パチスロのゲームをやるためだけにプレステ2を買った知人がいる。 彼は最近スロットを始めて、その魅力に取り付かれたようだが、どうやらそのゲームで予行演習をしているらしい。もちろんプレステ2もソフトも汗水たらさずパチスロで稼いだ金で買ったものだ。冷や汗くらいはたらしたかもしれない。 パチスロへ行く前に彼は必ずそのゲームをやる。 ゲーム内で当たりが出るようなら 「よし、今日は運がいい。スロットへ行ってこよう」 と言って実際にパチスロへ行く。 ゲーム内でボロボロに負けたときは 「よし、ゲーム内で不運は使い切ったな。スロットへ行ってこよう」 と言って結局パチスロへ行ってしまう。 輝ける未来しか見えない。ポジティブとはそういう人のためにある言葉だと思う。 汚い部分を見て見ぬフリをするネガティブな人とも言えるんだけど、ポジティブな人はそんなことを考えないからポジティブなのだ。なんだかポジティブが悪口みたいになってきたが、気にしないことにしよう。見て見ぬフリは僕の数少ない特技だ。 ちなみにこの知人とは僕の兄である。一緒にいていつも楽しい、大好きな兄と言えるだろう。 少なくとも見ていて飽きはしない。 人権とか、そういう難しい言葉はよくわからないです。 友人と酒を飲みながら、スティーブンセガール主演の「暴走特急」という映画を見ていたんだけれど、この映画も他のセガール映画と同じく、セガールは敵に囲まれようがマシンガンを突きつけられようが眉一つも動かさす、かすり傷ひとつ負わず、たんたんと敵が倒されていくというものだった。 背後から銃を撃たれてもカンで避けるし、相手の弾は全然あたらないのにセガールは一撃でしとめたりと、ステキ展開が目白押しだ。 最強の敵に対しても、危なげなど一切なく、ゴキッと首の骨を折って殺すという、主人公としてそれはどうなのかという勝ち方を披露していた。この映画では首の骨を折って殺す以外にも、谷底に放り投げて殺したり、生きたまま相手を焼き殺したりと非常にアグレッシブな方法を取っているセガール。とても頼れる主人公だ。 悪の親玉が傷を負い、セガールに対して助けを求めるが、顔色一つ変えず止めを刺す。 そうだ、正義は勝つのだ。悪役の見せ場などいらない。ピンチからの逆転劇など必要ない。 僕はセガール映画が大好きです。 好きなあの娘には彼氏がいるからあきらめようと決心をして、自分の心を無理矢理押し込めたんだけど、でも結局諦め切れなくて、ついには告白してしまう、そんな切ない恋愛もあるだろう。 毎日一箱のタバコはさすがにまずいと気付いてから、禁煙を掲げて4日目で「ムリして我慢するのはストレスがたまって体に悪いな」と感じ、一日5本の節煙でいこうと決意して、それが一日10本になり、15本になり、今日の朝には「よし、今日は一箱以内に納めるぞ」という目標を掲げた僕の心は、先の例で挙げた切ない恋愛をしてしまった感傷に似ていると思うのだ。 そう思うのは僕だけだろうが、想うのは勝手だ。 石塚でも代用可能。 ベジタリアンに対抗して、肉しか食わないし、革製品しか身につけない、ミートリアンというのはどうなんだろうとか考えていたら、伊集院光がハードゲイの格好をしている姿が目に浮かんだので、フォー。 ライブハウス武道館へようこそ。 就職活動のために、友人に車を出してもらったんだけれど、その車はシャコタンで、マフラーいじりまくりのブオオオォォォォンとかうるさい音を立てまくる代物だったので、会社の前まで送ってもらったら、僕が会社に入ろうと入り口付近に近づいたときに、中から会社の人が出てきて 「何かと思ったよ。すごい車で来たねェ」 「い、いえ、友人に送ってもらいまして、ハハハ・・・」 と弁解した僕が汗をダラダラ流していたのは、秋とは思えないほどの陽気のせいとしか考えられないのです。 タクシーでバスが多く出ている地点まで行って、そこからバスで帰った。 今日やっと免許の更新に行った。免許の更新自体はいい。講習を聞きビデオを見て、問題なく新しい免許を交付してもらえた。ドラマ仕立てで事故の悲惨さを訴えるビデオを見たら、悲惨さを訴えすぎるあまりセリフが説明口調過ぎて妙なおもしろさが漂っていたという問題はあったけれど。 本当の問題は帰るためのバスが致命的に少ないということだ。 行きは友人の車で送ってもらったが「帰りはバスで帰るよ」と言ってしまった。悲劇の始まりだ。講習が終わり、外に出て、免許センター前のバス停の時刻表を見る。 次のバス:2時間後 カップラーメンが40個作れる。 今日は比較的温かい日だといっても、僕の格好が薄着だったため結構寒い。 免許センターの周りには暇を潰せるようなところは何もない。 そもそもそんなに待っている時間的余裕がない。 僕以外の人はみんな車に乗って帰っている。 僕は免許取得試験を受けたときもここに来たんだけど、同じ問題にぶち当たっている。 車を運転する許可を得るための試験会場に、車がないと来れないというのはどうなんだろう。 泣く泣くタクシーを利用しながら車内で僕は考える。 ああこれは、これからインターネットを始めようと考えているのに契約方法に「インターネットでのお申し込み」と書いてあるのを発見する、あの感覚に似ている。 キレイにまとめたつもりが。 たまにテレビなんかで「天才あらわる。10歳で大学を卒業」といったようなニュースを見ることがある。飛び級制度を利用して義務教育をすっ飛ばし、大学を卒業してしまうのだろう。 僕にはできないことだし、すごいと思う。もちろんそれだけ頭が良いのなら、就職に困ることもないだろうし、お金に困ることもないだろう。 だけどそんな一気に駆け上がらなくてもいいんじゃないかとも思う。 もうちょっとのんびり行くのもいいんじゃないだろうか。 僕は平凡な高校に入学して、だらだらとパッとしない大学生活を送っているけれども、その過程を無駄だと思ったことは無い。親のスネをかじるシロアリ生活だろう、と怒られたらうつむくしかないんだけれど、このだらだらした毎日から学んだことも多い。 教科書から得られる物理法則や方程式は大切だ。それが今の文明世界を支えているのは間違いない。 だけれど遊びから得た経験だって、今の世界を支えていると思うのだ。 心理学とか、臨床学とか、そういうので「遊びから得られる経験の有意義性」を理論で表すことはできるのかもしれない。だけどそれは理論だ。体験じゃあない。「遊びから得られる経験の有意義性を体験する」のが大切なのだと思う。 頭はいいのはすごいけど、そんな駆け抜けなくてもいいんじゃないの。 勉強は大切だけど、教科書から得られることだけが勉強だとは思えない。 天才が大学を卒業。そんなニュースを聞くと、僕はこんな風に考えてしまう。 自動車に乗ったら見ることの出来ない風景はあるんじゃないだろうか。歩いているからこそ、足元の小さな花の美しさに気付けるんだ。 僕は、少しずつ、少しずつ、歩いていけばいいや。 ・・・どうせただの負け惜しみですよ! どうせ頭が良い方が幸せですよ! ああそうさ、どうせ僕は平凡さ、くそう。 え、平凡以下? ああー、その可能性は考えたくないです。 僕は並だけ。 電車で行こうにもバスで行こうにも不便な場所へ行かなくてはならず、友人に車を出してもらった。 やっぱり持つべきものは友人だ。 「晩飯おごってくれたら車を出してやる」とニヤニヤしながら人の痛いところをついてくる友人だとしてもだ。 用事を終えて帰る途中に、約束どおりに晩御飯をおごるために、どこへ行こうかと相談したら 「吉野家でいいよ。久しぶりに食べたいし」 と言うではないか。 おお、そんな安いのでいいのか。てっきり焼肉でもおごらされるかと思ったのに。 やはり持つべきものは友人だ。 「豚丼の大盛りと、半熟卵。ええーとあと、けんちん汁で」と言い放ちつつ、なおかつサラダにまで手を伸ばす友人だとしてもだ。 僕は「オンリーワン」と「個性」という言葉が好きだ。 世の中にはかっこいい言葉というのがあって、その代表格として オンリーワン 個性 の二つがあると思う。 たとえば全然勉強しない子供がいて、テストも毎回5点とかだとする。スポーツは適当にできるけどレギュラーになるほどではなくて、ゲームも好きだけどいつも途中で投げ出すほどの集中力のなさ。 そして子供はこう言うだろう。 「集中力も運動神経もないし、努力もめんどうくさいけどこれが僕なんだ。オンリーワンだ。直す必要なんかないな」 「勉強はできないし、部活でレギュラーにもなれないけど、まぁいいや。これが僕の個性だ」 オンリーワンと個性という二つは、努力放棄を完全に正当化することができる最強でかっこいい言葉だ。 この二つの言葉が好きな理由はこんなところからだろうと思う。 勝ったら勝ちじゃないと何がなにやら。 負けるが勝ちという言葉があるけれど、ということはつまり負けた方は「やった、負けるが勝ちだから、私が勝ったわ」と思う。 そうするとその人は勝った人ということになる。 すると初めに勝ったんだけど「負けるが勝ちってことは、勝ったら負けなんだから、俺負けたなぁ」と感じた方は負けた人になる。この初めに勝ったのに負けた人は、結果として負けたんだから、また「負けるが勝ち」という逆転法則によって、再び勝った人ということになる。 永遠に続く負け惜しみ合戦ということだ。 西部劇の酒場の入り口にあるような、両手でバンッと押し開けるドアが欲しい。 押し開けた後ぐわんぐわんと揺れて勝手に閉まる、あのドアだ。 でも買ったとしたら、いったいどこに設置しようか。 まさかアパートの入り口をあのドアにするわけにはいかない。かっこはいいけど正直治安維持という面から考えると最悪だ。鍵なんて付けられないし、付けたとしてもほふく前進で簡単に入れる。残念ながら僕はそこまでオープンな性格じゃあない。 それならトイレの入り口か? 僕は一人暮らしだから誰に見られる心配はないけれど、さすがにトイレの匂いが部屋中に漂うのはイヤだ。たとえ僕のうんこがフローラルな優雅な匂いがするとしてもだ。 それならお風呂の入り口か? シャワーを浴びたら部屋中が湿気でカビそうだ。 キッチンと部屋の間のドアか? 一番理想なのはここなんだけれど、しかし夏にはエアコンが効きづらくなるし、冬も寒くてしょうがないと思う。エアコンでキッチンまで暖かくするほど僕のフトコロ事情は温かくはない。 だめだ。今のアパートに設置するにはあまりに実用性がない。 いつか自分の家を持ち、お金にも余裕が出来たのなら、ぜひ一個くらい家の中に設置したい。 奥さんと一悶着あるだろうが、そこはフロンティアスピリットでなんとかしようと思う。 うめー。 僕が普段良く聞いているロックは、ギターとベースとドラムで成り立っている。 大体はギターやドラムにスポットライトが浴びがちで、ベースはなんだか地味な印象を受ける。 しかしベースがないロックなんて、印籠を出さない水戸黄門みたいなもので 味方1「この方をどなたと心得る」 味方2「なんとあの水戸光圀だぜ」 悪人1「・・・そうなの?お前、光圀の顔、知ってる?」 悪人2「いや、なんか全国を歩いてるってのは知ってるけど・・・」 悪人3「なんか、その、無いんですか、身分証明書みたいなの」 味方1「ええー、そんなのないよ。顔でわかってよ」 こうなってしまう。爺さんはハラハラしながら突っ立っているだけだ。 なんだか寂しい。 ベースがないロックとのたとえとしては最大級にわかりづらいものになってしまったが、つまり、地味だけれどベースは確実にロックを構成する上で必要ということだ。 こういう切り離せない関係というものは探してみると結構ある。 カレーにじゃがいもが入っていなかったら物足りないだろう。ハリウッド映画に美女がいなかったら寂しいだろうし、パーのいないペーなんてタダのピンク色のおっさんでしかない。まぁパーがいたってただのピンク色のおっさんとおばさんでしかないけれども。 そして気っても切り離せない関係。 それは「酒とタバコ」だ。 今日晩御飯の時に、発泡酒をぐびぐび飲んでいたら、もう、耐えられませんでした。 ホント、酒飲んじゃったら、ムリでした。 そんな経緯で第一回禁煙合計時間は99時間で幕を閉じましたとさ。 おしまい(禁煙が) 罪状:おもしろすぎる罪 最近はどんどん寒くなってきている。これは別にフトコロ事情が寒いだとか、愛しのあの娘との関係が寒くなっただとか、そういう比喩的なことではなく、単純に秋が深まって気温が寒くなったということだ。いちいちこう断らないと勘違いをされる恐れがある自分が好きだ。 昨日の朝起きたら毛布がほとんどかかっていない状態で寝ていた。 頭がガンガンする。風邪一歩手前のやばい頭痛だ。 よし、ここはおとなしく寝ていよう。家にはカップラーメンと野菜ジュースがあるので、食事面ではなんの問題もない。これで問題がないと判断する僕に問題はありそうだけど、それは無視だ。 さすがに起きたばかりだから全然眠くなかった。 昼の11時・・・。友達から借りてまだ読んでいなかった漫画を読もう。 そしてお風呂やご飯の時間なんかも含めて考えると15時間ぶっ続けで漫画を読んだ。 今朝、目が覚めると頭痛は酷くなっていました。 漫画本に『頭痛の際にあまり熱心に読まれますと、頭痛が酷くなる恐れがあります』と明記されていなかったので、裁判を起こしたら勝てるかもしれません。 勝てたら日本は終わりだと思います。 僕は別に時間に追われているほど忙しい毎日を送っているわけではないけれど、普段の生活の中でかなり時間を気にして行動する方だと思う。なにかをしたら、何分経過したのかを確認し、またなにかをしたら、確認する。理由はわからないが気になってしまうのだ。しかし時間に囚われていると言うわけではない。僕はいつも流れるプールの底に座り続けているような状態だ。僕は水に囲まれている。現実の僕は時間に囲まれている。しかしプールの底に座る僕には、水面の水の流れを体感することはできない。風が吹いても僕はプールの底でじっと座っているし、雨が降ってもじっと座っているだけだ。時計を使用してはじめて僕は水面の状態を知り、流れの速さを知る。僕は水面の状態が気になって、だから時計を何度も何度も確認してしまうのだろう。 食玩という、お菓子に小さなおまけが付いたものがコンビニに多く売っている。僕はどれを買うでもなくそれを眺めてしまう。お茶を片手におにぎりを選び、レジに持っていこうとすると食玩たちの姿が目に入る。そしてしばらく眺めてしまうのだ。僕にとって食玩はテレビCMのようなものだ。様々な種類と、色鮮やかな表現、かきたてる購買欲、そしてどうでもよさ。店頭で眺めているときは欲しいなと感じてしまう食玩も、一度コンビニを出てしまえばもう頭の片隅にも彼らの居場所はない。テレビCMを見ている間はCMのことを考えるが、一旦番組が再開されればもうCMに思考が巡ることはないのに良く似ている。 食玩を眺め終わると僕はまた何分眺めていたのかを確認し、どうでもいい時間を過ごしてしまったなと後悔の念にかられるが、しかしまたコンビニに行くと眺めてしまう。チャンネルを変えたらさっきまでと同じCMをやっていて、つい見てしまう、あの感覚に似ている。 誤魔化すために水をガブガブ飲んでいるのでお腹がタプタプ。 街角で座りながら、ぼーっとタバコを吸っていて、突然思う。 「うん、この一本で終わりにしよう」 家にあったタバコ3箱とライター2個は友人にあげた。 灰皿は捨てはしないが、洗って、棚の奥に置いた。 よし、禁煙しよう。 目標としては一ヶ月。 一ヶ月やめられるならもうずっとやめられるのでは、とも思うけれど、とりあえず一ヶ月を目指す。あまりにゴールが遠すぎると、走る気すら起きないからね。 いやー、清々しい。 タバコに毒されていない空気。なんという美味しさだろう。閉めきった日の当たらない部屋なのに。 おお、コンビニ弁当ですら5つ星レストランの自慢の一品みたいだ。つまり5つ星レストランに行ければもっととてつもなくおいしいんだろうけど金がねぇ。 やった、タバコをやめたおかげで彼女ができたぜ! 来月にはこんな良いことばかりが起こる予定なので、それまではがんばろうと思う。 ただいまの禁煙累計時間:8時間。 目標までの禁煙累計時間:残り712時間 追伸:そろそろ限界です。 愛と恋の違いというのは色々と議論されている問題だ。 愛を辞書で調べると、『対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、その気持ちの表れ』とあった。 恋は、『異性に強く惹(ひ)かれ、会いたい、ひとりじめにしたい、一緒になりたいと思う気持ち』とある。 たいして変わらない。 ちなみに恋愛で調べてみると『男女が恋い慕うこと。また、その感情。ラブ。〔love の訳語〕』であるらしい。 たいして変わらない。しかもラブの語訳という答えは説明を投げ出している感すらある。ラブなんて愛でも恋でも恋愛でも、どうとでも訳せる。 そんな愛と恋の違いという問題に対して、世間では様々な答えが存在していて 「愛は真心であり、恋は所詮下心」 という、漢字のつくりからうまく考えているものや 「愛(I)はエッチ(H)の後でも続く気持ち」 という、アルファベットの順番を用いた高度なものまである。 うーん、なかなか奥が深い。 でも僕は、そう、これら有名な回答に代わる新しい答えを、週末の夜中に一人でベッドに横たわり時々タバコを吸いつつ雑音のようなロックを聞きながら、考え出したのだ。 『愛は自分から相手に会いに行きたい気持ち』であり 『恋は相手を自分のところに来させたい気持ち(来い)』なのではないかと思ったのだ。 どちらが優れているとか、どっちの方が深いだとかはない。 小さな気持ちの違いが愛と恋の違いなのだ(ババーン!) 「どう?こんなこと考えてみたんだけど」 「じゃあ愛か恋かはわからないけど、惹かれあっている二人がいたとして、その二人が会うためにどこか待ち合わせをしたとしよう。その場合は、お互いが「会い」に行っていると同時に、待ち合わせ場所に「来い」って言っているわけだろ?この感情はどっちなの?」 「その場合は『恋愛』だよ。愛と恋が同時にあるわけだからな」 「それだと結局愛と恋の違いなんて全然わかってないだろ。お前の回答は愛と恋と恋愛の三つに分けて考えてるじゃん。問題自体が変わっちまってるだろ」 「ぐ・・・確かにそうだ・・・」 「まぁお前の場合はそんな理論はどうでもいいから、恋愛をしろ。そうすりゃ愛も恋も恋愛も理屈じゃないってわかるからさ」 休日のベッドに一人横になり枕を涙でぬらしながらこんな文章を書いている僕に、もう愛でも恋でもなんでもいいので誰かください。 「認識観点の相違だね」とか言っておけ。 歴史認識というものはその国によって違うというのは当然のことだ。 日本ではヒーローである豊臣秀吉は、朝鮮半島の人から見ればただの略奪者だし、十字軍遠征だってこんなのはキリスト教の勝手な言い分だ。攻められた方はたまったもんじゃない。 事実は一つしかないとしても、それの持つ意味は一つじゃあない。 物事は多角的に見てこそ、初めてその意味が輪郭を持ち始めるのだ。 なのでエロDVDを借りてくるという行為に対して 「うわー、夜中に一人で見てニヤニヤしてるんでしょ」 と思うのはやめていただきたい。 カメラワークの研究かもしれないだろ! 性欲の発生メカニズムの調査かもしれないだろ! 一方的な角度から見た意味を押し付けるな! エロDVDを借りたのがバレた時のために、思春期の諸君は参考にしてもらいたいと思う。 実はまだ学園祭にいる。 学園祭には人が沢山押し寄せるのでとても好きだ。僕は人が多くてタバコが吸える場所が好きなので、僕が学園祭に行くのは必然といえる。 前に東京へ赴いた際、とくに何も用はないのに渋谷駅外でタバコを吸いつつ1時間半も座っていたスーツ姿の坊主とは僕のことです。傍から見たら待ち合わせの女性が来ない悲しい男です。 でも、なんで僕は大勢の人間を見るのが好きなんだろう。 それは多分、沢山の人を見ることで、多くの人生にほんの少しだけでも触れ 「ああ、世界にはこれだけ多くの人がいるんだ。僕は今ちょっと悩んだりしているけれど、悩んでいるのは僕だけじゃないんだ。僕の悩みなんて小さなことなんだろうな」 そう感じることができるからなんじゃないかと思う。 僕が他人から学ぶのはそういうことだ。 もちろん僕が勝手にそう学んだ気になっているだけなんだけれど、他人を見ながらタバコを吸いつつ考える時間は、僕にとっては掛け替えがない、大切な時間だ。 そうさ、誰にも僕の今を邪魔することはできない。 学園祭に集まる人達の笑顔を見ながら、考え事をする大切な時間を邪魔なんてできるものか! プルルルル。友人からの電話だ。 「なぁ、今なにしてた?これから酒飲みに行かねぇ?」 「行く行くもちろん!いや、なにもしてなかったよ、暇で暇で」 また学園祭にいる。 10月9、10日と開催された学園祭の二日目に僕はいる。 そこで僕はステキな女性と一緒に模擬店の焼きそばやたこ焼きを美味しく食べ歩き、お喋りを満喫しつつ、訪れる夜は長いぜフフフ、という楽しい時間を過ごしていた。 無礼講なので妄想くらい勘弁してもらうことにしよう。 学園祭企画の一環で、中国雑技団が来てなにやらすごいことをいろいろやってくれた。 例によって僕はやさぐれながらタバコを吸いつつそれを眺めていた。 その様々な技の中で 「椅子を何個も重ねていって最後に一番上で逆立ちをする」 というものがあった。 どれだけ練習したら出来るようになるのかはさっぱりわからないけれど、もしこの技ができたら楽しいだろうなと思う。この技を披露して拍手喝さいをもらっていた雑技団の人のように、僕だって人気者になりたい。 例えばカフェなんかで合コンをしたとしよう。 酒も進み、話もはずんていたけれど、ちょっと流れが止まってしまった。 そんなときに僕はおもむろに椅子をどんどん上に重ねていく。 「フフフ、彼女達、驚くぜ」 ポカーンとする女性達。 せっせと椅子を重ねて上る僕。 血相を変えて走ってくる店員。 「なにやってんですかアンタ!危ないでしょ!」 「いや、これから僕がこの上で逆立ちを・・・」 「できるわけないでしょ!降りて降りてよ」 しぶしぶ椅子から降りる僕。 ポカーンとする女性達。 人気者への道は遠く険しい。 今の僕では想像もつかないほどの努力をして身につける「椅子の上での逆立ち」をマスターしたとしても、ゴールはまだまだ、地平線の彼方だ。 まだまだ学園祭にいる。 僕は道行く人を見ながら「あの人は昔はジュリアナ東京で踊っていたな」とか「あの人は昔、夢に挫折して、やりたくもない仕事を今一生懸命やっているんだな」とか勝手に想像して楽しむ偏屈者なんだけれど、そんな僕が大学の学園を眺めながらタバコを吸うことが苦痛であるはずがない。 学園祭の企画の一環として、校内だけで流しているラジオ放送をやっていた。そのラジオ放送は音だけ流すのではなく、収録現場がメインステージの近くにあるために誰でもそれが見れるようになっている。。ラジオはもちろん生放送で、多くの人がそれを見ていた。 企画内容は、ホストに扮した学生であろう人3人が、一人の女性を口説き落とせるか、というものらしい。 中身はバカバカしいもので、その女性は 「私が出すお題に、一番おもしろく答えた人と付き合う」だとか 「万歩計を付けてパラパラを踊って、一番歩数表示が多い人と付き合う」 とか言っている。ラジオ放送がメインなのにパラパラの歩数表示ってどうなんだろうとかいう冷静な判断力は学園祭には必要ない。必要なのは深く考えないようにする思考のシャッターだ。 階段に腰を下ろし何本目かわからないタバコを吸いつつ収録風景を見ていると、収録が終わり、セットを片付けはじめた。しかし先ほどまでバカをやっていた女性と、ホスト役をやっていた3人の姿が見えない。 放送も終わったし、切れてしまったタバコを買うために僕はコンビニへ向かった。座っていた階段から立ち上がり、学校内の細い道を通っていると、途中に先ほどの女性とホスト3人とスタッフらしき学生が立ったままなにやら話し合っているのが見えた。 「大喜利であの答えはないだろ!」 「パラパラ中に万歩計を落とすなんて、しっかり固定しときなさいよ!」 「お前もうちょっと大きく動けよ、遠くの人から見えないだろ!」 コンビニから出た僕は、すぐタバコを一本取り出して口にくわえ、火をつけた。 真面目にふざけるというのも大変だなと感じると同時に、僕はこうも思ってしまった。 「でも、それほどおもしろくはなかったなぁ」 まだ学園祭にいる。 僕は人の流れを見ながらタバコを吸うのが大好きという悪趣味保持者であり、学園祭に集まる人を見ていると退屈なんてまったくしない。 学園祭に来る人というのは3種類に分けることが出来る。 「暇つぶし」 「ナンパするのが目的」 「ナンパされるのが目的」 かなり偏見に満ちているけれど、その辺は無礼講なので許してもらいたい。 僕が10段程度の階段の一番上に座ってタバコを吸っていると、僕の3段下に女性三人組が座った。美人さんの三人組だ。 その三人組に言い寄ってくる男二人組み。ナンパ目的だろう。でもその男達は全然相手にされないまま、どこかへ行ってしまった。 突然盛り上がり始める女性三人組。どっちの男がどうだったとか、そんなことを言っている。うーん、結構良い根性をしている。他人の話を盗み聞きしている自分のことは棚に上げる。 今度は男三人組が女性達に声を掛ける。しかし男達はまたあっけなく去っていく。 再び熱を帯びる女性達の会話。 その後何組かが話しかけているようだったけれど、全然相手にしない。 追い払ったあとに盛り上がる女性達。 すると向こうから二人組みの女性が来て、僕の3段下に座る女性達に声を掛けた。 「どうだった?」 「うーん、中途半端な男ばっかり」 「あんた達が三人で座ってるからだよ。二人の方が言い寄ってくる男がいいよ」 「へぇ、じゃあ私達二手に分かれようか?」 「そうしよう。私は一人で座っててみるよ」 「うん、それじゃあまた後でね」 そして去っていく二人組の女性と、三人組から分派した二人の女性。 先ほどまで三人いたところには、一人だけが残って座っている。 そんな一部始終を眺めながら、僕はこう思ったのだ。 「あ、一人になった女性、きれいだなぁ。声掛けようかなぁ・・・」 どんなにまずくてもお客さんから文句を言われない飲食店はどこでしょう? 答えは「学園祭の模擬店全部」だ。いきなり毒を吐いてみた。 僕の通う大学が学園祭をやっているので行ってみた。結構人がいるし、楽しそうな空気が漂っている。この雰囲気は僕は好きだ。 チャイナドレスを着た男が焼きそばを売るというさっぱり意味のわからない店もあれば、女子高生の格好をしたいろんな意味でギリギリの女性がたこ焼きを売っていたりする。模擬店も楽しそうだなと僕はタバコを吸いつつうろうろしていた。 僕の友人がやっている店を見つけ覗く。そこでは焼き鳥を売っている。 友人に声を掛け、一本だけもらう。 「へぇ、けっこううまいな」 「すぐそこのスーパーで買ってきたやつを焼きなおしてるだけだからな。3倍の値段だけど」 かなりギリギリだ。 フリーマーケットの延長線上みたいな古着屋があったり、季節外れのカキ氷屋があったりする学園祭。 金(ぼったくり)と欲望(女装と女子高生もどき)が渦巻く学園祭に、さぁみんなも繰り出そう。 よろしくお願いします。 個人情報保護の意識が高まっているせいか、国勢調査がなかなかうまくいかないということをニュースで見た。たしかに個人情報の塊を国とはいえ渡すというのは結構抵抗があるだろう。 しかし僕も、こんなブログをやっている端くれとして、自分のブログをどういった人たちが見てくれているのかということは正直気になる。個人情報保護ということとは少し相反してしまうけれど、一度調べてみたいなと考えていた。 そこで今回は簡単にだけど、調べてみようと思う。 下に3つの質問を用意してみた。この質問に答えて、ぜひコメント欄に寄せてもらいたいと思う。 Q1「あなたの性別は?」 A:男 B:女 Q2「あなたの年齢は次のうちどれに該当しますか?」 注意:この質問はQ1でBだった方のみお答えください A:0〜19歳 B:20〜28 C:その他 Q3「あなたの電話番号とメールアドレスを下の空欄に記載してください」 注意:この質問はQ2でBだった方のみお答えください よろしくお願いします。 木の敵。 10月8日の今日は木の日らしい。これは木造住宅や木の良さを再確認するために、昭和52年に木材青壮年団体連合会などが制定したらしい。うん、たしかに木にはプラスチックや鉄にはない温かさがあるし、木目なんかはデザインとしても優れていると思う。 でもなんで10月8日が木の日なんだろう。 僕が見たページにはこう記されている。 「十」と「八」を組み合わせると「木」の字になることから、この日が選ばれました。 なら8月10日でもいいのかとか、11月8日は本の日になるのかとか、そういった野暮なことはいいっこなしだ。いいじゃない。木のすばらしさを伝えたいという気持ちは理解できるじゃないか。日付なんていつだっていいんだ。木は日付なんかに関わらず、いつだってすばらしいんだから。 大抵こういう記念日というのは語呂合わせで決めることが多い中で、あえて漢字を組み合わせて作るという斬新なことをやってのけた。これはもう感嘆の意を表すしかない。 「き」という一音なので語呂合わせのができずしょうがなく無理矢理やったんじゃないの、などという的確なツッコミはいらない。 人間が生まれるよりも前から地球上に存在していたであろう木。 そんな木達は僕にも恩恵を与え続けてくれている。 僕は家での食事は全部「割り箸」で済ませているからだ。 いやぁ、箸を洗うのがめんどうくさくて。100膳で100円って安さだし。 「日本の未来は結構暗そうだよなぁ」 「そうか?」 「そうだよ。少子化で将来は子供のほうが少なくなるみたいだし、年金だって納める人の方が少なくなるんだぞ。そうなったらお年寄りはもらえなくなるんだ、俺たちだよ。あと政府の使い方にも問題はあるんだろうけど、税収も減る一方だから増税をせざるを得ないだろうし」 「へぇ」 「仕事も少ないかもな。新しい雇用なんてなくなるかもしれない」 「それを全部一発で解決する方法なら思いついたけど」 「バカ言えよ、あるわけないだろ」 「簡単だよ。みんながタバコを吸いまくればいいんだ。そうすりゃ中年になったころにみんなバタバタ死んでいくから結果子供の方が数が多くなるし、年金だって長年納めてやっともらえるって年に死んでいくんだ。タバコ税が増えて税収も増えるし。 で、6000万人くらいがタバコを吸えばポイ捨てするヤツも多いだろ。そのゴミを回収する業者は雇用をどんどんする。な、全部解決だろ?」 うまかったけれども。 涼しくなってきたことだし、温かいうどんが美味しい季節だ。そう思いお昼に友人と二人、前々から行こうと決めていた、かきあげが大きいといううどん屋へ行った。 そして二人共かきあげうどんを注文する。 運ばれてくるかきあげうどん。うん、大きすぎてどんぶりに入りきってない。予想以上のでかさだ。僕の夢よりは少し小さい程度といったところか(惚れるところ) そして食べ始めようとして気付く現実。 かきあげをある程度食べないとうどんが食べられない。揚げたてでサクサクしているので無理矢理うどんの下に埋めることもできそうにない。 目の前にそびえる、どんぶりから溢れ出すかきあげ。 まるで留まるところを知らず溢れ出る僕の未来のようだ(惚れ直すところ) 仕方なくかきあげをかじり始める僕ら。 サクサク・・・サクサク・・・サクサク・・・。 「うまいな、かきあげ」 「うん、うまいよ、かきあげ」 「・・・うまいんだけどさ、なんか見た目だけで俺腹いっぱいになってきたんだけど」 「ばか、お前まだうどん食べてないだろ」 「うん、そうなんだけどさ」 そしてやっとうどんに到達する。 やった、待ちに待ったうどんだ。よし、食べるぞ。 せっかくうどんを食べたんだけど、すでにちょっとかきあげでお腹が一杯になり始めている。 例えるならいきなり2杯目のビールを飲んだという感じだ。ビールは1杯目が最高なのに。 ある種の矛盾すら抱え込むかきあげうどんがそこにはあった。 書くことがまったくない。 今日は一日学校でつぶれて、しかも特にこれといって書き記すような出来事もなかったし。 うーん、何を書こうか。やべぇ、何にも思いつかない。 音楽でも聞きながら考えよう。そうだ、買ってからほとんど聞いていないCDがあったな。それ聞こう。今まで思いつかなかった新しい発想が生まれるかもしれない。 ・・・・・・。 うおー、かっこいい。なんで今までこれを聞いていなかったんだ。明日から毎日聞こう。すげぇ、名盤だ名盤。携帯プレイヤーに入れとこう。 おっと、CDが終わっちゃったな。うーん、音楽に集中しすぎて全然ブログに書く内容のことをまったく考えていなかった。ここは今まで散々聞いたCDを聞いて、安定した発想力を得よう。 ・・・・・・・。 うーん、やはりこれは何度聞いてもいい。名盤だな、名盤。 これを聞くとライブ会場に行っている気分になれる。一緒にこぶしを振り上げたくなるな。くそ、ここで大声で叫びながら聞きたいけど、さすがにそれはまずいし。 あー、ライブ行きたいなぁ。夏のサマソニ以来行ってないし。あれは楽しかったなぁ。炎天下で飲んだビールも最高だったし。 またブログのこと忘れてた。あー、なんも書くこと無い。ネタがないなぁ。ネタなんて初めからないんだから、書くことなんて無いんだよ、もー。 さっきのCD、もう一度始めから聞こう・・・。 僕は毎日こんなことを考えながら生きています。 街には英語が溢れているし。 いくら英語教育が義務だからといって、どれだけ英語が普及していると言ったって、まだまだ日本人で完璧に英語を話せる人は少ない。 しかし『I can not speak English』だけはかなりの人が言えるのではないだろうか。 日本語に訳すなら『私は英語を喋れませんよ』という意味の一文だ。 かなりネガティブ。 「俺は英語話せないんだから勘弁してよハハハ」ということをわざわざ英語で覚えている。 これを言われた相手はかなり困ると思う。 例を挙げてみる。 例えば僕がフランスに旅行をしたとする。宿泊するホテルの場所がどうしてもわからないので誰かに道を尋ねたい。だけどフランス語なんてわからない。仕方がない、日本語で尋ねてみよう。 「すみません、オースシホテルってどう行ったらよいのでしょうか?」 「オー、ワタシハ日本語ヲシャベレナイデス」 喋れてるだろ、なんだよ、日本語わかるじゃねぇか。教えてよ、なに、いじわるしてんの? そう感じてしまわないだろうか。 しかしこんな話は聞いたことがない。 日本で外国人に道を尋ねられれば必死に英語で拒否をする日本人。 外国で道を尋ねるときには必死に英語を交えて身振り手振りで教わる日本人。 アメリカ人とイギリス人には 「日本人って英語ばかり喋ってるよね。日本語ってなに、なくなったの?」 そう思われていたりするかもしれない。 I can serve it in Japaneseですらかなり危うい。 近所の薬局へ行くとそこの店員さんの名札の名前の上に 『私は英語で接客ができます』 と書いてあった。 確かに最近では日本で暮らす外国の人は多いだろう。 世界共通語とも言える英語だ。日本人だけでなく英語しか話せない人の接客も可能になるならば、その店は世界中で通用する店とも言えるかもしれない。 ただ一つ問題があるとすれば、それは英語しかわからない人がはたして 『私は英語で接客ができます』 という日本語表記を読め、しかも意味がわかるのかということだ。 『Je peux le servir en Japonais』 例えば僕がフランスに旅行をして、その店先でこんな札をした店員がいたとする。だけど僕はとても意味なんてわからない。そもそも読もうとも思わない。 だから「ええと、石鹸欲しいんですけど、どこにあるんですかね?」なんて日本語でたずねてみる勇気なんてない。日本語が通じるわけ無いなと思い込んでいる。 『私は英語で接客ができます』の下に 『I can serve it in English』とでも書いてあれば完璧なんだけれども、そこまでは気が回らなかった近所の薬局。 がんばって親切心を出したのに、ちょっと空回りしてしまっている。 だけどそのがんばりは見習うべきだろう。今回はちょっと失敗してしまっただけだ。 僕も空回りなんて恐れず積極的に親切をしていこうと思う。 日本人でよかったと思う瞬間が多々ある。 さんまの塩焼きを食べると本当に日本人でよかったなと思う。あんなに美味しいものはなかなかない。ごはんを食べながら味噌汁をすするのも最高だ。疲れているときにお風呂に入ることなんかも結構いい。 でも僕が一番日本人でよかったと感謝する瞬間は「やきとりを食べながらビールを飲んだとき」だ。 自分でもかなり微妙な感じ方だとは思う。ビールは全然日本のものじゃない。 日本製のビールと、海外ビールは味が違う。どう違うとかはわからないけれど、日本のビールの方が僕は好きなので、たぶん日本人好みの味に改良しているんだろう。 大きな目で見れば、ビールも日本の物と言えるかもしれない。それなら僕がやきとりビールで日本人を感謝しても全然おかしくない。 だから僕は 「日本人でよかったと感じる瞬間はいつ?」 という質問には胸を張って 「やきとりを食べながらビールを飲む瞬間」 と答えたいと思う。 もしかしたらアメリカあたりでは、アメリカ人好みに味付けしたお寿司を食べて 「おお、アメリカ人でよかった」 と感じている人もいたりするかもしれない。 また部屋にゴキブリが出た。 ここ一ヶ月で2回もバルサン攻撃をしたのに、その翌日にゴキブリが出現したりする。 おかしい。今までは半年に一回襲来すれば多いほうだったのに。なんでだ。 別に部屋がいつも異常に汚いわけじゃないし、そもそも最近はキッチンじゃなくて部屋にでる。こんなところに餌なんてないのに。あるのは小説とCDとエロ本だけなのに。 もしかしてゴキブリにバルサン耐性でもできたのだろうか。親子何代にも渡って遺伝子改良をしたか。くそ、ご苦労なことを。 もしかして僕がバルサン攻撃をするキッチンの水周りじゃあなくて、僕の部屋に小さな通路でもできたのだろうか。ちくしょう、非効率なことをしやがる。 そして昨日見つけたゴキブリは、倒す前に見失って、いまだにどこへ行ったのかわからない。 もしかしたら今、僕の頭上を這い回っているかもしれない。 僕が寝ている間に、僕の横であいつも一緒に寝ているかもしれない。 僕がカチカチと打つしょうもないテキストを覗き見しているかもしれない。 「なんだあいつ、文章書いてやがるな、つまらないけどどうせ暇だし、これからちょくちょく覗きに来るかな」 汁が出るまで叩き潰して殺す。 |