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2006年6月12日 午前4時33分

 西岡元(にしおかはじめ)はガードレールに寄りかかって立ちながら、天を仰ぐようにビルに設置されている大型ヴィジョンを見つめていた。足元には灰皿代わりに缶コーヒーの空き缶が置かれていた。元はジーパンのポケットからシワくちゃになったたばこの箱を取り出すと、一本取り出して口にくわえた。右手でたばこを隠すように包み込み、左手に持ったライターで火をつけようとしたところで、そういえば五分前に禁煙の誓いをしたことを思い出し、元はたばこをくわえたまま再び大型ヴィジョンに目を向けた。大型ヴィジョンには先ほどからずっと同じアナウンサーが悲しそうな顔を浮かべ、ずっと同じニュースを読み続けていた。グレーの上着と白いワイシャツ、紺と薄い黄色のストライプ柄のネクタイ。印象的ではないけれど、はっきりとしてよく聞き取りやすい声。彼は同じニュースを読むたびに、俺はその事実を今初めて知ったんだ、という風に悲しんでいた。あるいは彼は自分がさっき同じニュースを読んだことを本当にきれいさっぱり忘れてしまっているのかもしれなかった。元はくわえていたたばこにライターで火をつけた。
元はつい30分ほど前まで大学の友達5人と一緒に新宿のカラオケボックスで夜通し飲んでいた。今は午前の六時。アパートに帰ったところでどうせ誰もいないのだ。どうせ誰もいないのなら広いところの方がいいと考えた元は、友達と別れたあと、平日早朝の新宿駅前の大型ヴィジョンの下で、コンビニエンスストアで買った缶コーヒーを飲みながら、たばこを吸い始めた。夏も目前となり、カラオケボックスを出たときにはもう完全に日は昇ってしまっていた。なにもすることがなかったので元は道行く車のナンバープレートの下一桁の数字を覚え始めた。35783846623990992468。20台分の下一桁を覚えても自分の名前と同じ、はじめ(1)が来なかったために、元はムキになって1の車が来るまで覚え続けてやると決心した。だけどその次に来たタクシーのナンバープレートの下一桁が7だったのを見たとたん、数字なんて突然どうでもよくなって、覚えるのをやめた。そしてそのまま30分近く元はなにをするともなく、ガードレールに寄りかかって立ってみたり、地面にしゃがみこんでみたりしながらたばこを吸い、大型ヴィジョンを眺め続けていた。元から50mくらい離れたところでは、数羽のカラスが一生懸命餌を漁っていた。大型ヴィジョンの中ではまた、もう何度同じことを言ったのかわからないほど読み上げられたニュースを繰り返した。
「・・・を発表しました。繰り返します、本日午前4時33分ごろ、上野動物園内で、キリンの体がライオンの体に、ライオンの体が兎の体に、兎の体がカンガルーの体に、カンガルーの体がキリンの体に変わってしまうという事件が発生しました。この事件は今朝、上野動物園に勤める飼育員の男性がキリンの小屋を見回りした際に、いつもと様子が違うと感じたことから発覚し、続いてライオン、カンガルー、兎の順に事件が広がっていることを確認したとのことです。その後の調査で、日本国内5箇所の動物園で同様の事件が発生していることがわかりましたが、詳しくは未だ調査中です。また、キリン、ライオン、兎、カンガルー以外の動物には今のところ同様の現象は確認されておりません。そして先ほど日本政府は非常事態宣言を発表しました。また詳しい情報が入り次第、この事件の続報をお送りいたします。繰り返します、本日午前4時33分ごろ、今から約1時間半前になりますが、キリンの体がライオンの体に、ライオンの体が兎の体に・・・」
 アナウンサーはまた、とても悲しそうな顔をした。
キリンの体がライオンの体に、ライオンの体が兎の体に、兎の体がカンガルーの体に、カンガルーの体がキリンの体に変わるって、いったいどうしてそんなことが起こったんだと元は思った。でももちろん彼にはまったく想像もつかなかった。
西岡元は考えた。キリンの体がライオンの体に変わったということは、ライオンの体をもったキリンということになる。つまり高い木の葉っぱを食べようと思ったって首が全然届かない。一体どうすればいいんだ。それにライオンも狩りをしようとしたって、自分の体が兎になったら逆に自分が狩られてしまうだろう。兎は周りの音が全然聞こえないことに絶望的なまでの恐怖を覚えるだろうし、カンガルーにしても自分がどれだけ高くジャンプしても届かなかった視点から世界を見ることになるわけだ。今まで自分で築きあげてきたものをすべて他人に譲って、今まで他人が築き上げてきたものをもらう。それは一体どんな気持ちがするのだろう。
でももしかしたら、動物園でただぬくぬくと過ごしていたキリンもライオンも兎もカンガルーも、自分の体がどうなろうが興味なんてないのかもしれない。動物園で暮らす動物たちには狩りも敵に襲われる恐怖もないのだ。毎日決まった時間になれば餌が自動的にでてくる生活には、自分の体の形状や能力などというものは全く意味を成さない。
 出勤時間が近くなってきたためか、ついさっきまで人影がまばらだった通りを、いつのまにか多くの人間が歩いていた。若い男、年を取った女、若い女、年を取った男。その4種類の人間で構成された人ごみの中に西岡元は飲み込まれた。


 坂田エス(さかたえす)は坂田香織(さかたかおり)の部屋のドアをノックした。リビングのソファーで眠ることが多いエスだけれど、たとえどこで眠ったとしても、必ず午前六時少し前に目を覚まし、毎日二階にある香織の部屋を訪れた。ノックをして香織にドアを開けてもらい、香織と一緒にベッドに入って、もう一度眠る。それが坂田エスの習慣だった。
 坂田香織は自分の部屋のドアから聞こえるガリガリという音で目を覚ました。香織はカーテンを完全に開け放って眠るために、部屋の中にはもう完全に日が差していた。部屋の中央に置かれた丸いガラステーブルは眩い光を放っており、部屋の中に小さな太陽があるみたいだった。小さな太陽は真っ白な壁を照らし、勉強机を照らし、本棚の中に並べられているハードカバーの本を照らし、香織の長い黒髪を照らしていた。ドアノブから響いてくるガリガリという音は続いていた。
 香織はパジャマ姿のままドアのところまで歩いていき、ノブを回して引き寄せるようにドアを開けると、眼下にはいつものようにエスがいた。エスはあくびをするように、体を弓なりに大きくそらしてから、香織には背を向けて今来たばかりであろう階段の方に向かって歩いていってしまった。香織は違和感を覚えた。いつものエスなら、発車間際の電車に乗ろうとしている人みたいに、急いで部屋の中に入ってきて、彼女のベッドを我が物顔で占領するのに。少なくともこの一年以上、エスがこの習慣を守らなかったことなんてなかったし、午前六時にエスを部屋に引き入れて自分も再び眠りに就くのは香織自身の習慣にもなっていたのに。以前よりもかなり太ってしまったエスの真っ黒な体は転げ落ちるようにすばやく階段を駆け下りていった。結局猫なんて気まぐれなのかなと香織は思った。なんだか眠気も覚めてしまったために、香織はいつもより一時間以上も早くリビングに下りて行った。香織が顔も洗わず、トイレにも寄らずに、リビングのドアを開けて中に入ると、隣のキッチンにいた母親が包丁の手を止めて驚いた声を上げた。窓の外にはカラスが4羽飛んでいた。
別にないよ、私だってたまには早起きくらいすることもあるの、と面倒くさそうに香織は答えると、ソファーの前に座り込んで、エスの姿を探した。彼はまだ読まれていない新聞が置かれていたテーブルの下にもぐり込んで、何かを睨んでいた。彼の目線の先にはアナウンサーが悲しそうな顔をしてニュースを読む姿があった。香織は新聞に手を伸ばすと、テレビ欄が見えるようにして床に広げ、今日の夜はなにか面白い番組があったかなと探し始めた。耳にはアナウンサーがニュースを読み上げる声が入ってきた。
「・・・を発表しました。繰り返します、本日午前4時33分ごろ、上野動物園内で、キリンの体がライオンの体に、ライオンの体が兎の体に、兎の体がカンガルーの体に、カンガルーの体がキリンの体に変わってしまうという事件が発生しました。この事件は今朝、上野動物園に勤める飼育員の男性がキリンの小屋を見回りした際に、いつもと様子が違うと感じたことから発覚し、続いてライオン、カンガルー、兎の順に事件が広がっていることを確認したとのことです。その後の調査で、日本国内5箇所の動物園で同様の事件が発生していることがわかりましたが、詳しくは未だ調査中です。また、キリン、ライオン、兎、カンガルー以外の動物には今のところ同様の現象は確認されておりません。そして先ほど日本政府は非常事態宣言を発表しました。また詳しい情報が入り次第、この事件の続報をお送りいたします。繰り返します、本日午前4時33分ごろ、今から約1時間半前になりますが、キリンの体がライオンの体に、ライオンの体が兎の体に・・・」
 香織は視線をテレビ欄からテレビへと移した。アナウンサーはまた同じニュースを読み始めた。キリンがライオンに? ライオンが兎に?   坂田香織は考えた。もし私の体とエスの体が入れ替わってしまったらどうなるだろうか。もう高校に行かなくてよくなるのは間違いない。志望大学に入るのはお前の学力じゃあ難しいななんて担任から脅されることもなくなるだろう。母親から(坂田香織の母親から)ご飯をもらって、家でごろごろしているだけでいい。友達と遊べなくなるのは嫌だし、密かに思いを寄せる好きな男子に会えなくなるのは身を引き裂かれるように辛いけれど、でももし本当に私の体が黒猫になってしまったとしたら、そんなことはどうでもよくなってしまうかもしれない。
 私の体に入ったエスはどうするだろう。エスは体が変わってしまったことに気がつくだろうか。まったく普段通りに、素っ裸でソファーに寝転んだり、本棚の上に飛び乗ったり、毎朝六時に私の部屋に入ってきたりするだろうか。そんな姿を両親に見られたら(両親は私の体にエスが入っているなんて知らないから)大変だろうな。
 香織はテーブルの下を覗いた。エスはもうそこにはいなかった。


 三村伸(みむらしん)が目を覚ました時、部屋は黒い靄に包まれていた。朝日は厚手のカーテンに遮られていて、まるで夕方なんじゃないかと勘違いしてしまうほど部屋の中は暗かった。枕元に置いておいた携帯電話を手に取り時刻を確認しようとしたけれど、携帯電話のディスプレイには何も表示されていなかった。伸は眠り続ける携帯電話を枕の下に埋めてしまうと、上半身を起こし、三秒間宙を仰ぎ、ベッドから転げるように降りて、一年中出しっぱなしのこたつの上に置かれていたテレビのリモコンを手に取り、もぞもぞとベッドの上に戻った。ベッドの上で壁に寄りかかって座った体勢になり、テレビの電源を入れた。テレビから放たれた光は、こたつを挟んで部屋の反対側に座っている伸の目に届いた。テレビの上に置かれている黒ぶちの四角いアナログ時計は、一週間前からずっと3時15分を示し続けていた。午前3時15分なのか、午後3時15分なのか、伸はわからなかった。
「・・・を発表しました。繰り返します、本日午前4時33分ごろ、上野動物園内で、キリンの体がライオンの体に、ライオンの体が兎の体に、兎の体がカンガルーの体に、カンガルーの体がキリ」
 画面左上に6:02と表示されていたのを確認すると、伸はテレビを消し、リモコンを枕元に置いた。そうか、今はまだ6時2分なのかと伸は思った。それならあと2時間近く眠ってからでも十分バイトには間に合うな。それにもし今が午後の6時2分だとしたら、どうやったってもうバイトには間に合わないんだ。
伸は横になると、首の上までしっかりと毛布をかけた。枕の下に置かれた携帯電話が少しごつごつして気になったけれど、伸はすぐに再び穏やかな眠りについた。


 東山美樹(ひがしやまよしき)はその日は出張で、早朝から空港に向かって車を走らせていた。赤信号で停車したときにカーナビをテレビに切り替えると、アナウンサーがニュースを読み上げる声が聞こえてきた。



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