いします。 ポイ捨て禁止。 世間は今、タバコ廃絶運動というか喫煙者撲滅運動とでもいうものに必死だ。その流れで飲食店ではもはや喫煙席がないところだってあるし、あったとしても 「仕方がないから入れてやるよ、でもその隅っこでおとなしく肺がんにでもなってろ」 とでも言わんばかりの席だったりする。 タバコのポイ捨ては目に余るものがあったということで、一部地域にポイ捨て禁止条例というものができた。僕もこれには賛成している。もっと言わせてもらえれば、ポイ捨てなんてする人はタバコを吸えなくしてしまってもいいと思うのだけれど、まぁこれは現実問題難しいから、ちょっとばかりのお金を拝借して懲りて貰おうという条例だ。 用事があって僕は帰省したのだけれど、地元の商店街を歩いていたら結構衝撃的なポスターが目に飛び込んできた。 『タバコのポイ捨て、5万円いただきます』 5万。 僕は常に携帯灰皿を持ち歩いているし、ポイ捨てはしないけれど、5万には正直驚いた。このポスターが自治体が作ったものなのかどうか、法的拘束力があるものなのかどうかはわからないけれど、5万円取られたらひねくれ者の僕なんかはたぶん、反省するよりも強く「5万は取りすぎだろ」と怒るんじゃないかと思う。そこに反省の色が出てくる余裕はない。 日毎タバコバッシングは強くなっているし、僕が実家に帰ったら帰ったで、あんまりタバコを吸うなと言われるしでなんだか本当に心から休まる場所というものがどんどん減ってきている。 「そうだろうそうだろう。だったらタバコをやめるんだなフハハハハ」 というのが非喫煙者の言い分なんだろうけれど、ここでもまたひねくれ者の僕なんかは 『タバコ大歓迎。非喫煙者は隅っこの一角で飯でも食べてろ』 という店ができたら意外と繁盛するんじゃないかな、なんて考えてしまうのだ。 メニュー表には「スマイル:0円」みたいに「肺ガン:0円」とか書いてあったりするかもしれない。 初めてコンタクトレンズをしたときのあの心情たるや。 僕は小さいころから視力が悪かった。中学生になっても視力の悪化は止まらず、日常生活に支障をきたすので、コンタクトレンズを作った。 きっとすばらしい世界だろう。人に飼われる小鳥がカゴを抜け出して大空を舞うことを夢見るように、僕は今まで見えていなかった素敵な世界が広がっているのだろうと空想していた。 一握の不安とそれを包み込むような期待感を胸に、僕はコンタクトレンズを装着する。 今まで見えていなかった、床に落ちている髪の毛や、小さなゴミや、虫や、壁の汚れなんかが見えるようになった。僕の部屋の床も壁もゴミまみれで汚かった。 大空に憧れ、しかしカゴに捕らわれている小鳥は知らない。現実の空にはカラスなどの敵が舞い、大気は排気ガスで汚され、ミラービルや高圧電線が張り巡らされている現実を。 ハンカチを片手にお読みください。 僕は彼女との時間を大切にしている。あと二ヶ月もすれば僕は彼女と思い切り夏を満喫できるし、これを楽しみに今を生きていると言っても過言じゃあないだろう。 大きな声では言えないけれど、僕が彼女に始めて会ったのは中学2年生だった。そのとき僕は彼女の魅力に気付くことはなかったし、むしろ嫌いだったと言ったほうが正直な感情だと思う。 彼女の魅力を本当に理解できたのは大学生になってからだ。それまでは漠然としていた好きという感情が爆発し、僕は彼女を毎晩のように求めた。 朝起きてもなお僕の中に感じる彼女には、少し複雑なものを感じてしまったことは事実だけれど、それでも僕は彼女と毎晩会っていた。 暑い夏。燃え上がる僕と冷ややかな彼女。誰に理解されなくてもいい。あの至福を感じることがもうすぐできる。代用品なんてありえない、僕と彼女との大切な時間だ。 ビール。 超小型口内内臓タイプのもの。 アニメ『ドラえもん』の声優陣が一新された。皆かなりの年で、世代交代は仕方がないと思うが、しかしそれは製作サイドの問題だろう。 ドラえもんの存在を信じているかどうかは別としても、子供達が突然変わったドラえもんの声に納得するだろうか。 「なんでドラえもんの声は変わったの?」という素朴な疑問を持たないだろうか。 まさかここで「声優が年だからね」とは言えないだろう。「サンタクロースはお父さんお母さんなんだよ」と言えないのに近いと思う。 「ドラえもんの中の音声チップが故障しちゃってね。別のものに取り替えたんだよ」 声優変更がドラえもんだけなら、この説明で問題ないだろうがしかし、これだとのびたやジャイアンなんかの声が変わったことの説明にはならない。 「声変わりの年になったんだよ」 先ほどの説明とこれを混ぜ合わせればほぼ問題は解決される。しかししずかちゃんだけは依然として理由付けされていない。 「『日本国民及び長期滞在外国人は、音声を使用したテロ行為の防止面から、また自身の所持する声の所有権を保護するため、日常生活ではボイスチェンジャーを使用して会話をしなくてはならない』という通称『音声乱用保護法』っていう法案を与党が押し通しちゃってね。野党は必死に抵抗したんだけれど、多数決っていう数の暴力に屈しちゃってさ。そして法律が4月になって施行されたんだよ。のびたたちもいくらドラえもんの道具があるからって、一国民であることに代わりはないし、法律違反は逮捕されちゃうからね。しかたなく従っているんだよ」 子供達も、大人の持つ理不尽でも磐石な力の前に、納得をせざるを得ない回答だと思う。 僕はあまり電話が好きじゃない。 話をすることが嫌いというわけではないのだが、電話は苦手だ。相手の顔が見えないことも原因の一つだと思うが、それならテレビ電話なら良いのかと言われると、たぶんノーだ。犬と同じで、理由はわからないけれどなぜか苦手だった。 携帯メールも好きじゃない。 この理由はハッキリしている。文字を打つのがめんどうくさい。この一点のみだ。 文章を書くことは好きだ。それも手で字を書くのではなく、携帯のメールでもなく、パソコンで書くことが好きだ。手で書くことが苦手な理由は、漢字が書けないという点と推敲作業の困難さが挙げられるが、一番の理由は遅いことだ。 僕は文章を書きながら、パソコンで打ちながら、文章の内容を考えた方が納得のいくものが仕上げやすい。頭の中でああだこうだと考えるよりもまず、パソコンで脊椎反射のごとくカタカタと打ってから「これは違うな、これは直したほうがいいな」とやっていくやり方でないと文章が書けない。 しかし「電話」も苦手で「メール」も苦手な僕ですら携帯電話は持っている。これがないと連絡の取りようがないからなのだが、なんだかもう携帯電話なんていらないような気がしてきた。 ためしに携帯電話を家に置いたままにして一日活動してみた。特に困らなかった。 普段とほぼ変わることのない日常を送れたことに安堵すると同時に、複雑な感情が僕の中で芽生えている。 「貸したものは忘れぬが、借りたものは忘れる」という言葉がある。 貸したことは覚えているのに、他人から借りたことはすぐ忘れるという、人間の身勝手さを言うことわざなのだが、僕は真逆だ。 他人から何を借りたのかは覚えている。でも何を貸したのかをさっぱり覚えていない。しかもすぐ忘れる。お金を貸した数分後に忘れていることもあるし、貸したままのゲームとかもあるだろう。 しかし決して僕が気前の良い男というわけじゃあない。 深く考えもせずいい加減に行動しているだけだ。 自分が昨日更新したテキストの内容なんてさっぱり覚えていない。 自分が読んだ本のタイトルも覚えていない。 昨日食べた晩御飯も覚えていない。 僕が三日間連続で同じラーメン屋に行ったのは、一重にそういう理由からです。 店に入ってから昨日来たということに気付いた。二日連続で。 |