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2005年6月2日 『コイビトドウシ』

『今僕の隣に座るやつがぐーぐーいびきをかいて寝てるよ。彼の家のベッドは大学の机よりも硬いんだろうね。こんなところで熟睡できるんだから』

 カチカチと親指で携帯電話のボタンを押し、僕はメールを送信した。ゴールデンウィーク開け一発目の大学の講義。僕の隣の男のように寝ている人もいれば、授業とはまったく関係のない本を開いている人もいる。数人で小声で会話しているグループもある。暖かい陽気と広く明るい大学の講義室で、僕は一番後ろの左端の席に座り、ただメールを打っていた。朝食を食べてこなかったので、講義なんてサボって、早めの昼食を食べに行きたいと考えていた。講義をする先生には悪いけれど、僕には今どうしても文学者の倫理意識なんてものに興味は持てなかった。

 携帯電話が突然震えた。マナーモードに設定してある携帯電話がメールを受信したらしい。僕がメールを送信してからきっかり三分。先生からは見えないように、机の下で携帯を開き、受信したメールを読んだ。

『その寝てる人、寝るくらいだったら大学に行かなかったらいいのに。それとも睡眠学習のつもりなのかな』

 僕はそれに対して返信をした。

『たぶん彼は教授の話している内容が低レベルすぎて聞く気がおきないんじゃないかな。俺はこんな幼稚な講義のために高い授業料を払っているわけじゃない、ってね。それでふて寝をしているのかもね。これから昼食を食べてくるよ』

 けだるそうにしながら本を開いて講義している先生は、今にも暖かい日差しに包まれて溶けて消えてなくなってしまいそうだった。そんな彼を横目に僕は静かに席を立ち、講義室を出た。先生が溶けてしまうことはなかったし、隣で寝ていた男が突然起き上がって「お前の講義は幼稚なんだよ」と声を荒げる光景も僕はついに見ることができなかった。

 携帯電話がまた着信を告げるランプを光らせている。

『お昼ごはんはなにを食べるの?私最近パスタにはまっててね、あとポップコーン。太るっていうのはわかっているんだけど、つい食べちゃうよね』

『今あんまりお金がないから学食でA定食でも食べようと思ってる。つまり飢え死にしないようにお腹に物を詰め込むだけだね。そのあとはフランス語の講義だけど、今日は全然フランスに興味が持てないから本屋にでも行って立ち読みをしよう』

 僕は学食で、ご飯と味噌汁と白身魚のフライとポテトサラダの形をした物体を胃に押し込めると、外に出てマルボロに火をつけた。大学の目と鼻の先にあるブックセンターに向かって足を動かしはじめた。トレーナー姿で歩く人や、薄手のコートを纏っている人など、まだそこには寒かった時代の名残を見つけることができるが、やはり陽気な気候の一大騎馬軍団に、寒さなどという少数歩兵は太刀打ちできるはずもなく、夏の到来は時間の問題だった。

『フランス語を話せたらすごいかっこいいよね。使う場面は少なそうだけどさ。シャンゼリゼ通りとか凱旋門とか有名だよね』

『タバコがフランスでしか買えないような状況になったら困ると思ってね。僕は結構心配性なんだよ。それに禁煙するよりはフランス語を覚えるほうが幾分簡単だからさ。本屋に行ったらディスト・クーテンバーの新しい翻訳小説を買おうと思う』

『ディスト・クーテンバーってあのメロンの木を書いた人だよね。私あれ読んで結構泣いちゃったよ。あんな恋愛してみたいな』

『君は僕との恋愛じゃダメらしいね。じゃあ僕もがんばってメロンの木を育ててみるよ。できたメロンは君に送る。気長に待っていてほしい。クーテンバーは風車の歌がおすすめだから、今度読んでみてよ』

『じゃあメロンが送られてくるまでは私達別れることにする?・・・もちろん冗談。風車の歌は本屋で探してみるね。またメール待ってるよ』

『冗談でよかった。メロンの木を育てるのは結構大変そうだからね。今日はもう大学に行くのをやめて君とずっとメールをしていることにしたよ。もちろん君が今日一日ずっと暇だったら、という話だけれど』

 僕はブックセンターで音楽雑誌の立ち読みをしていたけれど、本に集中することなく、カチカチとメールを打ち続けた。彼女から送られてくるメールは短く、内容も重要なものではなかったけれど、僕の心を満たしたし、送れば送っただけ返してくれる彼女を愛しいと再確認もした。彼女がいなかった半年前までは僕の体には無数に穴が開いているように、何をしていてもつまらなく、穴から何かがこぼれ続けているような感覚に襲われていたが、今はそんなことはない。人生で一番満足している半年間だし、幸福、という意味を初めて本当に知ったように気になっていた。

 僕は目的の本を探し出し、レジに持っていった。レジにいたのは男性店員一人で、若い女性客に対して会計をしている最中だった。僕は彼女の後ろに並んで会計を待つ間、レジの前に張ってある一枚の大きなポスターを見るともなく眺めた。そこには携帯電話が開かれている大きな写真とともにこんな文章も一緒に印刷されていた。

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 僕はレジに本を置いてお金を払った。その時また携帯電話がメールを受信した。

『私今日は一日暇だからどんどんメール頂戴。あなたのメールを読むのはとっても楽しいからさ』



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